六話 腐敗、屍、炎(前)

 グチュリ。粘性を帯びたそれは、れったいほどゆるやかな速度で動き始めた。


「ぁ…… ぁぁ……」


 それは男の体にまとわりついていく。


「いやだ…… どうしてなんだ……」


 鼻をつんざくような腐敗ふはい臭。どうにへばりつき、いずり回る不快感。


 それなのに男は抵抗すらしない。


「エリー、ハンソン、ライブラ、ハンス、オーガン」


 男が発した声にられるように、粘液は男の口元までその体を伸ばす。


 彼が少しも動こうとしないのは、左足が折り取られ出血による倦怠けんたい感を帯びているからか。


 それともそれを言い訳に、その壊れかけの心が生きる事を拒否しているからか。


 泥のような粘液はすでに、男の口と鼻をおおくした。


 どちらにせよ男が死ぬ事は確定したという訳だ。


 男の体はだつ力しきって、せまってくる死の運命を待ち受けている。


 次第に高まっていく息苦しさの中、男はもう一度、自らの一党──黒の猟犬隊の仲間の事を思い浮かべた。


 ……ああ、皆。俺を守る為に死んで行った皆。ごめん、俺、約束は守れそうにない。


「──」


 ……分かってる。でも、もうダメなんだ。


「──」


 ……俺も、すぐにそっちに向かうから。だから。


「──」


「──」


 男は仲間の名を呼ぼうとした。しかし、粘液でおおわれている事を思い出し、口の中で留まった言葉を転がすようにする。


 だが、大丈夫だ。彼の言葉はしっかりと届いているようで。仲間の死体をかき集めたその汚泥と呼ぶべき粘液の塊は、男の言葉に答えるように、体を大きく震わせた。


 男は目を閉じる。


 いきが、くるしく、なっていく。


 男はのど元に手を当ててもがこうとする。けれども、粘液と疲労が邪魔じゃまして振りほどけない。


 体が、


 跳ねる、


 跳ねる。


 男の意識はすでき消えていた。生理的な反応だけが、男の体を動かし、痙攣けいれんさせている。


 肉の潰れる音。


 骨の砕ける音。


 頭蓋ずがいの割れる音。


 脳髄のうずいすする音。


 ……後には一党だったもの・・・・・・・だけが残されて、次の獲物えものに向かって底の無い食欲を見せびらかしていた。


 断続したくつびょうき鳴らす音に釣られて、汚泥共がいずり回る。






 ……






 歩けば歩くほど臭いは強くなっていく。先ほどまでは鼻に違和感がある程度だったのに、今では辺りに死臭がただよっている。


「何よコレ。酷い臭いだわ」


 シエラは鼻を摘み、口をひん曲げて愚痴ぐちを吐いた。


「今の内に鼻で息をしておけ。その内慣れる。そのままもっと近い所にいったら吐くぞ」


「うぇぇ」


 こんな臭いを鼻に取り入れるのも嫌だが、後で──特に戦闘中に──吐いてしまうのももっと嫌だ。


 エイベルの忠告に従って、シエラは渋々しぶしぶ鼻を開き、えづきながら呼吸をする。


「それにしても、この先に臭いの原因があるという事は……」


 アンネの手は震えていた。


 マルコとシドの事でさえも薄れてしまうような、濃密な気配。これほどまでに強い死の匂いを、彼女はまだ知らなかった。


「当然、戦闘になるだろう」


 どうせ避けては通れまい、とケインは言う。行きはこの道を進んで行った。帰りもやはりここを進んで行かなければいけないだろう。


 迂回うかいする道も有るけれど、曲がりくねった迷宮の通路を当てもなく探し回ることなど自殺も同然だ。


「つくづく思い通りにならないものだな」


「そういうものだろうよ、迷宮は」


 エイベルは己のひとみかすんだようににごらせて、ただ暗闇の先に待ち受ける障害を見据みすえていた。


「……あのさ」


 シエラが何かに気づいたようで、歯切れの悪そうに言葉をつむぐ。


「……なんだ」


 ケインもそれを分かっているので、嫌そうに返事をした。先ほどから気にしない振りをしていたのである。


「臭い、いよいよ強くなって来てるわよね」


「そうだな」


 ケインの鼻が腐臭ではないものをぎとっていた。うっすらと流れてくる鉄の匂い。血の匂いを。


 ……誰か死んだな。それも一人じゃない。


 向かい風が匂いを運んでくる。音を運んでくる。望んでいようと、無かろうと。


 ケインの口から、乾ききった吐息がれた。


 何かがきしむ。何かがうごめく。耳裏にまとわりつきいずり回る不快感が、ケインの心をき乱している。


 肉の潰れる音。


 骨の砕ける音。


 頭蓋ずがいの割れる音。


 脳髄のうずいを啜る音。


 シエラが胃の中の物をき出した。


 周りにただよえた匂い──それは探索者達につかの間の平静を取り戻させた──。しかしそれさえも、風が運んでくる肉と血液のむせ返るような匂いにき消されていく。


「行くぞ」


 ケインが歩き出した。


「な、に」


 胃酸で焼かれ、痛むのど。ぐちゃぐちゃに混ぜられて熱くなった頭。シエラはえきれずにひざをつく。


「行くって、前に?人が、死んだのに?私達だって死ぬかもしれないのに?」


「食事をしている内に叩く。遅かれ早かれ襲ってくるぞ。こちらに聞き耳を立てているからな」


 脳裏に焼け付く鋭い殺気。隠す事もできぬほどのぼう大な食欲。──何たる貪食どんしょくであるか!


 この先に居た誰かの死体が無かったとしたら。この恐るべき怪物は他のものに目もくれず、この一党へと向かって来ただろう。


 ケインは走り出し、他の皆も後に続いていく。断続したくつびょうき鳴らす音は、遅れたシエラから段々と遠ざかっている。


「なによ、もう……」


 シエラは死ぬのを恐れている。自分達の力では勝てないかもしれない。だとしても、自分の呪術が欠けたとしたら、彼らはもっと劣勢になるだろう。


 そうして彼らが戦って死ぬ。いやだ。


 それに、一人取り残された呪術師──それも呪術は残り一度きり──に一体何ができると言うのか。


「死なば諸共もろとも。アイツらが戦うって決めたんだから、アタシだって力を貸さなきゃいけないんだ。上手くやれるか分からないけれど」


 シエラは震える足にむちを打って立ち上がる。汗がくつの中で蒸れる不快感を追いやって。


 そして消えかかった皆の後ろ姿を見失わないように、何度か転びそうになりながらも急いであとを追っていった。






 ……






『呪術』


呪いの力によって、世界を思うがままに書き換える奇跡。


使用するためには、出現させる現象の事を極限まで想像する必要がある。


起こす現象が現実から離れていくほど、より使用する呪いが多くなっていく。


そのため呪術師は、木炭などの辻褄つじつまを合わせる道具をたずさえている。

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