第32話 神々の古戦場

 死後の世界は存在する。信じるものにとっては。

 折れた槍。塹壕。鉛の弾丸。不発弾。血色の戦場旗。見渡す限り広がる剥き出しの大地。シュテリア・ポストロスは戦場跡に立っていた。目に映る全てから強烈な死の匂いが漂う。

 赤くくすんだ戦場旗がなびく姿を眺めながら、シュテリアは自らの死を理解した。


 あぁ、結局ダメだったか、と。


 せっかくあの天才粘態スライムたち抜きで大立ち回りを演じても、最後がこれではまるで格好がつかない。


『ポストロス家の名に恥じない生き方をしなさい』


 耳にタコができるほど聞かされてきた言葉。

 ポストロス家では幼い頃から、優れた探索者となるための教育を施される。恵まれた環境だった。今のシュテリアにはそれがよくわかる。

 しかし、当時のシュテリアにとっては槍の稽古や邪視の勉強よりも、音楽を聴いたり歌を口ずさむ時間の方がよほど大切だった。

 あの時、真面目に取り組んでいれば今頃はもっと高く、もっと遠くに行けたのだろうか。それこそガーデナーを一人で倒してしまうアリーチェ・トスカーニのように。


「……まあ、全部今さらですけど」


 シュテリアの声は戦場跡に虚しく響いた。

 死者の魂は神々の古戦場へと導かれ、戦神シャルマキヒュの選定を受けた後、九百九十九の館へと振り分けられるという。


 かの戦女神の万能の眼に、この人生はどう映るだろう。


「つまらん人生だな」


 氷のように鋭い風貌の女が冷たく言い放った。


「あなたは……戦神さまですか」

「それ以外ありえないだろう。わかりきったことを一々尋ねるな。馬鹿なのか?」


 右目に眼帯、頭部には猫耳。辛辣な物言いといい、戦女神シャルマキヒュに間違いない。


「まったく、死にもしない奴の相手をするほど、私も暇ではないのだがな」

「……えっと? 死んでるんですよね、ボク」

「ふん、白々しい。ポストロス家ならば御抱えの蘇生医がいるのだろう」

「そ、それは」

「ここで指を咥えて待っているがいい。どうせ遠からず生き返る。それとも――」


 色彩は、鮮血と黄金。

 感情を視認できる単眼族ゲイザーの瞳には、戦女神の内側に渦巻く闘争心と恍惚がくっきりと映っていた。

 戦女神のつま先が地面をトントンと叩く。


「――仕合しあうか?」

「……ぅ、あ」


 先ほどまでの無表情からは想像できないほど獰猛な笑み。

 呼吸すら忘れて立ち尽くすシュテリアを、品定めするようにめ回す。


「どうなんだ」

「……ぁ、ウぁの、お」

「答えろ。仕合しあうのか?」


 戦女神がもう一度つま先を打ち付ける。

 急かすように、トントンと。

 それでも一向に口を開かないシュテリアの姿に、シャルマキヒュから漂う獰猛な気配はゆっくりと引いていった。

 代わりに表れたのは、落胆。

 

「……つまらんな」


 古戦場の寂れた空気を、ため息が泳ぐ。


「戦士ですらない腑抜けに探索者をさせるとは、ポストロス家の名も地に落ちたものだ」

「ッ! それは――」

「違うというなら、槍を握れ」


 戦女神が右手を横に払うと周囲に歌が流れ出した。とても人には口ずさめない複雑にして神聖な音の調べ。

 その歌には色があった。形があった。

 七色の旋律がシュテリアの目の前で収束し、一振りの槍となる。


「この歌の名はアーヴァスキュアレ。龍帝ガドカレクをも討ち取りし聖剣にして聖槍。これを使えば貴様のような腑抜けでも、私に傷をつけられる」

「……」

「さあ、貴様は戦士か? それとも永遠に腰抜けのままか? 神に牙を剥く覚悟があるなら、その槍を掴み掛かって来い」


 万能の隻眼が挑発的に見下す。

 シュテリアは槍に手を伸ばした。


 先のことは考えなかった。

 今ここで立ち向かわなければ、変われない。たとえ生き返ったとしても、何も成せず誰からも注目されない人生を送るだろう。そう思ってしまった。


「……うぅ!!!」


 聖歌の旋律に包まれながら、槍を抜き放つ。

 もう引き返せない。

 シュテリアは覚悟と共に槍を突き出した。


「戦う意志はあるようだな」


 くうを切る感触。

 外れた。

 槍を引き戻そうとしたシュテリアは、手が動かないことに……いや、手だけでなく全身が動かないことに気づいた。


 シャルマキヒュの瞳がシュテリアを捉えて放さない。戦神の魔眼に一介の単眼族ゲイザーが抗えるはずもなかった。


「どうした。この程度の邪視で完全に動きを止めるな」


 シャルマキヒュは猫耳をわずかに後ろに反らせながらぼやいた。ため息と共に瞳を閉じる。

 シュテリアの体がようやく自由になった。


「……仕方ないな。私も雑魚をなぶる趣味はない」


 シャルマキヒュは右目の眼帯を外し、一振り。鉢巻に変化したそれを、両目を隠すように巻き直した。


「この戦いで瞳はつかわん。そして、私にかすり傷でも負わせることができれば貴様の勝ちとしよう」


 圧倒的なまでの手加減。しかし、それでもシュテリアは勝算を感じ取れなかった。

 そんな心情を見透かしたかのように、シャルマキヒュが笑う。


「……ただ、私もダラダラと続ける気はない。制限時間を設けよう」

「どれくらいですか」

「そうだな。どうせ大した期待もできない以上、できるだけ短い方がいい」

「……」

「決めた。貴様が諦めるまで、にしよう」

「っ!!!」


 シャルマキヒュの頭部で猫耳が愉しそうに揺れる。


「これならすぐ終わる。そうだろ?」


 明らかな挑発だった。

 お前ならどうせすぐに諦める。そんなあからさまな見下し。

 実力も才能もなければ、強者に立ち向かう気概もない。確かにそうだ。揶揄されても仕方ない。でも、それでも、すぐに諦める奴だと思われることだけは癪だった。我慢できなかった。


 気づけばシュテリアは実力差も忘れ叫んでいた。


「ふ、ふざけッないでください!」


 聖歌アーヴァスキュアレが鳴り響く。

 シュテリアは槍を握りしめた。痛いほどに強く。





「良かった! 目を覚ました!」


 目を開けたシュテリアの耳に初めに飛び込んできたのは、ヒナヤの声だった。

 木の天井を見上げ、何度か瞬きを繰り返す。

 神々の古戦場でひたすら槍を振るい続けた感触が、まだ手のひらに残っていた。聴き続けた聖歌の旋律も、そらで唱えられるほど耳にこびり付いて離れない。気が遠くなる時間、戦女神と戦い続け、それでも届かないままだった。


 寝台で横になるシュテリアを、見知らぬ人物が覗き込んだ。

 蜘蛛のような顔からして種族は絲蟲ミュルドンだろう。ポストロス家の蘇生医ではなさそうだ。


「自分の名前は言える?」

「えっと……シュテリア・ポストロス、です」

「よし、意識は大丈夫そうだね」


 絲蟲ミュルドンの顔が離れていく。代わりに金髪のエルフと、青緑の粘態スライムの顔が視界に映った。


「ボク……一度死んだんですよね」

「……まあ、うん」


 気まずそうにうなずく粘態スライム。顔つきといい、声といい、すっかりアリーチェからエイシャへ戻っているようだった。

 シュテリアは寝台から起き上がり、部屋の中を見渡した。


「……そういえば、アリーチェはどうしました? 見当たらないですけど」

「アリーチェは療養中」

「えっ!」


 迷宮の主を倒したのは実質アリーチェ一人だ。

 そのアリーチェが寝込む姿は想像できなかった。


「もしかして、アリーチェも爆発に巻き込まれて」

「いや、そうじゃないよ。原因は最初にわたしを庇ったヤツだから」


 後悔の色が、自嘲するエイシャを覆っていた。


「あの時はわたしと体組織を入れ替えたから動けてたけど、実際は意識も保てないくらい身体が蒸発してたから」

「それは大丈夫なんですか」

「体積が戻るまで安静にしてれば大丈夫。粘態スライムだから」

「……凄いですね、粘態スライムは」


 粘態スライムのような生命力があれば自分も死なずに済んだかもしれない。そんなことを考えながら、寝台から降りようと身体を揺らし、痛みに眉をひそめた。


「ッ!」


 一歩引いていた絲蟲ミュルドンが、シュテリアの動きをさえぎるように手を伸ばした。


「無理に動かないで。一度、命を落としたんだ。無事、蘇生できたとはいえ、すぐに体調万全とはならない」

「……はい」


 シュテリアは大人しく身体を横たえた。


「そういえば、あの、あなたは……ポストロス家の蘇生医ではないですよね?」

「あぁ、そうだ。私はアラ・ラテラント。蘇生の心得が多少あるだけで、自分ではミュージシャンが本職だと思っている。最近はヒナヤと一緒に活動させてもらっているよ」


 シーザオに来てからというもの、ヒナヤが誰かと路上ライブをしている話はシュテリアも聞いていた。しかし、その誰かがこの絲蟲ミュルドンで、しかも蘇生までできる人物だとは思ってもいなかった。


「そうでしたか……あの、ボクの蘇生費用はどれくらいに……」


 おそらく今のシュテリアでは払うことができない。ポストロス家に頼る必要がある。

 そう思いながら切り出した問いに、予想外の言葉が返ってきた。


「あぁ、それなら気にしなくていいよ」

「……え、いや、でも……それは……」


 慌ててエイシャとヒナヤの顔を見る。

 二人のまとう感情に驚きの色はない。シュテリアが蘇る前にすでに聞いていたようだ。


「費用の代わりに少し護衛をしてもらうということで君の仲間とは話がついている。だから本当に気にしなくていい」

「……護衛?」

「私とヒナヤは竜の居城に披露しに来るよう招待されているんだ。その護衛だよ」

「竜の居城に……」


 竜の居城に招待される。それはつまり、彼らの音楽が竜にさえも認められたということだ。

 ヒナヤを見る。誇らしげな表情の周りに、喜びの感情が見て取れた。


「そう、いえば……迷宮の主は倒せたんでしょうか」


 気づけば話題を変えていた。

 自分以外に単眼族ゲイザーがいないことに心の底から安堵した。もしも、鏡を見たならそこにはきっと緑の目をした怪物嫉妬が映っているだろう。

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