十話 深淵より這い出よ、泥濘の騎士(後)

 ケインは通路の異様さに感づいた。気づいたのだ、余りにも静か過ぎると。恐らく、他の皆だって少なからずそう思っているだろう。


 ただただ静かなだけならば、別にいつもの迷宮と変わりはない。迷宮には沈黙ちんもくと暗闇とがたたずんでいるものだから。


 ただこの静けさは異質過ぎていて、どこからも生の気配が感じ取れない。


 生き物の、探索者の、怪物達の。


 生きている音が、あるいは匂いが、少しだって有りはしない。


 無機質な暗闇が、立ち込める暗闇が、これほど恐ろしく感じる事などあるだろうか?静けさが、探索者達の恐怖心をき立てる。


 鼻が壊れているのだろうか、不意に甘ったるいほどの腐敗臭が流れ込んできた。


 ケインは昔見た虫をとらえるつぼ草の、溶解液の匂いを思い出す。甘さに思考を鈍らせた虫は、体を酸で焼かれ死んでいった。


 甘さの中に、隠しきれない刺激臭が混じっているのが、どうにも嫌悪せざるを得ない。


 一党がピリピリと張り付く死の気配にえる中、いつの間にか、暗闇の中に何かがあった。


 その人影のようなものは黒い衣に身を包んでいるのか、目でとらえるのも一苦労なほどだ。


 ゆっくりと歩いて来ているらしいのだが、音も無く歩くので、距離感すらつかめない。


 ──ケインがまばたきをした後に、彼は目と鼻の先まで辿たどり着いていた。


 全身を汚泥でおおかくした人外の巨体。口が開いて、おぞましい吐息といきれ出ていく。


 辛うじて認識できる顔のようなものは、まるで何も無い空洞くうどうのようだ。穴という穴の先は、暗闇でめ立てられている。


 こごえるような爪先の冷たさに下を向くと、薄く張られた汚泥のぬまが、どこまでも広がっていた。


 ここはすでに、汚泥の騎士の領域だという事なのだろう。


 ケインは粘ついたくつの感触に、思わず左足を後ろに下げる。


 それに反応したのか、騎士はいつの間にかかれていた剣をにぎり直し、こちらを凝視ぎょうししていた。


 視線と視線がからみ合う。ただ無機質で、何も込められていないうつろな眼は、朧気おぼろげながらもケインに恐怖を与えてくる。


 ケインはまた、えきれずにまばたきをした。まぶたが開いた時には、騎士は剣の間合いまで近づいて来ていた。そして今、ちょうど剣を水平に振りかぶっている。


 濃密な死の気配が、剣の形をして斬りかかってきた。


 運良く咄嗟とっさに差し出した円盾は溶けかけの牛酪バターのように切っ先をくい込ませる。


 残骸となって飛んで行った円盾の上半分を目で追いつつ、ケインは体を後ろにらした。


 心臓の薄皮一枚挟んだ先を、鋭い刃が通り過ぎていく。


 刃は一切抵抗を受けずに肉をち、それは斬られたケインですら斬られたことが分からないほどだった。それから少しって、思い出したように血が流れ出てくる。


 まだ意識は残っているにも関わらず、ケインの体は糸の抜けたあやつり人形のように倒れせた。


 朦朧もうろうとした視界の中で、ケインは騎士の顔を見上げる。騎士も同じく、しばらくケインを見つめていた。


 ……あの空っぽのひとみの中に、何が込められている?軽蔑けいべつか、哀憐あいれんか、それとも慈悲じひなのだろうか。


 もう用は済んだと言わんばかりに、騎士は右の長剣を逆手さかてに持って、今まさに振り下ろそうとしている。


【火弾】


「ははっ、派手に燃えてやがる」


 炎の塊が、汚泥の体を焼いていく。いくら呪いの塊である怪物であったとしても、汚泥自体が炎を良くともすなら、その呪術耐性を抜くことなど容易い事だ。


怪物を焼く炎は、探索者の士気をたかぶさせる。


 異様な臭いを放つ大炎の中で、騎士はただじっと木のように立ち止まっていた。


「二人とも、とっととケインを後ろに下げて、早く!」


 アンネの指示に従ってケインが後ろに運ばれるやいなや、【軽癒】が行使こうしされる。


 元々そうであったと見えるほど綺麗きれいたれた肉は、そのおかげで普段よりも良く傷をふさいでいった。


 それでも傷が深すぎるので、一度ではなおらない。アンネは二回、三回と術を重ね、ようやくの事でケインの傷をふさぎきった。


 ただ代償だいしょうは大きいもので、ついにアンネの呪術は回数を切らしてしまった。これからは傷をそのままにして戦わなければならない。水薬は残っているが、あれは出血を止めるだけだ。


 それでも炎で弱体化した騎士を叩けば良いと戦意を高ぶらせ、ケインは再び槍を取って穂先ほさきを向けた。


 足元の汚泥が少しずつ薄まってきている。維持する力が無くなってきたのだろうか?


 エイベルは少しだけ違和感を感じていた。騎士の足元が盛り上がっているような気がするのだ。


「おい、注意しろ。何かやりそうだぞ」


 小さくいびつな音が、次第しだいに大きくなっていく。


 ズルリと汚泥が騎士からがれ、足元の汚泥へと統合された。


 汚泥の内側に包まれた炎は空気を失った事で、汚泥を沸騰ふっとうさせかしていくものの急速にうすれていった。


 後には無傷の怪物が一体。


 脱皮だ。神が竜につらなるもの共に与えたもうたその神秘しんぴは、何の因果か目の前の人外の騎士にさえ適用されてしまった。


 一度使ったのだ。二、三度。いや、何回でも使ってくるだろう。つまり、今のケイン達に勝てる見込みは無い。


そう考えれば、恐ろしいものが足元から込み上げてくる。本能が、戦うべきでないとさけび出した。


撤退てったいだ!とっとと逃げるぞ」


 ケインがそうさけぶと、皆脱兎だっとごとく走り出す。つまずすべりながら逃げ出していく。


 しかし、そう簡単に逃げ切れる訳では無い。足元には低くなったとはいえ、いまだに汚泥のぬまが張っている。


 粘度の高い汚泥に靴がからめ取られ、びょうはあまり意味を成さない。


 騎士から逃げようとしても、連れっていずってくるぬまがそれを許してはくれない。


 幸い、余裕よゆうを見せているのか、先ほど見せた速さはない。それでも、距離は離れていかず、無闇矢鱈むやみやたらに逃げ回っても全くもって意味がなかった。


 ケインの足に汚泥がからみついて、転ぶすんでの所でみとどまる。


 後ろを振り返れば、目の前に汚泥の騎士の眼があった。いつの間に、と思う間も無く、ずいと顔を寄せてくる。


 空っぽの眼の中には、先ほどとは異なって確かな意思が注がれていた。それがひしひしと、ケインの頭の中にもぐり込んでくる。


 ……この眼は、この眼はマルコとシドのものだ。


 その事実・・を認識した瞬間、ケインはズルリと内蔵がこぼれ落ちるような冷ややかさを感じた。


 暖かさが抜き去られていく。足が掴まれて引きずり下ろされようとしている。一体どうしてあの眼を空虚くうきょだと感じる事ができたのだろうか?


 あの眼は置いていかれ、痛みにれて、今まさににくしみを振り下ろさんとする怒りを込めているではないか。


 それが、どうしても恐ろしくてたまらない。あれほど甘ったるいように感じていた、鼻をでる腐臭の息が途端とたんえきれなくなって、ケインはき出した。


 鼻を突き抜けるえた匂いと、喉を焼く酸の味が、ケインを少しだけ正気にもどす。


 今まで認識できていなかった仲間の声が、再び耳をふるえさせた。


「何をやってるんですか、早くげないと!」


 クリスのさけびがケインの頭を打ち付ける。そんな事は分かっているのに、自分ではどうしようもできない感情が、ケインの口を動かしていた。


「このままげたってどうしようも無いんだ! 俺が相手してる内にげるんだ、構わずに行ってくれ」


 いつの間にか、ケインの頭からは撤退てったいの文字が消えていた。錯乱さくらんした脳は、時に不合理な判断を押し付けてくる。


 とにかく、今ケインが考える事のできる事は、あの騎士の一部にシドとマルコが入っていて、ケインをうらんでいるという事だけだ。


 ああ、きっとここから逃げてしまえばどうにか・・・・なってしまうに違いない。


「ちょっとケイン!? こんな時に……」


 シエラは突然の事に戸惑とまどっていた。真っ先にかなわないと判断したケインが、無謀むぼうにもまた怪物に挑もうとしているから。


 正常には見えないケインを放って逃げてしまえるほどに、シエラは淡白たんぱくには成れなかったのだ。


「良いんです、シエラさん。ケインさんは混乱系の呪術にけられてるように見えますから。助ける為に戻ろうものなら、あの騎士に殺されるに違いありません」


 ドナの意見は真逆のものだった。何回とも共に探索したとはいえども、ドナの中でケインはまだ他人である。それに切り捨てても心は痛まないし、一層までの人材ならば自由に代わりが効く。


 一人を見捨てる事で五人が助かるのだから、ドナは喜んでその道を選ぶ。……ましてや自分が当事者でないならば。


「ですが、ケインさんを置いていく事なんてできませんよ。むざむざ死にに行く人を見捨てるなんて」


 クリスも、その意見を通す事などできない。クリスは常に騎士として育てられてきた。仲間を思いやる精神についても、いつまでも脳裏にこびり付くまでに教えられた。


 だから、ドナの言っている事が正しかったとしても従えない。


「クリス、俺達がここで時間を浪費して俺達だけが死ぬならまだ良い。だがここで突っ立ってるだけなら全員死ぬんだ。認めたくは無いが、ここは行かなきゃならないんだよ。アンネも、さっきから何か言おうとしてたらしいが、問答してる時間は無い」


 ケインは背嚢はいのうから松明たいまつを取り出し、槍の先を押し当てる事で火を灯した。代わりに不要になった円盾は、地面に投げ捨てる。


「……そうですか」


 それを見届けたクリスは、背を向けてエイベル達の後を追った。


 残ったのは騎士とケインだけ。ケインは改めて騎士の方へ向き直った。


 ……生き残る事はできないだろうが、それでも足掻あがけるだけ足掻あがいてみよう。


 薄灰の残響ざんきょうが戦場を通り過ぎていく。何本も、何本も。ケインが斬撃をけるたびに、そこに剣が通ったと主張するかのように風が流れていく。


 剣は目視できないほど素早すばや軌跡きせきを形取るから、動作を見る前にどうにかするしかない。呼吸を読み取って、いつ来るのかを予測しなければならない。


 ける以外の動作を捨て去って、ケインはしぶとく生き残り続けている。


 騎士はケインに槍を振るうひまを与えさせなかった。何度も何度も切りつけて、ケインの体には段々と切り傷も増えていく。


 傷はどれも浅いものだが、それも重なっていけば、出血ですぐに動けなくなってしまうだろう。


 ケインの体は、今となってはなまりに等しいほどの重みを持っている。


 ……なんて馬鹿な事をしてるんだろうって、自分でも思う。でもこのもどかしさがどうも振り払えない。


 騎士がこちらを見つめてくる眼がシドとマルコの眼に見えるのは一体どうしてなのだろう。


 あの虹彩こうさいが、瞳孔どうこうが、俺をいましめるのは、どうしてなのだろう。


 ケインはだんだんと、出血によって頭をにぶらせていく。ただでさえ思考するひまの無い状況は、ケインの判断力を奪っていく。


 どん痛を抱えた頭は思考を拒否し、放棄ほうきした。


 シド達がケインをこうもにくんでいるのは置いていかれたからで、ここにいるのもそのにくしみのせいなのだ。


 ……それほどまでにくまれているのなら、死んでしまった方が良いのではないか?


 余計な考え事に頭をいたせいか、斬撃の一つをけ損なう。短槍ので受け止めようとすると、そのまま押しされて地面に転がった。


 もう終わりなのか。ケインは自分の置かれた状況を達観して受け止める。ただ日常の光景の一つと同じように、自分が両断される未来を見えている。


 ケインは目を見開いて、長剣の流れる軌道きどうを追う。騎士の眼はただ無機質なものだった。


 ふと、横ばいから銀の光が飛び出した。今まさにケインを切り裂こうとしていた長剣を叩き、らす。


 パチパチと弾ける火花が、足元の汚泥をくすぶらせた。


 ケインが横を見れば、そこにはクリスが息を切らせて立っている。


「どうして、来たんだよ……」


 ケインには、戸惑とまどいしか無かった。もう他の仲間を連れて離脱りだつしたのではなかったのだろうか?どうしてわざわざ、自分がおとりになったのにも関わらず、命を捨てに来たのだろう。


 やって来たクリスは、明らかに汚泥の騎士におびえている。今の斬撃をらしたのだって、本当にギリギリの事だったのだ。意識外だったからこそできた事のはずだ。


 だからこそ、ここに来る理由が、どうしてもケインには分からない。ただ疑問だけが頭をめぐる。


 クリスは、苦虫をつぶしたような顔をしていた。


「僕だって、分からないんですよ。それでも僕は騎士なんだ。家を取りつぶされているとしても、それでも僕は騎士なんですよ。僕にはそれしか無いんだ。だからッ!」


 クリスは言葉と同時に汚泥の騎士に斬りかかった。当然、それは容易たやすく防がれる。


 絶望的な力の差にも関わらず、クリスは戦わなければならない。それほどまでに、クリス自身も追い詰められているから。


「本当に、どうすれば良いっていうんだよ」


 このままでは、死体が一つ増えるだけだ。ケインはただそう感じた。どうすれば良いかって?そんな事分かるはずがない。頭は熱で沸騰ふっとうして、空回りを続けている。


 それでもクリスが来てしまったから、一縷の希望にけて戦うしか道は無い。ケインの感じた妄執もうしゅうなんかにかまっている余裕は無い。


 斬りかかっては剣に防がれ、斬りかかられてはすんでの所で回避して、そうやって先ほどまでのように戦うべきだ。


 少しだけケインは深呼吸する。にごった腐臭が、少しだけ頭をボヤけさせてくれた。今はその方が良い。


 汚泥の騎士は、こちらの準備が終わったのを見ると、再び剣を正眼に構え直した。律儀りちぎにも、こちらの体制が回復するのを待っていたのか。


分からない事だらけだ。ケインはいまだに自分が生き残っている事も、クリスが来た理由も、何もかも分かっていない。


 ただ、確かに分かっている事は。


 ──迷宮の中での死闘は、まだ終わらない。


探索者と怪物が、お互いに刃を構え、静かに斬りかかった。






 ……






『水薬』


 錬金術師が作り出した神秘しんぴ叡智えいちの結晶、至高の霊薬。その薬効は、死という不可逆を除いてあらゆる障害を振り払う。


 迷宮都市では一般に、霊薬を使用した薬品を水薬と呼んでいる。ただし、その効果は天から地ほどの物まで差が広い。


 霊薬を抽出精製し、奇跡きせきに等しい効果の物から、銀貨数枚で買えるほどの、残り香ほどしか残っていないような物まで。


 しかし全ての水薬に共通する事は、探索者の危機を救ってくれるという事に他ならない。

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