第36話 斑猫リフテン
わたしたちは演奏会に来た――はずだ。
だというのに、目の前では竜の不興を買った人が死に、いきなりピンクの象が現れたかと思ったら、その姿は消え、代わりに木彫りの彫像が現れる。
もはや何が起きているのかすらさっぱりだけど、少なくとも演奏会どころではないのは確かだろう。
「ねえ、エイシャちゃん、あれって迷宮にいたゴーレムだよね」
ヒナヤの指摘を受けて気づく。
ピンクの象の代わりに現れた木彫りの彫刻。その姿は確かに薔薇城の警邏兵とそっくり……いや、それそのものと言っても差し支えないほど全く同じに見える。
実際、その挙動すらも迷宮のゴーレムと変わらないようで、こちらを認識するや否や攻撃を仕掛けてきた。
「……不愉快だ」
ハタラドゥールは一顧だにせず、ツタを絡めてゴーレムを砕いた。
しかし、ゴーレムは一体ではない。そうしている間にも扉から続々と流れ込んでくる。
「エイシャ、どうする?」
アリーチェも状況を掴みかねているのだろう。振り返った表情はらしくもなく心許なげだ。
「あー、とりあえずは――」
護衛として来たのだからアラ・ラテラントに危害が及ばないように――そう告げようとしたが、なんとそれより先にその
「ちょ、ちょっとラテラントさん!」
アラ・ラテラントはわたしの制止に耳を貸すこたなく、テルミンを携えて歩みを進めていく。
よりにもよって竜の正面へと。
「何用だ」
尋常ならざる雰囲気を感じ取ったハタラドゥールが視線を向けた。
「そういえばまだ挨拶も出来ていなかったと思ってね。私はアラ・ラテラント。テルミン奏者だ。そして――」
その音色は実に魅惑的だ。
まるで猫の鳴き声のように。
「――こちらが
金属アンテナは二股の尻尾やヒゲへ、長方形の本体は丸みがかったモフモフへと変化していく。
黒白のぶち模様。
首に巻いた赤いスカーフ。
最後にぴょこりと跳ねる三角耳。
「よろですニャ」
そこにはまごうことなき猫がいた。
「やはり猫の仕業か。死ね」
竜の殺意は瞬く間に膨れ上がり、呼応するように部屋中に植物が咲き乱れた。
葉が、花弁が、棘が、種子が、根が、茨が、
「ダレッキノ語りて曰く、蜘蛛糸の網は八千の
六本の腕から糸を放った。糸は絡み合って網となり、豪雨の如く降り注ぐ攻撃を全て包み込む。
だが、それはハタラドゥールも織り込み済みであったようで、竜はすでに次の行動に移っていた。
「『
無数の攻撃は全て隠れ蓑で、狙いは
しかし、猫とは気まま勝手な生き物。
常にゆらぎ続ける存在であり、不可逆性などという窮屈なルールには縛られない。
「体から草が生えるとかムズムズしてキモいニャ」
リフテンが体をぶるりと震わせると、それだけで植物は剥がれ落ちてしまった。
「
「抜かせ。猫に耳など貸すものか。それにお前は無事でも下僕はそうではあるまい」
「ニャ?」
竜とて猫に
「ん? かわせたと思ったが、かすっていたか……」
アラ・ラテラントは伸び始めた茎をつまむと、こともなげに引っこ抜いた。そして、それっきり植物は生えてこなかった。
竜の
「……ふん、
呪術師の中には使い魔を操るタイプがあり、特に優れた呪術師は使い魔を自らの手足の如く自在に操る。そして、これはただの比喩ではない。
視力の劣る者にとっての眼鏡、足を欠損した者にとっての義足、記憶喪失者にとっての移植記憶、これらが彼らの一部であるように、高位呪術師は使い魔を自身の一部とみなす。
使い魔とは外付けの感覚・運動器官なのだ。
当然、猫は生まれながらの高位呪術師である。ハタラドゥールの推測が正しければ、アラ・ラテラントは斑猫リフテンの使い魔であり、猫の一部、すなわち――彼自身も猫といえる。
猫に
だからこそ、アラ・ラテラントは
猫が持つ竜に対しての優位性。
しかし、これは猫だけでなく、竜の側にも言えた。
竜とは確固たる存在。ゆえに対象の存在基盤を揺らがし不正操作する技術――猫の
猫と竜は互いに切札が通用せず、だからこそ天敵たり得る。
ハタラドゥールとリフテンたちが争う周囲では、
もはや大広間は乱戦状態にある。
アリーチェとヒナヤもいつの間にか動き出しており、逃げ惑う音楽家たちを守っていた。
シュテリアは――。
「エイシャ! こっちに来てください!」
「何? シュテリア」
「この人まだっ! まだ生きてます!」
日音器を奏でられず竜に胸を貫かれた
「今はボクが『青白眼』で止めてますけど、このままだと、本当に死んでしまいます。どうにか……どうにかできませんか」
「どうにかと言われても」
わたしは慌てて駆け寄り
身体を貫通したツタは全身を蝕むように広がっている。胸部を染める血液は鮮やかな赤色。
出血は止まっているとはいえ、どう見ても重篤だ。まだ息があるといっても、果たしてこれが取り返しのつく状態なのか、さっぱりわからない。知識がない。そもそも
これが身体の欠損なら
口ごもるわたしの前で
「なぁ、君たちは、私の歌を知ってる、か?」
「大人しくしていてください! 今はそんな話をしてる場合では――」
「私は、浮かれていた。竜の演奏会に呼ばれて浮かれていたんだ」
シュテリアの声など聞こえていないかのように
「コロダントという家格や血筋ではない、自分の実力が、私の歌が、コロダント家のマペットではなくただの音楽家のマペットとして、ようやく評価された、認められた、そう思った。でも」
「――やめてください」
「でも、違ったらしい。竜は、私の歌になど、興味がなかった。興味があるのは、日音器を奏でられるかどうか、それだけだ。結局、オレのことなんて、初めから、誰も」
「もう、やめてッ! 聞きたくありません! このままだとあなた、本当に死にますよ!」
気づけば
以前、シュテリアは語っていた。『青白眼』は視線に感情を込める。悪感情で凍てつかせ、好感情で熱するのだと。
「いいんだ。もう、オレはダメだ。才能の底が見えた。どうせ、あんたらも知らないんだろ。オレの歌、なんて、誰も、興味が、な……い」
「――そんな、誰も興味がないなんて、そんなっ、そんなこと言わないでくださいよ」
シュテリアが声をふり絞る間にも血はどくどくと流れていく。『青白眼』は完全に解けていた。止まっていた症状が一気に悪化していく。
特に顕著なのは全身のツタだ。
どうやら全身を覆うツタには宿主の血肉を吸い取る力があるようで、
痩せこけた指で揺れる日音器を見てシュテリアが声を上げた。
「そうだ、日音器……日音器です。どうして思いつかなかったんでしょう」
「急にどうしたの」
「日音器にはそれぞれの指に別の機能があるんです。たしか癒しの力を持つものも」
シュテリアは日音器に手を伸ばした。
その時だった。
「我に断りもなく日音器を使う気か。愚かさも極まれば勇ましいな」
突然投げかけられた声。覆う影に顔を上げるとハタラドゥールがわたしたちを見下ろしていた。
しかし、つい先ほどまで猫と戦っていたはずだ。猫と竜の争いがそう簡単に終わるとも思えない。いったいどうしたというのか。
疑問に思って舞台を振り向くと、そこには
バラバラに刻まれた状態で。
「――ッ!」
「驚くことではあるまい。ここは我の城だ。地の利はどこまで行っても我にある。城の中で戦う以上、勝負の結果は初めから見えていた」
淡々と述べるハタラドゥールの体には傷一つ見当たらない。それほどにまで圧倒的な力量差があったというのか。
「もっとも、猫がそれを理解していないはずもない。容易く殺せたことから察するに、此奴は偽物か囮で本命は別にいるか。……まぁ、実体が消えない以上、少なくとも幻術の類ではなさそうだがな」
一瞬、ハタラドゥールは考え込む素振りを見せたが、すぐに興味が失せたかのように猫と
視線の先はわたしたちに――いや、シュテリアに向けられている。
「さて、お前が日音器を奏でられるというのなら、我も止める気はない。奏でてみせよ」
「――ぅ――あ」
圧倒的な威圧感。
シュテリアがまともに声すら発せられないのも無理はない。隣にいるわたしも手が震えていた。
「とはいえ、すでに手遅れに見えるが」
「――ぇ」
シュテリアは
「そんな」
「小指の日音器『ささらなー』には確かに癒しの力があるが、さすがに命を落とし変質し始めている者にまでは効かぬ。それでも試すか?」
床から生えたツタが
「もっとも、お前たちはあの猫と蜘蛛の連れだ。試さぬというなら生かしておく理由も無い」
「――わかり、ました」
こちらに選択権などあるはずもない。
シュテリアが荒い呼吸と共に手を伸ばしたその時、風を裂く鋭い音鳴りがした。
「
「生かしておく理由が無いなんて言われたら、こっちも黙っていられないわよ」
一切の躊躇なく、アリーチェが竜に刃を突き立てていた。
しかし、ハタラドゥールはその攻撃をかわそうともしていない。それどころか、顔を向けることすらせず、ただ煩わしそうに声を重ねるだけ。
それもそのはずだ。アリーチェの剣撃は竜に傷一つ与えていなかった。体に鱗が見えずとも、竜の硬さは疑いようがない。
「……くだらん。その程度の剣で我を斬れると本気で思っているのか」
嘲りと落胆に塗れた退屈そうな声。
返すアリーチェの言葉は。
「思ってないけど?」
「――ほう」
ようやくハタラドゥールがアリーチェに視線を向けた。その瞬間、竜の体に無数の糸が絡みついた。
「良い陽動だ、アリーチェ。君たちを護衛に選んでよかった」
「貴様っ、確かに死んだはず!」
「蜘蛛の糸は地獄の底にさえ届く。これでも彼岸と此岸の行き来には慣れていてね」
アラ・ラテラントはバラバラになった自らの肢体を糸で繋ぎ合わせながら、むくりと起き上がった。
伸ばした糸はハタラドゥールの手足に絡まり、キリキリと締め上げていく。その強度は凄まじく、アリーチェの斬撃でも傷つかなかった体に食い込み、血を滴らせるほどだ。
「偽物とか囮とか好き放題言ってくれたが、私たちこそが本物にして本命だと教えてやろうではないか。なあ、リフテン」
「任せるニャ」
「うにゃあ!」
愛らしい顔を歪めて獰猛に吼える。
咆哮は音響兵器となり、間近で浴びた竜の全身を細胞単位でズタズタに破壊した。
そして、続けざまに振り下ろされる爪と牙の嵐。竜の体はいとも容易く引き裂かれ、真っ赤な液体が霧のように舞う。
「貴様ッ――」
「まだニャ」
肉球で床をにゃんと叩くと、人一人は入れそうな穴が出現した。
リフテンはハタラドゥールを噛んで穴の中へ引き摺り込んでいった。間を置かずして凄惨な旋律が響き渡る。
「ごちそうさまですニャ」
ほどなくして戻ってきたリフテン。わたしの目には、斑猫の纏う赤いスカーフがより鮮やかさを増しているように見えた。
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