第38話 猫も手を借りたい

 崩壊に巻き込まれてぐちゃぐちゃに潰れた体組織が元に戻っていく。

 今日ほど粘態スライムに生まれてよかったと思ったことはない。わたしは打たれ強い粘態スライムの身体に感謝しながら、瓦礫の下から這い出た。


 あれほど高かった塔は竹を斜めに切ったように崩れ、わたしは瓦礫と共に塔の外、すなわち中庭へと押し出されていた。

 顔を拭い、その感触に違和感を覚える。見下ろした手のひらは真っ赤に濡れていた。


「……なにこれ、赤い?」


 わたしの体組織は青緑色だ。

 自分からは出ないはずの生臭い色合いに思わず眉を顰めた。


 どうやら赤いのは手のひらだけではないようだ。

 破れてしまったナイロンジャケットも、周りに広がる瓦礫の山も、踏みしめる芝生も、崩壊した塔の断面も、その全てがペンキをぶち撒けたように赤い。

 塔の崩落に巻き込まれた人々の血だろうか。しかし、それにしてはあまりにも範囲が広すぎる。足元だけならまだしも、塔の断面まで赤いのはどういうことか。

 これではまるで塔そのものから血が滲み出ているようだ。


「もしかして……本当にそれ?」


 ほとんどの生物は傷を負えば血を流す。

 粘態スライムだってコアからは血が出る。

 アラ・ラテラントの言っていたように、この城そのものが竜血樹だというのなら、城に血が流れていてもおかしくない。


「……そうだ、アリーチェは? みんなは?」


 無事だろうか。

 わたしが無事なのだからアリーチェは大丈夫だろうけど、ヒナヤとシュテリアがとにかく心配だ。二人は粘態スライムほど打たれ強くない。もしも、この大量の瓦礫の真下で押し潰されていたら。

 嫌な想像に胸のコアが早鐘を打ち始めた頃、耳に馴染む声が聞こえてきた。


「アタシたちは平気よ」

「アリーチェ! ヒナヤ! よかった、二人とも無事で――」


 胸をなでおろそうとして、それがまだ早いことに気づく。アリーチェとヒナヤ、それから後もう一人、いるべき人物がそこに見えない。


「――シュテリアは?」

「シュテリアちゃんは」


 ヒナヤの声が止まる。その目は瓦礫の山へ向けられていた。


「まさか」

「ま、まだ見つかってないだけだから! きっと大丈夫だよ!」

「いや、でも……」


 声を無くしたわたしの肩をアリーチェが軽く叩いた。


「ほら、アタシたちと違って塔の内側に落ちたのかもしれないでしょ。瓦礫に埋まってるとは限らないわ」

「……連絡はしてみた?」

「繋がらなかったけど……でも、シュテリアならきっと上手いこと生き延びてるわよ」

「……うん、そうだね」


 周りを見渡すと大部屋にいた観客の数はずいぶんと減っていた。そのほとんどは怪我を負っている。


 動かない足を引き摺る者。

 顔をふさいでその場にうずくまる者。

 誰かの名前を叫びながら瓦礫を叩く者。

 彼らは演奏のために集まった音楽家であり、探索者ではない。にもかかわらず、竜と猫の争いに巻き込まれ次々と倒れていく。


 悲鳴、怒号、絶叫、嗚咽、慟哭。本来、音楽で満たされるはずだった空間は、音楽とは最も遠い音で埋め尽くされていた。


 地鳴りと共に、竜の居城が――いや、竜血樹が立ち上がる。

 竜血樹には首が無かった。どうやら先ほど崩落した尖塔こそが、まさに竜の首にあたるものだったようだ。


 塔の崩壊は観客たちだけでなく竜にとってもかなりの痛手だったのかも。


 それは推測というより願望だった。

 一刻も早くこの争いが終わって欲しい、これ以上わたしたちを巻き込まないで欲しいという願望。


 しかし、願望は得てして簡単に実現しない。


 瓦礫と赤い液体はひとりでに浮かび上がると、崩れた塔の上に積み重なっていった。

 塔が修復されていく。

 瞬きの間に竜血樹は元通りになっていた。

 あまりにも冗談みたいな光景。


「そんな――」


 あれほどの傷でさえ、竜は治してしまうというのか。


「――どうして」

「ハタラドゥールは莫大な呪力量を持っている。どうやら、あれくらいでは致命傷にはほど遠いみたいだ」


 いつの間にか隣に来ていたアラ・ラテラントが教師のように語る。腕にはぐったりしたままの斑猫を抱いたままだ。


「シーザオの通貨シナバルの原料が何か知っているかい?」

「……さあ」

「ハタラドゥールの血だよ。シナバルは竜の血を固めて作られている。つまり、ここでの貨幣に対する信用は、ハタラドゥールに対する信用とイコールだ。莫大な呪力の源泉はそこにある」

「それだと、もはや一つの国レベルの呪力があることになりません?」

「なるね」


 この絲蟲ミュルドンと斑猫は、そんな相手に喧嘩を売ったわけだ。


「猫ちゃんもだいぶ具合が悪そうですけど……収拾をつける算段はもちろんあるんですよね。これだけ多くの人を巻き込んだんですから」

「そのための聖花だ。聖花はシーザオの人々から多くの信仰を集めている。そして、信仰とは力。例えば聖花の蜜は万物を癒す秘薬となる」


 アラ・ラテラントは懐から小瓶を取り出し、リフテンの口元へと近づけた。蜂蜜色の液体をちろりと舐める。開いていた瞳孔が僅かに細まった。


「うにゃあ。元気出てきたニャ」

「よし、行こうか」


 竜血樹との戦闘へ向かおうとする絲蟲ミュルドンと斑猫。

 そこに待ったをかけたのはアリーチェだった。


「待ちなさいよ」

「……なんだい?」


 首元に突きつけられた抜き身の刀。剣呑な空気にアラ・ラテラントの足が止まる。


「その聖花の蜜が薬になるっていうなら、今ここで倒れている人たちに使うべきでしょ。みんな、あんたと竜の勝手な戦いに巻き込まれてこうなったのよ」


 アリーチェの言葉には静かな怒りがこめられていた。


「……悪いとは思ってる。ただ、その要求は飲めない。戦いが終わっていないのに治癒したところで意味はない。何度も巻き込まれ怪我を負い、そのたびに治すつもりかい」

「でも、今ここで放置されたら死ぬ人もいるわ」

「それの何が問題なんだ? 全て終わった後に私が蘇生すればすむ話だ。私にはそれができる」


 死とはあくまで一時的な状態に過ぎず、絶対的なものではないのだと語るアラ・ラテラント。

 言い返せないアリーチェの心を映し、刀の切っ先が揺らぐ。


「君たち探索者は蘇生術をよく使う側の人種だろう? 本当は理解しているはずだ。問題は死ぬことではなく、蘇生できないことだと」

「……でも、それでも……死ぬのは怖いことよ」


 死を恐れない異質な死生観。

 蘇生術を扱う者は皆こうなっていくのか。それとも、生と死の距離が近いからこそ蘇生術師になれるのか。


 竜血樹の首が復活して瓦礫が消えたことにより、中庭には人々の潰れた身体が剥き出しになっていた。

 亡骸に縋る声がいくつも聞こえる。

 その中にヒナヤがわたしたちを呼ぶ声が聞こえた。


「……え、エイシャちゃん、アリーチェちゃん、どうしよう! シュテリアちゃんが、シュテリアちゃんがッ――」


 血相を変え走ってくるヒナヤを見て、最悪の展開がよぎる。


「――シュテリアちゃんが、見つかんない!」

「……え、死んでるとかじゃなくて?」

「見つかんないんだよ! シュテリアちゃんがどこにもいないの!」

「まさか……本当に城の中に」


 竜血樹を仰ぎ見る。二輪の聖花を相手取り、激しく動く巨竜。

 もしも、シュテリアが中庭ではなく塔の内側に落ちたのだとしたら、今もあの中にいることになる。


「う、うそでしょ。シュテリアだけ城の中だなんて、そんなのどうすればいいのよ」


 アリーチェの声は震え、握る刀もすっかり下を向いていた。いつもの気丈な振る舞いが見えない。

 アラ・ラテラントは揺れる刀の峰にそっと手を添えると、アリーチェに白い毛玉を三つほど渡した。


「猫の毛玉だ。一つにつき一度まで竜の吐息ブレスを防いでくれる」

「……え」

「竜血樹の内部に向かうのなら必要になるはずだ」

「……どうして」

「私たちのためだ。厚かましいとわかってはいるが――もしも、猫に出会ったら、解放してやってほしい」


 アラ・ラテラントが深く頭を下げた。


「……そんなこと、言われても」

「ようやくなんだ」


 もしもこの場にシュテリアがいたら、アラ・ラテラントの心に何色を見ただろう。そう考えずにはいられないほど、彼の一言には深い感情が込められていた。


「ずっと探してきた。十四年かけてようやく、あいつがここに囚われていると突き止めた。この機を逃したくない」

「……でも」

「頼むニャ」


 絲蟲ミュルドンに続いて猫までもがこうべを垂れる。魅了チャームを使えば一発だというのに、それに頼ることもせずに。

 わたしは、完全に動きを止めたアリーチェに代わって頷いた。


「いいですよ。どっちみち城の中に入ってシュテリアを探すのは確定だし」


 ここで変にこじれて魅了チャームを使われでもしたら、それだけでわたしたちはリフテンの言いなりだ。それなら表面上は協力姿勢を見せておいた方がいい。

 そんな打算だった。


「ありがとう、恩に着る」

「お前いい奴だニャ」


 わたしの内心も知らず絲蟲ミュルドンと斑猫が感謝を述べる。


「……アリーチェ、ヒナヤ、行こう」


 わたしは目を伏せると、二人の手を引いてその場を離れた。



 ぐちゃぐちゃに踏み荒らされた中庭を駆け抜け、今も争い続ける竜血樹の元へと向かう。

 頭の中から余計な思考を追い出し、今考えるべきことのみに絞る。


 この混沌とした状況で目指すべき目標はなんだ。竜の討伐? 猫の解放? 事態の収拾? どれも違う。大事なのは、わたしたち四人全員で無事に生還することだ。

 生き残るには何をするべきか。ただそれだけを考える。


 まずはシュテリアと合流しよう。

 目的地は部位でいえば竜血樹の首にあたる尖塔。平常時なら普通に正面から入れるのだろうけど、今はそうもいかない。


 二輪の聖花との熾烈な争いにより、竜血樹は機動城塞と化している。無策で近寄るのは、走行中の機関車に飛び乗るようなものだ。

 いったいどうやって侵入したものか。

 頭を悩ませていると、突然アリーチェが走り出した。降り注ぐ攻撃の応酬をくぐり抜けて竜血樹に近づき、動きが止まるわずかな瞬間に飛び乗ってしまった。

 あまりの早業にわたしもヒナヤも声が出ない。


「二人ともー! こんな感じよー! タイミングを見計らえば行けるわ!」

「……で、できるかぁ!」


 そんな常人離れした運動神経があったら、わたしはこのパーティで呪術師をしていない。

 同意を求めて振り向くと、ヒナヤは足を前後に開いて意気揚々と構えていた。


「よぉし。タイミングを見計らうんだね」

「いやいや、ムリだから!」

「いち、に、――」

「ちょ、ストーップ!」


 意気込みだけで走り出そうとしたヒナヤの首根っこをつかんで止める。

 ヒナヤの「さんっ!」の合図と共にわたしたちの目の前を巨大な茨が通り過ぎていった。


「あわわわわ」

「……ほら」

「よ、よし! 今度こそ」

「だから、やめてって。あんな曲芸、アリーチェにしかできないし、真似したら百パー死ぬから」

「で、でも、じゃあどうするの?」

「あー、や、それは……」


 シュテリアの安否もわからないのに、ヒナヤにまで倒れられたら手に負えないが、かといって代案があるわけでもない。

 返答に窮していると、アリーチェの張り上げる声が聞こえてきた。


「二人ともー! とりあえず、アタシは先行してシュテリアを探してくるわね!」


 アリーチェはそれだけ告げると竜血樹の中に姿を消した。

 ほどなくして竜血樹が再び大きく揺れる。城の内部は常に地震に曝されているようなものだろう。そう考えれば、アリーチェ一人の方が身軽に動けて結果的によかったかもしれない。


「ねえねえ、エイシャちゃん。ヒナヤたちはどうするの?」

「とりあえずアリーチェが戻ってきたらいつでも逃げれるように――」


 わたしたちの声をかき消すほどの轟音。

 空を仰ぐと竜血樹の左前脚にあたる塔が、今まさにわたしたちの前で砕けようとしていた。

 しかし、その原因は聖花の攻撃でもなければ、アラ・ラテラントやリフテンの仕業でもない。塔の内側から、壁を破って何かが飛び出してきた。


「――猫? いや、オルガン?」


 教会に置いてある巨大なパイプオルガンのパイプ部分を猫にすげ替えたような、そんな巨大な何か。竜を模した意匠が相まり、まるで猫の頭をもった多頭竜にも見える。

 猫たちには口枷が付けられ、鳴き声一つさえも聞こえてこない。


 これは……これはいったい何だ?


「ねえ、エイシャちゃん。囚われの猫ってもしかして」

「どう見てもこれでしょ」


 囚われの猫などと言うからてっきり牢獄にでも閉じ込められていると思っていたが、まさかこんな訳の分からない状態になっているとは。さすがに予想外だ。


「これこそは私の最高傑作ッ! 猫で作りし音響兵器! 猫鳴琴オルニャンローデなのだよ!」


 演奏台コンソールに立つ白衣の竜牙兵スパルトイが高らかに宣言する。


 パイプオルガンならぬ猫オルガンの巨大な影が、ちっぽけなわたしたちを飲み込んでいた。

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