第9話 夢の世界
まさに夢の世界と呼ぶにふさわしいあやふやな場所だった。
世界の解像度が低いと言えばいいだろうか。
ここが森の中だということはわかるけど、生い茂る木々も、足元の土も、降りそそぐ木漏れ日も、まるで油絵のように質感が粗い。
絵画の中を歩くような不思議な感覚を抱きながらも、ひとまずヒナヤの夢への侵入は成功したようだと、わたしは胸をなでおろした。
『疫病神』『帰れ』『全部お前のせいだ』
不穏な言葉の羅列に思わず目を上げる。木の枝に焦茶色の小鳥たちがとまっていた。
『落ちこぼれ』『恥知らず』『死ねよ』『目ざわり』『はやく消えてくれ』『役立たず』
虫を見るような目つきで、ひたすらに罵倒を繰り返す。声音はさまざま。ヒステリックな女声もあれば、嘲るような男声もある。
いくら言葉を発しているといっても、意思疎通できるとはとても思えない。
その予感は正しかった。
目が合うや否や、小鳥たちは枝から飛び上がり襲いかかってきた。
「やっば」
考えるよりも先に走り出していた。
一羽一羽はただの焦茶色の小鳥にしか見えないが、十数羽と集まればその威圧感は無視できない。捕まればろくなことにならないのが目に見えている。
小鳥たちは伸縮自在の舌をもっているようで、逃げるわたし目がけて鞭のように舌を伸ばしてきた。
ここは夢の世界。イメージが追いつく限りどんな姿にだってなれる。
わたしは自らを鳥の姿へと変化させ、伸びる舌から飛んで逃れた。
思い描くのは圧倒的な速さだ。小鳥の群れが追いつけないほどの速き翼。ひたすらにそれだけを追い求める。
そして、絶句した。
先ほどの群れの何十倍もの小鳥たちが青空を埋めつくしていた。
まるで壁にこびりつくカビのようにあたり一面に広がる鳥、鳥、鳥。
ひと目見ただけでもあまりの数にめまいがしそうなのに、その小鳥たちがいっせいに目を向けてきたとなると、それはおぞましさを越えた恐怖だった。
『消えろ』『やめちまえ』『ウザい』『バカじゃねえの』『死ねばよかったのに』
数百の小鳥から同時に放たれた罵倒はもはや地響きにも等しい。
群れそのものが一つの生き物であるかのように
全身の羽根が逆立つ。なるほど、これが『身の毛もよだつ』という感覚か。
わたしは恐怖心という本能に従い、全力で空を翔けた。
死にもの狂いで逃げ場を探す。
眼下に広がる油絵の森に不自然な空間があった。木々に埋め尽くされることもなく、大樹が一本だけそびえたっている。樹上にはツリーハウスと思しき家があった。
わたしは迷わずツリーハウスに飛びこんだ。
入口から扉を叩いて入るなんて行儀のいい真似をする余裕はない。開け放たれた窓から勢いよく体を滑りこませる。
「わわわわわっ! な、なななにッ!?」
尻もちをついた女の子と目が合う。
あんぐりと口を開ける女の子の前で、わたしは
「あーいや、驚かしてごめんね。変な小鳥の群れに追われて、死ぬか生きるかの瀬戸際だったからさ。思わず家を見つけて逃げこんじゃった」
「ええっ、だいじょうぶだった!?」
「いちおう平気。悪いけど少しだけここに居させてもらってもいいかな」
「うん、いいよ」
女の子の外見にはどこか見覚えがあった。
金髪碧眼に白い肌。細く長い耳。まだ年端もいかないエルフの少女。
「えーっと、ヒナヤであってるよね」
「え、う、うん、そうだけど……お姉さんはだあれ?」
きょとんと見つめてくる顔は現実のヒナヤに比べて明らかに幼かった。
「もしかして、わたしのこと覚えてない?」
「うん」
「あー、そっか」
外見どおり記憶も後退しているのだろう。もしくは出会って一日すら経っていない相手だから、夢の中で思い出せるほど印象がないのか。
いずれにせよ、わたしがここでやるべきことは変わらない。
ヒナヤが夢から出られない原因を見つけ出し、解消するだけだ。
改めて部屋の中を見渡す。
お菓子のたくさん並んだテーブル。ウサギやクマの可愛らしいぬいぐるみ。木製のおままごとセット。どれもいかにも子どもが好きそうなものばかりだ。
そんな中でひときわ目についたのは、数冊の本がおかれた本棚だった。
どの本も百科事典のような豪奢な装丁をしており、子どもが好みそうな絵本は見当たらない。
子どもらしい部屋の中で、この本棚だけが異彩を放っていた。
「この本って、ヒナヤの?」
「うん、そうだよ」
「へえ」
おもむろに本へと手を伸ばすと、幼いヒナヤがわたしと本棚の間に滑りこんできた。
「だめっ! これは勝手に読んじゃダメなの!」
「ご、ごめん」
「それより、お姉さん、いっしょに冒険ごっこしようよ、冒険ごっこ!」
幼いヒナヤはわたしをテーブルへとぐいぐい引っ張っていった。
お菓子の列を端へと追いやり、代わりに人形を並べていく。
「お姉さんはさっき鳥さんだったから、ペンタくんね」
「あー、うん」
ペンギンのぬいぐるみを押しつけられてしまった。
こんなことをしていていいのだろうか。
「よぉし、それじゃあみんなで冒険にしゅっぱ――」
幼いヒナヤがえいやと手を上に伸ばした時だった。
窓から差し込んでいた日の光がなにかにさえぎられ消えた。思わず窓の外へと目を向ける。
「うわっ」
あのおぞましい小鳥の群れがわたしたちをジッと見つめていた。
『くたばれ』『出来損ない』『負け組』『死んじゃえ』『ゴミくず』『二度と来るな』『消えろ』『いなくなれ』『あきらめろ』『お前には無理だ』
悪意の群れがひたすらに呪詛を振りまく。
なぜか窓から入ってくることはないが、それでも何百もの視線に見つめられながら聞く罵詈雑言の合唱は、とても正気の光景には見えない。
「いぃ、ぃや……やめて、やめて、やめて、やめてやめてやめて」
幼いヒナヤがわめきながら床にうずくまる。テーブルに腕があたり、お菓子が皿ごと下に落ちた。
だが、食器の砕ける音も、ヒナヤのすすり泣く声でさえ、呪いの言葉にかき消され聞こえない。
「ヒナヤ!」
あわてて駆け寄り、幼いエルフの肩を抱く。ヒナヤの身体は震えていた。
「だいじょうぶ、これは夢、全部夢だから」
「いや、ぃや! ききたくない、ききたくない、なにもききたくない!」
肩をなでるが、落ち着く様子はない。
ここはヒナヤの夢だ。彼女が恐れれば恐れるほど恐怖は脚色され、よりおぞましくなる。
部外者のわたしが立ち向かったところで勝てるとも思えない。そもそも、このツリーハウスに逃げこめなければ、わたしはあの群れに飲みこまれていたはずだ。
わたしはテーブルから落ちたナイフをつかんだ。
ヒナヤに見えないように自分の左手を切り落とす。とある道具の姿を強くイメージすると、左手だったものは瞬く間に形を変えていく。
わたしはその道具をヒナヤの耳につけた。
「…………ぁれ、声が」
作り出したのは、使い慣れた音楽プレーヤーとイヤホンだ。イヤホンはたいして音質もよくない安物。でも今はそれで構わない。
わたしは音楽プレーヤーを再生した。バーチャルシンガー・スピカの曲が流れる。歌姫の名を冠するわりに少し滑舌が悪くて間の抜けた歌声が、ヒナヤの耳元で罵倒をかき消していく。
しばらくするとヒナヤも落ち着いたようだった。
それに合わせて、あれほどうるさかった小鳥たちの鳴き声もいつのまにか止んでいた。
「あ、あの、お姉さん、ありがとう」
「落ちついた?」
「うん、なんだかすごく楽しい曲だったから、きいてたらヒナヤも楽しくなってきちゃった」
「じゃあ、それはヒナヤにあげようか」
「え、いいの?」
幼いヒナヤは目を丸くして、ぽかんと口を開けた。
ここが夢だと理解しているわたしからすればたいしたことじゃないのだけど、ヒナヤはそう思えないのだろう。かなり驚いているようだった。
「誰かに嫌なことを言われたり、みんなが敵に見えるときはそのイヤホンで耳を塞いだらいいよ。音楽は魔法だから」
「まほう?」
「うん、魔法。聴くだけでめちゃくちゃ強くなれちゃう」
「えーっ、ほんと!? じゃあ、ヒナヤはこれでスーパーヒナヤになれるってこと?」
「ヒナヤがなりたいと思えばね」
金色の髪をやさしくなでる。
幼いヒナヤは音楽プレーヤーを大事そうに抱えながらはにかんだ。
「ねえ、お姉さん、あのね。……お姉さんなら、ここの本読んでもいいよ」
ヒナヤが手で示したのは、わたしが勝手に触ろうとして怒られた本棚だった。
「いいの?」
「うん、魔法をくれたお礼」
音楽プレーヤーと引き換えにというのはなんだか騙しているようで気が引ける。けれども、せっかく事態解決の糸口になりそうな機会だ。ここは大人しく厚意に甘えることにしよう。
「それじゃあ、ちょっと読ませてもらおうかな」
わたしは本棚の一冊へと手を伸ばした。
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