第17話 猫の傀儡、名前のない屍

 突如、現れた死人のように蒼い顔の女に、わたしが感じたのは強い義憤だった。


「な、な、なっ! 猫になんてことを!?」


 こんなにかわいい猫を殺すなど、あまりに残虐だ。人の心がない。


「は!? いや、お前、魅了チャームが解けてるんじゃねえのかよ!」


 死人のように蒼い顔の女はなぜか驚いているようだった。悪逆非道を尽くしておきながら、よくもまあそこまで白々しい態度をとれるものだ。一周して感心しそうになる。

 対話はするだけムダだろう。それよりも先手を取ることを優先するべきだ。猫の敵を排除するために。


 わたしは擬造ミミクリを唱えようとしたが、その前に口がふさがれた。


「もががっ!?」


 口をふさいだのは、他でもないわたし自身の左手だった。

 困惑しながらも右手で左の手首をつかむ。だが、どれだけ力をこめても固まった接着剤のようにびくともしない。

 そんな一人芝居に、死人のように蒼い顔の女はゲラゲラと笑った。


「ぎゃははっ、ずいぶんと愉快な身体してんじぇねえか! 魅了チャームが効いてないのはその左手だけか?」

「もががっ!」

「……あー、笑った笑った。まあいい、お前はそのまま大人しくしてろ」


 彼女の言葉を引き金に、わたしは背後から何者かに羽交い絞めにされた。

 肉も皮もなく、かといって粘態スライムの体組織のようでもない、くすんだアイボリーの腕――骸骨の腕が見えた。

 その力は凄まじく、振りほどけない。擬造ミミクリを唱えようにも口はふさがれたままだ。打つ手がない。


 周囲に目を向けると、アリーチェたちも同じように身体の自由を奪われていた。その光景で、ようやくわたしは自分の状況を理解する。

 わたしたちは無数の白骨死体に拘束されていた。


「今でこそ試験会場に成り下がった『幻影の森』だが、かつてここは足を踏み入れた者を覚めない眠りへいざなう死の森として恐れられていた。幻影とは終わらない夢。影の国への玄関口エントランス。ここには数えきれないほどの名前の無い死が眠っている。つまり、死体を司る俺にとって、ここはホームグラウンドだ」


 死人のように蒼い顔の女が、かつての『幻影の森』の姿を語る。

 理解と共感は同値ではないが、意味空間における距離は近い。つまり、相手に理解を与える「説明」という行為は一種の呪術だ。

 由来を提示し事物を説き明かす呪文が世界に浸透していく。気づけば『幻影の森』は死と忘却の気配で満たされていた。

 猫の出現で厨房じみていた試験会場は本来の姿を取り戻し、映像作品の中でしか見たことがないような白骨死体が猫ぐるみの料理団と戦っていた。


 ぬいぐるみと屍。命なきもの同士の戦争。


「おい、山猫ミシカンカス。隠れてないで出てきな。この名無しの紀人ジョン・ドウが相手してやるよ」


 挑発的な物言いに、一匹の猫ぐるみが動きを止めた。ぬいぐるみの身体が少しずつ膨らみ、色や形、質感までもが変化していく。

 やがて、そこには先ほど頭を貫かれたはずの猫がいた。


「え、なんで? ……いつの間にかぬいぐるみ入れ替わっていたってこと?」

「違え。俺は間違いなく串刺しにした。だから、これは過去遡及的な身代わり成立だ」

「???」


 理解の及ばないわたしに、死人のように蒼い顔の女は「いいから、黙って見てろ」と告げた。


「猫の食事を邪魔するニャんて、とんだ不届き者だニャ」

「知るか。お前に食事をさせたら、責任問題で俺の首が飛ぶんだよ」


 自らを名無しの紀人ジョン・ドウと称する女は、そう吐き捨てると蝋のようにのっぺりとした左手を顔の前にかざした。


「『嗜虐嗜好』」


 人差し指の先に青い炎が灯る。


「『闘争心』『動物嫌い』『殺戮衝動』『行き過ぎた正義感』」


 死人のように蒼い顔の女が言葉を口にするたびに、残りの指の先にも青い炎が浮かんでいく。五指すべてに火が灯る頃には、女の瞳はどす黒い輝きを放っていた。半開きの口が三日月のようにつり上がる。

 タンッと大地を蹴る音が響いた。

 そこから先はとてもわたしの目では追えなかった。

 アクション映画を早送りしているかのような激しい攻防。どちらかが攻撃を仕掛けたと思う頃には、すでに反撃が終わっている。舞台の脚本をなぞるかのように滞りなく流れる様は、ある種の美しさすらあった。


 人の域を超え、神の領域に足を踏み入れた存在。紀人。

 猫とすら互角に戦える彼女は、たしかに紀人を名乗るに相応しいだろう。

 名無しの紀人ジョン・ドウ、山猫ミシカンカス。最後に舞台に立つのがどちらであってもおかしくないと思えた。


「くっそが! これだけ重ねても殺しきれねえのかよ!」

「料理は料理らしく、黙って食べられるニャ!」


 声を荒げるジョン・ドウに、山猫ミシカンカスが大口を開けて迫った。

 鋭い牙にむき出しの殺意と食欲が宿る。


「ちっ、しゃあねえ。これでも食ってろ!」


 ジョン・ドウが山猫の口目がけて何かを投げ入れた。

 ――いや、投げたのではなく、粉末のような何かを振りかけた?


 山猫の口が閉じる。直後、この世のものとは思えないおぞましいかわいい悲鳴が轟いた。


「ギニャニャニャーッ!」


 山猫は桐の箱に頭をガンガンと叩きつけながら、声にならない叫びをあげ続ける。


「マズいマズいマズすぎるニャ! き、きさま、ニャんてものを食わせたニャ!」


 ジョン・ドウはくつくつと笑いながら、その手に握った小瓶を見せつけた。


「巨人族に伝わる激マズ調味料『灰汁あくの素』。一振りすればどんな食事も食えたものじゃなくなるってのはマジっぽいな」

「そんなもんさっさと捨てるニャ!」

「言われずとも、そのつもりだっての!」


 そう言いながら、灰汁の素の入った小瓶を空高く放り投げた。


「『拡散』」


 いつの間にか火の消えていたジョン・ドウの指に、再び青い炎が灯る。

 同時にあたりに強風が吹き荒れた。

 小瓶に詰まっていた灰汁の素が、風に吹かれ広がっていく。


 白骨死体に羽交い絞めされたままのわたしたちは、粉末をかわすこともできずに頭からかぶった。

 幸い左手に口元を抑えられていたわたしは口に入らずにすんだが、他のみんなはそういうわけにはいかなかった。


「うげえぇぇ!」

「おっ、おえっ!」

「あががががばばっば!」


 狂ったように叫び、喉を掻きむしろうともがく。

 それほどまでに不味いのだろうか。

 あまりにも悲惨な姿に背筋が凍る。

 しかし、その光景に衝撃を受けたのはわたしたちだけではなかった。


「せっかくの料理にニャんてことをッ! これじゃあとても食べられないニャ! ひどい! 横暴ニャ! 猫権の侵害ニャ! ……うううっ」


 山猫ミシカンカスはおいおい泣き始めた。見ているだけで心が痛むがわたしにはどうすることもできない。

 やがて、山猫は泣き止むと腰の曲がった老人のようにうなだれたまま立ち上がった。


「もう、イヤだニャ……帰るにゃ」


 哀愁漂う猫の背中。

 山猫は首にさげた桐箱を開くと、振り返ることもなく中へと飛びこんだ。

 蓋が閉じる。同時に、桐箱と周りにいた猫ぐるみたちもパッと姿を消した。


「ふぃー、なんとか犠牲者ゼロですんだか。よかったぜ」


 ジョン・ドウが一息つく。わたしたちを拘束していた白骨死体も動きを止めた。

 勝手に動いていた左手も役目を終えたかのように、わたしの制御下に戻ってきた。

 ようやく解放されたわたしは、フルーツソースでベタベタの身体を見下ろし、顔を引きつらせた。


「い、いったいわたしは何を」


 猫に食べられるため、せっせと動いていた自分の姿が頭に浮かぶ。

 足が震え、膝をついた。

 自分が自分のまま――自分でなくなる。そのありえない感覚に顔が引きつる。


 竜の吐息ブレスと並んで恐れられる猫の魅了チャーム

 あれはダメだ。抵抗しようがない。

 間違いなく人が関わるべき相手ではない。

 だけど、猫はどこにでも現れる。猫は気まぐれ。人の理屈や常識は通じない。今この瞬間に山猫が戻ってくることや、別の猫と出くわすことだってないとは言えない。

 それが何よりも恐ろしかった。


「うぁ……」


 ニサを庇い、山猫の前に立った瞬間の光景が蘇る。

 眼前に迫る猫の顔が離れない。

 爛々とした瞳が今も忘れられない。

 寒くもないのに体の震えが止まらない。


 隣でうずくまるニサも、わたしに負けず劣らず酷い表情をしていた。


「しかし、お前ら運がよかったな」

「……運がいい?」

「猫と遭遇して五体満足でいられたんだ。充分、運がいいだろ。あの山猫の気がもう少し早けりゃ今頃お前ら全員、猫の腹ん中だぜ。そしたら蘇生も無理だろうな」

「……」


 ジョン・ドウの言葉は脅しでもなんでもない。この場の全員が理解していた。


「まぁ、猫に荒らされたのはここだけじゃねえ。あのふざけたぬいぐるみは『幻影の森』全域に散らばっていたからな。試験は切り上げだ」

「……試験」

「幸い、猫が出た時点で試験時間はほぼほぼ終わってたから、試験そのものがなかったことにはならんだろうよ」


 ジョン・ドウの「よかったな」という言葉が頭の中を素通りしていく。

 今は何も現実味を感じられない。

 胸やけするほど甘ったるいフルーツソースの香りはしばらく消えなかった。





「ヒナヤ遅いわね」


 『盈月えいげつ』の一般試験の合格者発表当日。

 せっかく一緒のパーティになったのだから、合格発表の確認も一緒にしようということで、わたしとアリーチェは『盈月えいげつ』本部の前でヒナヤと待ち合わせをしていた。


「……ニサもここにいたらなぁ」


 アリーチェがぽつりとこぼした。

 言っても仕方ないとわかっているけど、それでも口にせずにはいられない。そんな表情だった。


「仕方ないよ。あんな目に遭ったんだし」


 猫との遭遇はわたしたちの心に深い爪痕を残した。

 中でも、食べられる寸前までいったニサの心の傷は深かった。


『ごめんなさい。探索者になるのは、私にはムリです。覚悟していたつもりでぜんぜんできてなかったんだって気づきました。……試験は辞退しようと思います』


 頭を下げるニサを見たわたしが感じたのはショックよりも納得だった。

 そうだよな、それでいいよなという納得。

 アリーチェやヒナヤはかなりショックを受けているようだったが、それでもニサを引き止めることはしなかった。

 二人とも猫の恐ろしさは感じていただろうし、なによりもニサの言葉は切実だった。


 迷宮探索は危険と常に隣り合わせだ。

 とても強制していいものではない。


「お~い、エイシャちゃん! アリーチェちゃん!」


 ヒナヤが手をぶんぶん振りながら走ってくるのが見えた。


「遅いわよ」

「ごめんね、ワクワクして昨日あんまり寝れなくって」

「まるで遠足前の子どもね」

「でもでも、今回は今までと違ってすごく自信があるんだよね! これは絶対受かってるなーって!」


 ヒナヤは満点の笑顔を見せた。


「よーし、じゃあみんなお楽しみの合格発表に行こう!」


 勢いよく歩き出すヒナヤの後ろで、わたしとアリーチェは顔を見合わせた。

 アリーチェが囁く。


「……エイシャはどう思う?」

「正直、厳しいと思う」


 何を、と聞かずともわかる。

 ヒナヤが合格できるかどうかだ。


 正直、わたしはヒナヤが合格している可能性はかなり低いと思っている。

 たしかにヒナヤはジンクスから解放され、弓の腕もまともな水準に達した。それは確かだ。でも、試験の途中まで散々誤射しまくっていたのもまた事実なのだ。


「アリーチェこそ、どう思うの」

「アタシたちは迷宮の主を倒したのよ」

「……つまり、合格していると」

「それくらい評価されてもいい……はずよ。アタシもヒナヤも」


 まあ、アリーチェは間違いなく合格しているだろう。

 でも、ヒナヤはどうなんだろうか。なんだかんだいって、わたしはペリュトンとアリーチェたちが戦う現場には居合わせていないので、ヒナヤの活躍が失点を取り返すほどのものかは全然わからない。

 ただ、当事者であるアリーチェがそうだというなら、そうなのだろう。


 わたしたちは掲示板の前にたどり着いた。

 ヒナヤの夢の中で何度も見た場所だからか、初めて来たのにどこか懐かしさを感じる。

 しかし、実際に自分の目で見るとどこか閑散としているように思えた。


「なんか人少なくない? ねえヒナヤ、試験の合格発表っていつもこんなもんだったっけ」

「うう~ん、言われてみればなんか少ない気もするような、しないような」


 ヒナヤの返答はふにゃふにゃしていて頼りにならない。

 まあいい。

 わたしは自分の番号を確認し、掲示板へと目を向けた。


「よかった。合格してる」

「アタシもあったわ」


 アリーチェの声も続く。

 問題はヒナヤだ。


「えーっと、えーっと」


 掲示板とにらめっこするヒナヤを、わたしたちは固唾をのんで見守る。

 自分のことではないのに、やたらと時間の進みが遅く感じる。


 ヒナヤの横顔をじっと見つめる。

 改めて眺めると、幼さの残る顔立ちはとても百年以上生きているとは思えない。それでも、彼女はたしかに百年間、試験に挑み続けてきたのだ。わたしはそれを知っている。知ってしまった以上は――やっぱり報われて欲しい。

 そう思った時、ヒナヤの目がパッチリと開いた。

 口元がほころぶ。


「やった、やった、やったあぁ~!!! ヒナヤ、ついに合格したよ!」


 隣で赤紫の粘態スライムがニヤリと微笑んだ。


「ほらね」


 まるで最初から確信していたといわんばかりのアリーチェの顔に、わたしは思わず吹き出したのだった。

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