第31話 死の宣告
多くの体組織を失ったアリーチェの意識を呼び戻す。そのために必要な『体組織の代わり』は案外身近にあった。
わたし自身だ。
わたしも
思い返したところで、わたしは自分が思考していることに気づいた。
体組織が足りなくとも完全に意識喪失はしないのか、それとも――何らか別の原因があるのか。
現実ではない空間。ガーデナーの幻想領域とも違う。強いて言うならヒナヤの意識に潜った時と似た感覚。
どうやら一種の精神世界にいるらしい。
目の前では七つの突起が生えた巨大なミジンコがわたしをじっと見つめていた。
縁切神ピグナータを彷彿とさせる姿を仰ぐと、ミジンコの体から胎児が這い出てきた。色を変え、形を変え、見る見るうちに成長していく。そして一人の
「久しぶりね。エイシャ・クルルティカ」
「あなたは――」
「縁切神ピグナータよ。会うのは一般試験以来……いや、実質これが初めてね。ヒナヤの夢の中ではあなたに憑依してたから」
フランクな口調で神を名乗る少女。
だがそれ以上に、彼女の姿があまりにも印象的過ぎた。
「その姿は、なんで」
黒のナイロンジャケット。腰に帯びた刀。赤紫の体組織。
どこからどう見てもその姿は。
「なんでってそりゃあ認知レベルが違ってたら意思疎通がスムーズにできないでしょ? だから、わざわざ
「……アリーチェの姿を真似てるってこと?」
「そうそう、そういうこと」
うなずく口調すらもアリーチェそっくりだ。
「でも、どうしてよりによってアリーチェに」
「そりゃもちろん、エイシャの好みに合わせたからよ」
「……は?」
「だから――」
ピグナータは鼻先が触れそうなほど近づくと、わたしの耳元で囁いた。アリーチェの声で。
「エイシャの好みに合わせたの」
「ッ、離れてっ」
反射的に手で押し退けていた。
「えぇ、つれない」
「その姿もやめて、今すぐ」
「どうして。好きでしょ?」
「――とにかく、やめて」
なるべく平静を装いつつ言い返す。少しでも動揺してしまった自分が心底憎かった。
「はいはい、わかったわよ。……にしても、もう少し優しくてもいいんじゃない。結婚相手なんだからさ」
「…………はい?」
ピグナータはぼやきながら一歩後ろに下がった。姿がぐにゃりと歪み、別の
片目は頭にぐるぐる巻いた布で塞がれ、まとう服はボロボロ。下半身は不定形のままでわたしより一回り小さい。おそらく形成不全。この姿にもモデルがいるのだろうと、そんな感想が浮かぶが今はそれどころじゃない。
さっきの発言は何だ? 結婚相手?
困惑するわたしの前で、お色直しを終えたピグナータが微笑んだ。
「これでいいですか」
「ねえ、それよりさっきの何? 結婚相手って? どういうつもり?」
「どうと言われましても、私たち結婚しましたよね」
「……してないけど」
全然笑えない。つまらない。冗談なら致命的にセンスがない。
苛立つわたしを見ても縁切神は平然としていた。
「してますよ、ほら」
微笑みながら手招くピグナータ。その儚げな笑顔に引き寄せられるようにわたしの左腕が跳ねた。
「まあ、正確には『あなた』ではなく『あなたの左手』なのですが。――おいで」
左手がうねる。形が変わっていく。そしてついに、わたしの体から離れた。
新たな形状となってピグナータの隣で漂う。
「そ、それって」
箒を手にした少女の紙人形――
「やっと思い出しました? 縁切り池での私たちの出会い」
たしかにあの時わたしは
「でも、だからってこんなことが――」
「昔は川が溢れるたびに誰かが嫁いでくれましたが、最近はめっきり減ってしまい寂しかったのです。今回は久しぶりに良縁に恵まれました」
わたしの左手を元に作られた
「じゃあ、左手が石板に触れたせいで迷宮の主との戦闘が始まったのは」
「私の意向です。あぁ、待って、怒らないで。これには理由があるのですよ」
「……というと」
「迷宮の主と戦う機会は、今回を逃せばしばらく巡ってこないのです」
「で、無理やり戦わせたと?」
「はい」
だとしたら余計なお世話だ。他の探索者に先を越されることくらい覚悟している。そもそも、それを踏まえた上での
「ガーデナーは一週間待てば復活する。わたしたちに無茶させるほどの理由には聞こえないんだけど」
「本当に一週間待つだけで戦えるのならそうですね」
「……違うの?」
「間違ってはないです。でも、この迷宮自体あと数日で無くなりますから」
ピグナータは人差し指を立てて唇につけると「だから、どれだけ待っても復活しないのです」とつぶやいた。
「……なにそれ」
「あくまで私の予測です。でも、演算能力は高いですよ、神ですから。予言もだいたい当たります。……まあ、猫の気まぐれが絡むと難しいのですが」
「猫ってもしかして一般試験の時のこと?」
ニサが猫に食べられそうになった時、勝手に左手が動いたことを思い出した。
あれもピグナータの仕業なのだろう。
「まさにそれです。山猫の件は最悪でした。せっかく助けたのに、ニサは心が折れて探索者には成らずじまい。これだから猫は厄介なのです」
「……あの時はありがとう」
「ふむ、そう言われると悪い気はしないですね」
この神をどこまで信頼できるかはわからないが、あの時わたしたちが救われたことだけは確かだ。感謝を伝えるとピグナータは一瞬だけ柔らかい笑みを浮かべた後、すぐに小さく咳払いをした。
「ではあまり時間もありませんし、そろそろ本題に入りましょうか」
「本題?」
考えてみれば当然のことだ。神が理由もなく一介の
ピグナータの顔から表情が消えた。
「この戦いでシュテリア・ポストロスは命を落とします」
宣告は淡々と下された。
◆
それがシュテリアの見解であり、見立ては概ね間違っていなかった。しかし、ガーデナーと戦うアリーチェの姿を前に、シュテリアは考えを改める必要があると感じていた。
頭一つ抜けている?
とんでもない。
アリーチェの実力は正真正銘バケモノだ。
「想像以上にイージーゲームね。これならペリュトンの方が何倍も厄介だったわよ」
どれだけ切っても影に潜れば復活し、不利だと見れば飛んで逃げる。そんな相手と比べたら、たしかにガーデナーの方がまだ近接戦闘職は戦いやすいだろう。
しかし、だからといって楽勝かと言われるとそんなことはない。
石より硬い体は生半可な攻撃をものともせず、見上げるほどの巨体は腕を振り回すだけで凄まじい威力を誇る。実際に至近距離で戦い続けたシュテリアにはわかる。
とても刀一振りで太刀打ちできる相手ではない。ない、はずなのに。
アリーチェはガーデナーの放った弾丸のような突きをかわした。加えてそれだけでは飽き足らず、巨腕の上へと飛び乗ると、不安定な足場を滑るように駆けていく。
エイシャの体を借りているとのことだが、その動きは実に機敏で、ぎこちなさは感じない。一挙一動が精彩を放っていた。
「くらいなさいっ!」
アリーチェが刀を振るう度に、ガーデナーの体から
本来なら誰かがガーデナーの攻撃を引きつけている間に遠距離攻撃で壊すのが定石だが、ヒナヤにはもう残りの矢がない。アリーチェはエイシャの
「GAAAAAA!!!」
ガーデナーが
「シュテリア! お願い!」
果たしてボクの助けなどいるのだろうか。そんな疑問を殺しながら、シュテリアは邪視除けを失った腕を睨みつけた。巨腕の動きはスローになり、やがて停止した。
こうなってしまえばこちらのもの。このまま行けば勝負は決する。
その時、ガーデナーは最期の足掻きとばかりに竜の口を開いた。
「ッ!」
緊張が走る。
幸いにもガーデナーの顔はアリーチェへ向けられていた。アリーチェであれば
しかし、そもそも
偽竜の口元に光が収束し
攻略動画で一度も見たことがない予想外の行動を前に、アリーチェとシュテリアの動きに迷いが生じた。
シュテリアたちは知る
一つは、
そして二つ目は、敵が強すぎて絶対に倒せないと判断すること。つまり、ガーデナーが自らの敗北を確信すること。
その二つの条件が揃った時、ガーデナーは
「逃げてッ!」
光り出したガーデナーの姿に嫌な予感を抱いたのだろう。アリーチェは叫ぶと同時に全力で迷宮の主に背を向けた。
後に続こうとしたシュテリアだが、数歩踏みしめたところであえなく膝をついた。
シュテリアの足はとっくに限界を迎えていた。
バラの棘に裂かれた足は真っ赤に染まっており、満足に動かない。
地面に手をつく。
掌に棘が突き刺さる。
見下ろす視界では白薔薇たちが嘲笑うように揺れていた。
「――ッはぁ、はァ」
呼吸と心拍がやけに大きく聞こえた。
冷や汗が花弁に滴り落ちる。
その光景を最期に、世界は白く染まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます