十二話 『英雄』というものの脆弱さは
黒い花が咲き
その中央に、彼女は座っていた。
彼女は俺に気がつくと、いつものように
俺は彼女の手を
その赤色をまじまじと見つめていると、
……
こうしていると、彼女が愛おしくて愛おしくて、
首にそっと手を当てる。
「……」
彼女は口ずさんだ。
「分かってる」
俺は、彼女の首を握り
彼女が一つの花弁に
一つの花の花弁が落ちてしまうと、また別の花が花弁を切り離した。
俺はずっと、その光景を見続けていたのだった。
……
軽くなった体に目をやると、左腕は、やはり無くなっている。血まみれの鎧下を着ていたはずなのに、今着ているのは
ケインは、
軽い体とは
麦
「ようやく起きたのね」
「ようやくって、まだ朝だろう」
そんな間の抜けた言葉に、シエラは
「ええ。アンタ達が戻って来てから二日経った後のね」
道理でこうも腹が減っている訳だ、とケインは思った。あれだけ逃げ回った後に飯も食わず眠りこけていたなら、確かに死にそうな気すら覚えるはずだ。
ケインは何か口に出そうとしたが、それを引っ込めた。シエラの口は固く結ばれていて、何か下手な事を言ってしまえば
いつの間にか、気まづい
そんな中、シエラは覚悟を決めたように深呼吸して、それから真っ直ぐケインと目を合わせる。
ケインは目を
「まずは、アンタが帰ってきた事。アタシは
そう言ったシエラは、言葉とは裏腹に
「……アンタを置いて
ケインは、シエラの言葉に
自分の行動が、シエラの心に負い目を作ったのだと。それに行動の結果として、ケインは関係の無い探索者を巻き込んで、命を
そんな事なら、あんな
「それはきっと、アンタのせいでもあるし、アタシ達が
ケインは、シエラの瞳の奥に暗い炎が
「もし次にむちゃするような事があったら、アンタを
シエラは笑う。
ケインはその笑顔に、底冷えするような何かを感じた。急かされるように、首を大きく縦に振る。
「それで、その腕。もうくっつかないそうなのだけど。アンタはどうするつもりなの?」
『どうする』というのは、探索者を続けるか
ケインはもちろん、続けるつもりだ。この身が探索者である限り、その目的が金であれ、名誉であれ、他の何であれ、迷宮の奥深くまで潜らなくては。
だがこのまま
今までなら取れたはずの選択肢が取れなくなっているのだ。円盾で受けていた攻撃は、全て
他にも思いつく、弱くなった点など数え切れないほどだ。それを乗り
「皆に
シエラは、そう、と半分
「分かったわ。しつこいかもしれないけど、本当に無茶だけはもうしないで」
「……ああ、約束する」
その言葉に満足したようで、シエラは席をたっていった。そして、付け加えるように口に出す。
「そうそう、アンタ達を連れて来た人。ええと名前は、ヨームだったかしら。その人にお礼言っとくのよ。命を救われたんだから」
……そういえば、彼には危うい所を救って
確かに、あれだけの事をしてくれたのだから、こちらから出向かなければならないだろう。
「ああ、すぐに行くよ」
それからケインとシエラは互いに別れの
シエラが去っていくのを見届けて、ケインがヨームの所に行かなければと考えた時、お腹が痛むほど
視線を下にやると、まだ手の着いていない麦
本能に任せて
空腹は食事をうまくするとは良く言われる。それも極まれば、ほとんど麦とちょっとだけの塩味しかしない安い
ケインは二杯、三杯と空の器を重ねていく。
「ふう」
空腹の後、一気に満腹感を味わうと、その落差がどうにも
動けるようになるまでに、もう少しだけ時間が必要だろう。しばらく
……
「それで、わざわざ礼を言いに来る
酒場に着いて
「そうだ。命を救って
ケインの言葉に、ヨームはわざとらしく笑ってみせる。
「ここまで真面目な探索者なんてそうそう見ねぇな! ま、あの
ヨームが言うには、ここ
しかし何の成果も得られていない。それどころか、死亡する一層探索者の数は増える一方らしい。
……きっとヨームは、その事に対して負い目を持っている。
「それに、追っ払ったのはサトラ──ええと、【雷霆】をぶっぱなしたアイツの事な? まあ、ソイツなんだ。俺は担いでっただけなんだから良いんだって! そのサトラにも感謝の心は伝えとくからよ」
ヨームはこちらが気を負わないようにしてくれている、とケインは感じた。
ケインは何かお礼をしようと思っていた。だが、この様子では
だから数ある
「そうか、ありがとう。だけど何もしないのは
「お、気が利くじゃねぇか」
ケインは早速、飛び回る給仕を呼びつけ注文した。
ヨームには、手に握る酒盃の中身と同じものを。ケインは昼間から酒を飲む気にはなれなかったので、果実水を一つ。加えてツマミを少々。
黄金色の麦酒が、底に当たっては、なみなみと注がれていく。ケインの冷えきった果実水も、同じように注がれた。
ヨームが何も言わずに杯を差し出してきたので、ケインは自分の杯を押し出した。
木製の杯は、互いに軽い音を立てる。麦酒は
「それにしてもだケイン、お前はどうして俺の場所が分かったんだ?」
「最初に会った場所がここだったし、それにヨームは昼間でも飲んでそうだったから。試しに来てみたら、ご覧の通り一発で当たりだったよ」
それを聞いたヨームは、つい
「そんなくだらねぇ推測で場所を当てられちまったのか、おもしれぇな。それにしても、俺はそんな感じに思われてたのか。実際合ってんだけどよ」
「すまない、気に触っただろうか」
「いんや、そんな口聞けるようになったんなら、結構気が軽くなったって事だろ? 良い事だよ、そいつは」
ヨームはニヤニヤと笑う。ケインはそのおかしい笑い方を見て、自分の堅苦しさが落ちたような気がした。
「困った事があったら、また俺を頼れよな。規則で
ヨームはただただ優しかった。そしてケインは、それがどうしてなのか
「なあ、ヨーム。なんで俺達みたいな、ありふれた一党にこうも気を使ってくれるんだ?」
ヨームは少し考えた後、ヘラヘラとした笑顔を作る。しかしその笑いは、今までのように陽気なものではなかった。過去から目を
「俺も、五層まで降りて行くまでに色んな事をしたんだよ。ほぼ最前線みたいなもんだったから、同期の死亡率も相当高かったからな。俺の一党の中でだって、何回も親しくなった奴が死んでいって、その度入れ替えた」
「それは……」
人の死を見守るのは、他人でさえ辛い事だ。ましてや、それが親しい仲だったのなら。心が引き
しかし、ケインはヨームの気持ちに同情する事はできなかった。
ケインの感情はケインのもので、ヨームの感情はヨームのものだから。
それに、ケインは人を殺した。迷宮の中での擦り付けは、殺したと言えるに違いない。
そうやって変質したからケインだからこそ、尚の事、ヨームの気持ちを理解できるとは口に出せなかった。
ケインの迷いを
「ああ、その事は良いんだよ、もう。終わった事だからよ。俺はお前らにできるだけ死んだりせずに降りて来て欲しい。これは、五層探索者ならほとんど全てが思ってる事だからさ」
まあ、俺達と同じような目には会ってくれるなって俺の感情も入ってるがな。と、ヨームは言う。
ケインは訳が分からなかった。五層探索者が追加の人員を望んでいるのは
今、探索者のほとんど全て──死んだ者を除いて──は五層まで
その探索者の内の全員が五層で活動するなんて事はないだろうが、それでも活動域は相当
そして探索者という生き物は、見知らぬ一党との
強盗に会う可能性は否定できないし、
そういう訳で、過密状態にあると推測される五層では、新規参入など喜ばしくない事だとケインは思ったのだが。
「お前も来れば分かると思うが、五層の攻略は今、完全に
探索者は普通、自分の勝ち得た優位性を必死に守り抜こうとする。しかし、どうも先が見えないのならば、そんな気力も起きないらしい。
むしろ、自分達の道を切り開いてくれる、『英雄』を望んでいるのだと、ヨームは話す。
『英雄』。その言葉の重み。ケインは、自分達に掛けられている期待が、計り知れないものなのだと理解した。
多くの探索者がその称号を望んでいる。唯一の『英雄』を超える戦果──
『英雄』を望む。それは五層の突破が魔物の
「今、五層に潜ってる奴なんて、『鮮血姫』。いや、今は『準英雄』アリスティアだったか。そいつくらいしか居ねぇ。そんくらい絶望視されてんだよ、突破は」
『準英雄』アリスティアの名声は、この都市中に広がっている。それは彼女の話を聞けない場所が無い事と、そしてその称号からも分かる。
そんな彼女でさえ突破できない階層。ああ、確かに絶望的だろう。だからこそ、越えなければ。いつか『英雄』となる
「ああ、必ず
ヨームはこの答えに満足したようで、大きく
「ああ、ああ。それでこそ探索者だ。その調子で早くこちらまで来てくれよ。楽しみに待ってる」
そう言って、ぐいと残った酒を飲み干す。
「そんじゃ、俺もこれ以上は酒も飲んでられねぇな。仲間を呼んで迷宮を潜るさ!酒精が抜ける頃にはいつもの狩場に着いてるだろうし。ケインも迷宮に潜る時は気をつけろよな。……まだ汚泥の騎士は
ケインは軽くなった左肩を見
今にも向かって殺してやりたい。そんな思いも、向き合って刃を合わせた恐怖が引き止めてしまう。
ヨームの言う通り、今は
そして、あの恐ろしき刃に立ち向かう力を得たならば。もう縮こまる必要は無い。その時は殺してやろう。
「ああ、ありがとう。ヨームも元気で居てくれ」
「じゃあな」
二人の探索者は酒場を
……
『迷宮都市』
かつては白の都と呼ばれた、教国の王都である。しかし、魔物討伐の令が下され迷宮の噂が広がった為、今ではその名で呼ぶ者は少ない。
また、白の都と呼ばれる由来となった白の大壁と白の
純白の壁に周囲を囲まれたこの街は、商業区、居住区、探索区、宗教区といったように別れており、探索区の中央に迷宮を。そして宗教区の中央には白の
大壁の高さからも突き抜けたその
その中に住まう教皇こそが、この迷宮
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