第8話
JR新宿駅に着く。初めて夜の歌舞伎町というものを歩いたけど、今やすっかり風俗産業がなくなってしまったので、意外と治安が良くて安全に歩けた。逆にラブホテル産業が今はうなぎのぼりに売り上げを伸ばしていて、ラブホテルのキャッチがうざかった。でも、ワタル君がすべて適当にあしらってくれたので、やっぱり頼りがいのある男の人だなと思った。
「じゃあ私は小田急だから」
美園先輩は小田急線の改札に向かって、バイバイと手を振りながら帰っていった。
「俺は埼京線に乗っていくんで」
「あ、私も中央線なんですよ」
「一緒なんですね」
「ええ」
「……家に帰ると一人なんで、ちょっと夜の散歩に付き合ってくれませんか」
彼は何か恥ずかしそうな顔をして、私を夜の散歩とやらに誘ってきた。もしかしたら、歌舞伎町にカムバックなのではないのかと、疑い半分、期待半分の気持ちで返事をした。
「いいですよ。前までおうちが厳しくて、夜の新宿は初めてなんですよ」
女子校なので、男性と二人きりで夜の散歩をするのはもちろん、父親以外の男性と話すのも久々だった。別に彼氏という訳では毛頭ないが、ルンルン気分でお誘いにのった。もちろん、今は離婚しているし、私も大学生だし、帰りが朝だろうと許してくれるだろう。
二人で南口から出て夜の新宿の街を歩く。きらめく街の中を、電車が駆けていく。街灯が、今や何かしらのイルミネーションに見えてくるぐらい、私は浮足立っていた。何しろ、さっき、私の変態的な絵を、縄で縛れた女の絵を、無条件に褒めてくれたんだよ。このゾクゾクを分かってくれたんだよ。
「ヒカリちゃんは、美大生なんでしょ?どうしてこんな進路を選んだの」
改装された公園のベンチに座って、二人高層ビルの灯りを眺めてながら、ワタル君がそう聞いた。
「あ、で、ヒカリちゃんって呼んでもいい? 今更だけど」
「いいですよ」
「あと大学生ってことは歳近いよね? 意外とこの職場おっさんおばさんが多いからさ、俺大学四年だけど、普通にタメでいい?」
「いいよ。私もワタル君って呼んでいい?」
「もちろん」
蛍光灯が顔を照らす。冷たい風が吹いて、彼の茶髪をなびかせる。電子タバコを取り出して、でも電池は付けないで、私に話を振ってくる。
「で、さっきの話。絵を描くのは上手いけど、ヒカリちゃんって結構いいとこの中学じゃない。反対とかされなかったの」
「そりゃもう当時はされたけど、やっぱり絵を描くことが好きだし。それを続けていきたかったし、仕事にしたい。自分の美術っていうのはまだ見つけていないけど、やっぱり何かこの世の中に一つ爪痕を残したい」
「いいな、それぐらいの決断力がさ、大学一年ぐらいのころからあって」
彼の藍色の瞳の色が、さきほどより一層、暗く沈んだように見えた。
「尊敬している」
「ありがとう。そんなに褒めてくれて。オナニー出来ないけどさ」
アハハというスキもないぐらい、彼はまっすぐな瞳を私に向ける。彼は私の顔に自分の顔面を近づけた。頬に吐息が当たるぐらい。
「好きです」
そこから私の唇を奪おうと、彼がさらに顔を近づけてくる。キスしたい。もしかしたら一目ぼれを受け入れてしまうかもしれない。マッチング診断は受けていないけど、そんなのどうでもいい。あぁ、神様。親が離婚してしばらく大変だったけど、こんな幸福が急に訪れるなんて。ああお願い、この人を幸せにさせたいな――
次の瞬間、私の思いとは裏腹に、彼をドンと向こう側に突き飛ばした。思ってもなかった反撃に、うろたえながらバランスを失い、後ろに倒れる事を、彼は、受け入れていった。
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