第15話 悪縁切り
エイシャちゃんの首が落ちた。
半透明の頭が地面にぶつかり、ぺちゃりと音をたてる。
頭を失えば生き物は死ぬ。
そんな当たり前を笑い飛ばすかのように、首のない少女は倒れることなく立っていた。
エイシャちゃんが
それともここがわたしの夢だから?
茫然と見つめるわたしの前で、青緑の身体が溶け始めた。
青緑のゼリーの身体が、白のナイロンジャケットとドロドロに混ざり合い、一つの水の塊になっていく。
宙に浮かび上がった水の塊は、まるで心臓のように脈打ちながら形を変えていった。
その姿を見たわたしは幼い頃に読んだ水の生きもの図鑑を思い出していた。
目では見えないほど小さな生き物プランクトンが集められたページ。
「……ミジンコ?」
デフォルメしたヒヨコのような形の体と、そこから生える木の枝みたいな二本の手。上部には大きな一つ目玉がついている。
その姿はまるで巨大なミジンコだ。
ただ、すべての特徴がミジンコと同じわけでもない。
巨大な身体からは突起が七つ生えている。
なにより目を惹くのは、透きとおった身体の中で小さく丸まる赤ん坊の姿だ。
この得体の知れない生物が、エイシャちゃんの言っていた神さまなのだろうか。
ミジンコの頭にある一つ目玉がギョロリと動き、わたしを見据えた。
「
どこから発しているのかもわからない声。
『わたし』と『あなた』。
まったく異なるはずの二つの言葉が、まるで同じ意味であるかのように重なり合い頭の中に流れてくる。
「
「……ヒナヤは」
わたしは辺りを見渡した。
倒れてしまったツリーハウスを見た。
見渡す限り広がる雪景色を見た。
焦茶色の小鳥たちを見た。
思い思いの姿で戦う仲間たちを見た。
そして最後に、目の前に立つ神さまを見た。
「ヒナヤは、あの小鳥たちから離れたい。悪口から、噂から、悪評から、縁を切りたい!」
「その願い、確かに聞き届けた」
神さまの木の枝みたいな手が、水をかくように動く。
気づけば周囲の景色は一変していた。
あれほどいた仲間たちの姿はなく、雪も森も家も何もかもが消え去り、寂しげな空間が見渡す限り広がっていた。
そこにいるのはわたしと神さまと小鳥たちだけ。
――いや、違う。
いるのは神さまと小鳥たちだけだ。
そこにわたしの姿はない。
わたしはこの世界そのものだ。
何もなく全てがあるこの空間こそがわたしだった。
神さまが手を動かすと、何もなかった空間に水が満ち始めた。
水から逃げるように、焦茶色の小鳥たちは上へと向かっていく。
その行く手を塞ぐように、水の壁が現れた。
巨大な津波だった。世界を丸ごと覆いつくしてしまいそうな、とても大きな波。
行く先をなくした小鳥たちが口汚く叫ぶ。
だが、その声はもう聞こえない。
波が全てを飲みこんでいった。
世界は水で満たされ――わたしの意識は途切れた。
◆
リグサキサスーバと二人、威勢よく迷宮の主に挑んだものの、アタシたちの戦いは泥仕合の様相を
「寝てるヒマなんてないわよ! 起きなさい!」
シュテリアから受け取った気付け薬の酒を使い、リグサキサスーバを叩き起こす。
「……うっ、すまん。油断した」
リグサキサスーバは
ペリュトンが放った伸びる角の一撃は、シャボン玉に阻まれ、鈍い音を立てるだけに終わった。忌々しげな鳴き声が響く。
だが、それはこっちも同じだ。
「影に潜るのをどうにかしないとジリ貧ね」
ペリュトンは身体を液状化することで、地面の影に潜りこむことができる。しかも、その影のような体に飲みこまれると強烈な眠気に襲われる。
リグサキサスーバが眠りに落ちた時はヒナヤのように目覚めなくなるかと焦ったが、幸いなことに気付け薬が効いた。さすがに一人で戦える気はしないので、もし起きなければ詰んでいただろう。シュテリアの気付け薬さまさまだ。
これだけでも厄介なのに、ペリュトンの特徴はそれにとどまらない。
「せめて回復さえ止められればいいのだがな」
リグサキサスーバが舌打ち混じりに告げる。
そう、まさにそれが一番の問題だ。
影に潜伏したペリュトンが再び姿を現すと、どういうわけか傷がすべて治っているのだ。どれだけ攻撃を与えても、影へ潜れば元どおり。生半可な攻撃ではまるで痛手にならない。
影への潜伏移動。睡眠誘発。身体修復。
これらをどうにかしない限り、迷宮の主には勝てない。
「さて、どう攻める」
「斬る。それしかないわ」
「相手は頭に槍が刺さっても死なないような奴だぞ」
以前、リグサキサスーバが投擲した槍がペリュトンの頭を貫いたが、その傷はすでに跡形もなくなっていた。
物理的な攻撃では倒せないと判断するのも無理はない。
だが、アタシの考えは違う。
例えば
そして、
「全身切り刻めばさすがに死ぬでしょ」
「正気か」
「ダメだったら、その時はその時よ」
「……だとしても、そもそも可能なのか。相手は空を飛んでいるのだぞ」
リグサキサスーバの指摘はもっともだった。
戦い始めてから何度か攻撃を入れたが、それで警戒されたのだろう。ペリュトンは一向に空から降りてこなくなっていた。迷宮の主の名にプライドはないのか、問い詰めてやりたい気分だ。
この状況を打開するには、なんとかして大地に引きずり下ろすか、アタシが空で戦うか。
「泡は出せる?」
その言葉だけでリグサキサスーバには伝わったようだ。
「しくじるなよ」
「そっちこそ」
リグサキサスーバは大きく息を吸い込むと、指を二本ほど顔の前にかざし、強く息を吹きかけた。頭と同じくらいのサイズのシャボン玉がいくつも生まれ、空に浮かび上がっていく。
アタシは助走をつけ跳び上がり、シャボン玉に飛び乗った。
次から次へとシャボン玉を跳び移り、ペリュトンへと迫る。
ペリュトンは紺色の翼を広げると、羽根を弾丸のように射出した。
無数の羽根が飛び交う空を、泡だけを頼りに駆け抜ける。
刀を振り抜いた。ヒュンと小気味良い音が響く。
確かな手ごたえがあった。
「ピイイィィィ!!」
片翼を裂かれたペリュトンが悲痛な鳴き声をあげる。
今が畳みかける時だ。
再び跳びかかろうと膝を曲げた瞬間、足元の感覚が消えた。
「なっ!」
足の先が空をけり、空中に放り出される。
なぜか泡の足場が消えていた。
風の抵抗と重力を全身で感じながら、辛うじて地上を見下ろす。
泡を操作していたはずのリグサキサスーバが紺色の小鹿たちに囲まれていた。いくらリグサキサスーバと言えど、敵に囲まれながら泡の足場を維持はできない。
地面が眼前に迫る。
つづいて全身に衝撃が走った。
受け身を取ったものの、落下の衝撃を殺し切れるはずがない。全身の体組織がぐちゃぐちゃになっているのがわかった。
地べたすれすれのアタシの視界に小鹿の姿が映った。
ぺリュトンが呼び寄せたのか、はたまたこの場で作り出したのか。リグサキサスーバの援護も望めない以上、状況は致命的だ。
倒れて横向きになった世界で、幼い怪物と目が合う。
死を覚悟した。
「させませんっ!」
茶色のブーツで視界が隠れた。
聞き覚えのある少し裏返った声に、見覚えのある服装。
ブーツから伸びる脚がガタガタと震えているのは、きっと見間違いじゃない。
「……ニサ?」
直後、衝突音とうめき声が響いた。
反射的に刀を握ろうと手を動かすが、アタシの身体はまだ戻りきっていない。
何もできないアタシの前でよろめいた足が地面を抉る。顔の近くに泥が跳ねた。
「わっ、私だって――私だって!」
ニサが勢いよく足を踏み出した。茶色のブーツが一気に遠ざかり、アタシの視界が開ける。
そこでようやく、小鹿とニサの戦闘の全容が見えた。
ニサの左手は緑の炎に包まれていた。その炎は
揺らめく血はその手に握られた剣にまで伝い、鉄剣を炎の剣たらしめている。
「もっと! もっと、燃えて!!」
ニサの叫び声に従い、左手と剣に付着した
それはまるで闇を照らす松明のようだった。
松明が振り下ろされる。
袈裟切りを受け、小鹿は緑の炎に包まれた。
「はぁ、はぁ、はぁ」
「やるじゃない」
「アリーチェさん! だいじょうぶですか!」
「ありがとう。助かったわ」
走り寄ってくるニサに感謝を述べる。
ようやく元に戻ってきた身体を起こし、空へと目を向けた。
ペリュトンの姿が消えていた。
「ニサ! 影を消して! 今すぐ、アタシたちの周囲を炎で照らしてッ!」
「はっ、はイ!」
ニサは戸惑いながらも左手の剣を掲げた。炎が木々の影を照らす。それでも全ての影を消せるわけではない。松明持ちの背後には必ず影が伸びるように、ニサとアタシの足元にも影ができている。
足元の影が揺れた。
その瞬間、アタシはニサを抱きかかえ真横に飛んだ。
背後に感じる冷たい温度。影に潜んでいたペリュトンが空へと昇っていくのが、背中越しでもわかった。
すぐさま振り向き空を仰ぐと、忌々しげにこちらを見下ろすペリュトンと目が合った。
最大の不意打ちをすかしてやったことに、気分が高揚する。
いらだったペリュトンが翼を広げ羽根を飛ばす。しかし、それらはすべてシャボンの障壁にせき止められた。
「アリーチェ、無事か」
「まったく。ニサが来てくれなかったら死んでたわよ」
「……すまん」
「まあ死んでないから別にいいけど。今度こそ成功させなさいよ」
「まさか、またやるつもりか」
「さっきは二人。今は三人。リグサキサスーバは泡の操作に集中して、ニサはそれを死守する。これならいけるはずよ。――ね?」
アタシはリグサキサスーバではなく、ニサを見つめた。
「まままかせてください!」
「ほらね」
「……いいだろう」
「よし! それじゃあ、戦闘再開よ!」
リグサキサスーバが泡で足場を作り、アタシが飛び乗っていく。
そこまではさっきと同じ。でも今はニサがいる。
地上を見下ろすと、再びどこからともなく現れた紺色の小鹿たちの前にニサが立ちふさがっていた。
これなら任せられる。アタシはアタシの役割を果たすだけだ。
「今度こそっ、斬る!」
泡の足場を頼りに迷宮の主へと肉薄する。
だが、ペリュトンの側も前回と同じではなかった。
空を飛び跳ねるアタシを迎撃することもせず、ひたすら一定の距離を保ったまま飛翔する。完全な逃げの一手。それは悔しいことに効果的だった。
リグサキサスーバを落とせば、アタシも落ちることを理解しているのだろう。
羽根や角を用いた攻撃はすべてアタシではなく、地上の二人へと向けられていた。
アタシはなんとかペリュトンに追いつこうと、泡の足場を跳び移るが、それでも届かない。リグサキサスーバの泡の操作精度は前回より数段高いが、ここまで逃げに徹されてしまえばさすがに追いつけない。
まだ、足りない。
あと一手。もうひと押し何かが欲しい。
「くっ、逃げるな!」
思わず声にいらだちが宿る。
その時、ペリュトンの瞳に一本の矢が突き刺さった。
「ピイイィィィ!?」
続けざまに放たれた矢が、今度は翼を引き裂く。
目に見えてペリュトンの動きが鈍った。
「みんな! おまたせー! ヒナヤ、ばばんと大復活!」
矢を放ったのは驚くことにヒナヤだった。
しかも、今までとは比べものにならないほど弓が上手くなっている。
無事復帰したヒナヤの姿に、思わず口角がつり上がる。
ヒナヤがここにいるということは、エイシャが見事役割を果たしたということ。
やっぱりアタシの親友はやる時はやる
これで迷宮の主と戦わなければいけない理由は消えた。逃走の選択肢も選べる。
だけど。
「ここまできたら勝ちたいわよね」
迷宮の主との対峙。仲間の到着。
探索者ならば、この局面で興奮しなきゃ嘘だ。
ここで勝負にでなきゃ探索者は名乗れない。
アタシは迷うことなく泡の足場を蹴った。
「アリーチェちゃん! エイシャちゃんからの伝言! 切るだけじゃなくて燃やせだって! 炎に影はできないから!」
「なるほどね!」
動きの鈍ったペリュトンを切りつける。
首、頭、脚、翼、角、胴、ありとあらゆる部位に刀を突き立てていく。
幻影の森にこだまする悲鳴。声なき命乞いに耳を貸すことなく、アタシはシュテリアから預かった気付け薬を取り出した。
「そんなに痛いなら傷口を消毒してあげるわ!」
ペリュトンに気付け薬を思いきり振りかける。
気付け薬、それはすなわち酒だ。
「ヒナヤ! ニサ!」
エイシャの伝言を聞いた時点でニサも察したのだろう。
すでにヒナヤの矢には
ヒナヤが火矢を構える。
「当たって!」
エルフの弓から、炎の矢が勢いよく放たれた。
空に緑の線が描かれる。
その軌跡は今までのヒナヤからは想像できないほど綺麗だった。
だけど。
――それでは当たらない。
アタシの直感がそう告げていた。
火矢の軌道はペリュトンからわずかに逸れているように見えた。
このままでは、間違いなく外れる。
「お願いッ! 当たって!」
強い風が吹いた。
今までの戦いで散々、不幸をもたらしてきた謎の強風。
だが、今回は違う。
風は幸運を運んできた。
緑の軌跡がわずかに歪む。
「ピイイイィィィィ!」
「やったあぁ!」
気づけば火矢はペリュトンに突き刺さっていた。
アルコールにまみれた紺色の身体が瞬く間に炎に包まれていく。
アタシは泡を段々に飛び降りた。全身を焼かれ地に落ちたペリュトンを油断なく見つめる。
ペリュトンは身体を液状化させていたが、影に潜ることはできずにいた。
燃え盛る自身の身体が光源となっているせいで、近づく影がすべて消えてしまうからだ。
樹々の裏。アタシたちの足元。影はいたる所に存在する。それなのにどれもペリュトンの身体には届かない。
「リグサキサスーバ、あたりに火が燃え移らないようにしといて」
「…………」
リグサキサスーバはヒナヤを茫然と見つめていた。
あれほどボロクソな評価を下したヒナヤが、よりにもよって迷宮の主にとどめを刺したのだ。思うところがあるのだろう。
「リグサキサスーバ?」
「ん? ああ、任せろ」
リグサキサスーバがペリュトンの周囲を巨大な泡で包んだ。
しばらくの間、ペリュトンは苦しげにのたうち回っていたが、炎が消える頃には完全に動きを止めていた。
焦げた大地と灰だけが、そこに迷宮の主がいた事実を示していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます