第50話 帰憶

 ここで殺しておくべき。

 その考え自体は間違っていなかったはずだ。悔やむとするならば、その判断が遅すぎたことだろう。斑猫リフテンや聖花の相手で消耗した状態ではあの粘態スライムを殺しきることができなかった。


 水菓子の花便りウォーター・クッキーに分体を倒され、竜血樹ハタラドゥールの本体は苦しげな咆哮を轟かせた。

 分体の受けた傷が呪的な繋がりをたどり、本体にまで影響をもたらしていた。これもまた竜殺しの聖剣アーヴァスキュアレのもつ力か。

 すでに外壁は崩れ、尖塔も折れており、いずれも戻る気配はない。それでもなお生きているのは、竜血樹の強靭な生命力がなせる業であった。

 しかし。


「今だァ! この竜はもはやネズミの息ィ! ネコそぎ奪って、奪いつくせェ! ケヒヒ」


 たむろする猫たちの前で、ボロボロの猫耳フードをまとう何者かが下卑た笑い声をあげた。

 略奪、姦通、強盗、追剥、背信を好む、世界の嫌われ猫――泥棒猫リリットが猫たちを扇動していた。

 その隣では、エントが鞄から歪な形をした緑の果実を取り出し、周囲の猫にばら撒いている。


「おらおら、猫ども! マタタビが欲しいかぁ! 竜から盗み出したこの大量のマタタビ、欲しけりゃ全部くれてやる! その代わり、あのクソトカゲにとどめを刺しやがれ!」

「にゃあ!」「うにゃ!」「うみゃみゃ!」


 猫たちは狂喜乱舞し、竜血樹の残ったからだを砕き、切り裂き、燃やし、食らい、罵倒し、破壊の限りを尽くしていく。

 竜血樹は先の戦いで負った傷のせいでもはや動くことすらままならなかった。いくら竜といえど、この数の猫を相手に生きてはいられない。


「……ここま、で……か」


 その日、数千年に及んだ竜血樹ハタラドゥールの支配がついに終わりを告げた。





「ハタラドゥール、久しぶり。二千年ぶりかな」


 鈴の音のように澄んだ声に目を開ける。聞き覚えはない。しかし、彼女の姿には見覚えがあった。


「……久しいな。ノテット」


 風切羽だけ黒く染まった純白の翼をもつ有翼人エスフォークの女性。

 日音器使いノテット・コロダント。

 死んだ時と変わらない姿のノテットが、切り株に腰かけハタラドゥールを見上げていた。


「さすがは竜様。長生きだったね」

「皮肉か」

「ううん。キミのいない二千年は本当に長かった……キミだってそうでしょ?」

「……どうだかな」


 ハタラドゥールは答えをはぐらかし、辺りを見渡した。

 新芽。そよ風。木漏れ日。泉。切り株。鳥のこえ

 死後の世界は、二千年前に訪れた時と何も変わっていない。


「随分と退屈そうな場所だな」

「久しぶりに会って言う台詞がそれってひどくないかな」

「別に嫌いとは言っていない」


 死後の世界とは、死生観の具象化だ。

 人は死んだ時、本人の想像する『死後の世界』を自ら創り出す。

 同じ宗教の信徒同士などでは、死後の世界への印象が酷似していることも珍しくない。そのような似た世界は統合されるが、そうでない似ても似つかぬ世界は別々に死後の世界として存在する。

 ゆえに、死後の世界は一つではなく多数存在する。

 この世界はノテット、それからハタラドゥールにとっての死後の世界だ。


「……生き返りたいとは思わないのか」

「前と同じこと言ってるね」


 ノテットがこの世を去ってしばらくした後、ハタラドゥールはノテットを生き返らせるために、一度だけここを訪れたことがあった。

 その時と同じ問答。

 二千年越しでもノテットの答えは変わっていなかった。


「思わないよ」

「なぜだ」

「こっちの世界でなら、私は自分の声で歌えるから」


 こればっかりは無くしたくないな、と笑うノテットの顔は生前の記憶にないほど明るかった。

 最も美しい歌声をもつ種族、有翼人エスフォークに生まれながらも、口がきけなかったノテット。日音器使いとして名を馳せながらも、彼女の人生は苦悩に満ちていた。


「ノテット。我は、お前が生きていた頃の、あの日音器の音色が好きだった」

「知ってる。前来た時も演奏頼んできたものね。また奏でようか?」

「いや、いい。ここに日音器はない。それに、我が好きなのはあの頃のお前の音色だ」


 あの音色が好きだった。

 表面上は明るく愉快で親しみやすく、けれども一皮むけば、この世の全てを斜に構えて眺めるかのような皮肉と諦めで満たされた厭世的な音色。

 ノテットの歌は文字どおり殺害予告であり、それに追い立てられるように彼女はこの世を旅立った。

 音は心を映す水鏡だ。

 あの世という名の理想郷で安らぎを得たノテットでは、あの音は奏でられない。


 ノテットを生き返らせるためだけにここを訪れ、断られたあの日から。

 せめて最後に一曲だけと頼んだ演奏を耳にしたあの日から。

 ノテットのいない二千年間、ハタラドゥールはもうどこにもない音色を追いつづけてきた。


「ノテット、お前は変わったな」

「そうかな? まあ、そうかもね。でも、キミほどじゃないと思う」

「我が、か」

「この二千年間、見事なまでに暴君だった」

「元からだ」

「私といた時はそうでもなかったのに」

「……それは」

「それは?」


 ノテットの目がにやにやと笑っている。


「ふふふ、そんなに、さみしかったんだ。私がいなくて」

「……死んでから、随分と饒舌になったのではないか」

「いちいち筆記で伝えなくていいから。楽なんだ。思ったことがすぐ口に出ちゃう」


 それから、ノテットは切り株から立ち上がり、躊躇なくハタラドゥールの手をつかんだ。

 二千年ぶりだからか。それとも、ノテットの指が日音器で埋まっていないからか。全てが新鮮に感じる。

 されるがままのハタラドゥールにノテットが囁いた。


「ねぇ、今度はキミが奏でてみてよ」

「……ここに日音器はない。此岸に置いてきた」

「日音器なら、ここにある」


 断言するノテットの視線は、二人の指に注がれていた。

 左手の薬指。九つの日音器のどれとも似ていない、安物でありふれたお揃いの指輪が、木漏れ日をうけて光っていた。


「これは違うだろう」

「ううん、日音器だよ。最高で最強の幻の日音器」

「……だとしても、この指輪から音は出ない。それでは奏でられまい」


 ハタラドゥールの言葉に「そっか、教えてなかったっけ」とノテットはいたずらにはにかんだ。


「実は、日音器ってどれも音が出ないの」


 そう言って左手を空にかざすノテット。

 薬指の日音器に光が反射して煌めいた。


「ささらなーは洗浄用具だし、さんさらにょーは通信機器。どれも楽器じゃないんだよ。綺麗な光を放つけど、それだけ。音は出ない」

「だが――」


 ノテットの奏でる音楽を、ハタラドゥールは確かに何度も聴いた。


「私ね、光を見ると音が聞こえるんだ。日音器はどれも光るから、それを見ると音が聞こえる。その音があんまりにも綺麗だから、キミにも聞かせてみたくなった。それがきっかけ」

「では、あの音は」

「幻想領域で私の聞いている音を世界と共有しただけ」


 光が聞こえる共感覚シナスタジアの世界観。光を見るだけの世界から、光を聞く世界へと、現実空間を限定的に塗り替える。それこそがノテットの演奏であった。

 幻想領域とは、自らの価値観でつくられた仮想空間だ。


「……だから、お前にしか奏でられないのか」

「分かっちゃえば、キミにもできるでしょ」

「だが、我が好きなのは、あの頃の音色だ。今のお前でも、我の音でも、どちらでもない。あの瞬間はもう戻ってこない」

「それなら、思い出させて」


 差し出された左手。

 はたしてつかむべきか否か。悩んでいると、ノテットが先にため息をついた。


「あのさー、私だってね、二千年も待ったんだから、少しくらい言うこと聞いてくれてもバチは当たらないと思うんですけど」


 少し頬を膨らませ、背中の羽を小刻みに揺らす。

 命を落として、二千年経って、声を出せるようになっても、焦れた時の癖は変わっていない。


「……まあ、よいだろう」

「うわ、えらそー」

「実際、偉いのだよ。竜だからな」


 二千年の時を経て、二つの日音器がようやく一つに重なろうとしていた。





「ここ、は……」


 浮上する意識がぼんやり定まっていく。

 気づけば、わたしは見慣れない部屋で椅子に腰かけていた。

 シュテリアとヒナヤが覗きこむようにわたしを見つめている。


「わわわ! ついにエイシャちゃんが元に戻った!」

「エイシャ、今までのことは思い出せますか?」

「今までの、こと……確か、わたしたちはハタラドゥールと戦って…………そうだ! アリーチェが!」


 竜血樹の邪視を前に倒れるアリーチェの後ろ姿をはっきりと思い出した。

 思わずその場で立ち上がったわたしをシュテリアが宥める。


「大丈夫ですよ。竜血樹との戦いはボクたちの勝利で終わりました。アリーチェも数日前に蘇生に成功してます。今はまだ安静第一ですが」

「そう、なんだ。……よかった」

「むしろ、あの後一番大変だったのはエイシャです。アリーチェを模倣したのも驚きですけど、役に飲まれるなんてさすがに初めて見ましたよ」


 役の人格や自意識があまりにも強靭であるがゆえに、演者の精神が役に乗っ取られる。このような精神汚染現象を俗に『役に飲まれる』と呼ぶ。かの有名な竜、黄金風も元は戯曲の登場人物でしかなかったが、上演により受肉したという。


「……あ、そうだ、エイシャちゃんが元に戻ったこと、アリーチェちゃんにも伝えてくるね!」


 そう言って、ヒナヤは部屋を飛び出した。

 わたしは、瞬く間に見えなくなっていくヒナヤの後ろ姿をぼんやり見つめながら、手をゆっくり握って開いてを繰り返した。

 体が動く。


「――自分の体が動いて驚いている。そんな顔してますね」

「あー、ね。わかる?」

「ボク、単眼族ゲイザーですから。それくらいの感情なら見えますよ」

「あ、そうなんだ」


 シュテリアの開示した事実に一瞬驚いたものの、すぐに納得が勝る。


「感情が見えるだけで、心は読めないですけどね。それでも、自分の手をじっくり見つめて動かしながら驚いていれば、さすがにわかります」

「……元に戻れないって覚悟してたから」

「演じた役がアリーチェでなければ本当に乗っ取られたままだったかもしれませんよ」

「あはは、そうかも」


 そうはいっても、アリーチェ以外の相手で同じようなことはできない。

 子どもの頃から今まで、わたしの物語にはいつもアリーチェがいる。だからこそできたことだ。だいたい、あの擬造ミミクリだって別に即興ではない。


 わたしが覚悟していたのは、もっと別のところ。役に飲まれる以前の話。


 縁切神ピグナータに全てを捧げると取引をした。

 ――にもかかわらず、全てが終わった今も、わたしはまだわたしで居ることを許されている。それこそが驚きだった。

 今この瞬間にでも、わたしの存在ごと消えてしまったり、わたしを生贄に神が顕現してもおかしくないというのに。


 もしかするとこれはピグナータがわたしに与えてくれた最後の自由時間なのだろうか。

 だとしたら、せめてアリーチェにもう一度だけ会いたいけれど……擬造ミミクリでそっくりに化けたことを思うと、少し気が引ける。正直、気持ち悪がられてもおかしくないし。


「告白しないんですか」

「――んなッ!?」

「好きなんですよね、アリーチェのこと」

「な、な、な!」


 シュテリアの突然の指摘に、わたしは口をパクパクと開閉した。


「な、なんで、そう思ったの」

「さっきも言いましたけど、単眼族ゲイザーですから。見ていれば自然とわかりますよ」

「あー、ね。そっか」

「まあ、単眼族ゲイザーでなくとも、気づきそうですけどね」

「…………そ、そっか」


 そこまで露骨だっただろうか。

 跳ね上がった核拍数が落ち着かない。

 自分の声がテレビやラジオ越しのように遠い。


「本当は聞くつもりなかったんですよ。ただ――」


 シュテリアは言い淀むように、口をつぐんだ。


「――ボクたちは今、こうして一緒にパーティを組んでいます。でも、この冒険がある日突然終わりを告げる。そんなこともあるんだなって、今回の件で強く思いまして」


 それは、命を落としたり、蘇生に失敗したりだけの話ではない。

 例えば、事情があって遠くに行くといったきりもう会えなかったり。

 例えば、仲違いして疎遠になりそのまま連絡を取ることもなくなったり。

 何かのきっかけで人生の道が分たれ二度と交わらない。そういうことは劇的な事件がなくとも、いつだって起こりうる。


「――ですから、伝えたいことは、伝えられる時に伝えるべきだと思いますよ」

「……」


 伝えたいこと。

 果たしてわたしは、この気持ちを伝えたいと思っているのだろうか。

 戦わなければ負けはないように、伝えなければ否定もされない。

 勝ちたいのか。それとも、負けたくないのか。

 わたしは――


「――エイシャ!」


 ダンと扉を蹴破るようにしてアリーチェが入ってきた。

 身体はまだ万全ではないようで、頭身がいつもの三分の二程度とかなり低い。体格に合わせた病衣を着ているようだけど、ダボつきは隠しきれておらず、まるでレインコートを着た子どもだ。


「あ、アリーチェちゃん! もうちょっと落ちついてよ!」


 後ろから息切れしたヒナヤがひょたひょたと駆け寄ってくるが、アリーチェは振り返ることもなくわたしにずいと迫った。小さな手を伸ばしてほっぺをむんずと掴む。


「な、なにひて、ちょ、やめ」

「エイシャね? エイシャなのよね?」

「それ以――」


 ――それ以外に見える?

 そんな言葉は、アリーチェがわたしの服に顔を埋めてきたものだから、口をつくことなく喉の奥に消えてしまった。


「きゅ、急に抱きついたりして……なに。体が削れ過ぎてコアまで子供になっちゃった?」

「こんなこと。もう、二度とやらないで」


 わたしの茶化しを無視して、アリーチェがつぶやいた。か細い声が胸元からゆっくり伝わってくる。


「……けど、ああでもしなくちゃ全滅してた」

「知ってるわよ。知ってて言ってるの」

「…………善処は、する」


 迷って末に辛うじて言えたのは、たったそれだけだった。

 はたして、満足してくれるだろうか。

 少なくとも妥協はしてくれたようで、アリーチェはゆっくりと体を離すと、ちょっぴり照れた顔でわたしから目を背けた。

 シュテリアもヒナヤも口を挟むことなく、わたしたちを見ている。

 沈黙の中で、わたしの鼓動だけが早鐘を打つ。


「アリーチェ、えーっと」


 何か言おうとして、何も浮かばない。

 ぐるぐる回る思考から抜け出してようやく口をついた言葉は。


「…………ただいま」


 何の変哲もない、いつもの挨拶だった。

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