十話 深淵より這い出よ、泥濘の騎士(後)
ケインは通路の異様さに感づいた。気づいたのだ、余りにも静か過ぎると。恐らく、他の皆だって少なからずそう思っているだろう。
ただただ静かなだけならば、別にいつもの迷宮と変わりはない。迷宮には
ただこの静けさは異質過ぎていて、どこからも生の気配が感じ取れない。
生き物の、探索者の、怪物達の。
生きている音が、あるいは匂いが、少しだって有りはしない。
無機質な暗闇が、立ち込める暗闇が、これほど恐ろしく感じる事などあるだろうか?静けさが、探索者達の恐怖心を
鼻が壊れているのだろうか、不意に甘ったるいほどの腐敗臭が流れ込んできた。
ケインは昔見た虫を
甘さの中に、隠しきれない刺激臭が混じっているのが、どうにも嫌悪せざるを得ない。
一党がピリピリと張り付く死の気配に
その人影のようなものは黒い衣に身を包んでいるのか、目で
ゆっくりと歩いて来ているらしいのだが、音も無く歩くので、距離感すら
──ケインが
全身を汚泥で
辛うじて認識できる顔のようなものは、まるで何も無い
ここは
ケインは粘ついた
それに反応したのか、騎士はいつの間にか
視線と視線が
ケインはまた、
濃密な死の気配が、剣の形をして斬りかかってきた。
運良く
残骸となって飛んで行った円盾の上半分を目で追いつつ、ケインは体を後ろに
心臓の薄皮一枚挟んだ先を、鋭い刃が通り過ぎていく。
刃は一切抵抗を受けずに肉を
まだ意識は残っているにも関わらず、ケインの体は糸の抜けた
……あの空っぽの
もう用は済んだと言わんばかりに、騎士は右の長剣を
【火弾】
「ははっ、派手に燃えてやがる」
炎の塊が、汚泥の体を焼いていく。いくら呪いの塊である怪物であったとしても、汚泥自体が炎を良く
怪物を焼く炎は、探索者の士気を
異様な臭いを放つ大炎の中で、騎士はただじっと木のように立ち止まっていた。
「二人とも、とっととケインを後ろに下げて、早く!」
アンネの指示に従ってケインが後ろに運ばれるやいなや、【軽癒】が
元々そうであったと見えるほど
それでも傷が深すぎるので、一度では
ただ
それでも炎で弱体化した騎士を叩けば良いと戦意を高ぶらせ、ケインは再び槍を取って
足元の汚泥が少しずつ薄まってきている。維持する力が無くなってきたのだろうか?
エイベルは少しだけ違和感を感じていた。騎士の足元が盛り上がっているような気がするのだ。
「おい、注意しろ。何かやりそうだぞ」
小さく
ズルリと汚泥が騎士から
汚泥の内側に包まれた炎は空気を失った事で、汚泥を
後には無傷の怪物が一体。
脱皮だ。神が竜に
一度使ったのだ。二、三度。いや、何回でも使ってくるだろう。つまり、今のケイン達に勝てる見込みは無い。
そう考えれば、恐ろしいものが足元から込み上げてくる。本能が、戦うべきでないと
「
ケインがそう
しかし、そう簡単に逃げ切れる訳では無い。足元には低くなったとはいえ、いまだに汚泥の
粘度の高い汚泥に靴が
騎士から逃げようとしても、連れ
幸い、
ケインの足に汚泥が
後ろを振り返れば、目の前に汚泥の騎士の眼があった。いつの間に、と思う間も無く、ずいと顔を寄せてくる。
空っぽの眼の中には、先ほどとは異なって確かな意思が注がれていた。それがひしひしと、ケインの頭の中に
……この眼は、この眼はマルコとシドのものだ。
その
暖かさが抜き去られていく。足が掴まれて引きずり下ろされようとしている。一体どうしてあの眼を
あの眼は置いていかれ、痛みに
それが、どうしても恐ろしくて
鼻を突き抜ける
今まで認識できていなかった仲間の声が、再び耳を
「何をやってるんですか、早く
クリスの
「このまま
いつの間にか、ケインの頭からは
とにかく、今ケインが考える事のできる事は、あの騎士の一部にシドとマルコが入っていて、ケインを
ああ、きっとここから逃げてしまえば
「ちょっとケイン!? こんな時に……」
シエラは突然の事に
正常には見えないケインを放って逃げてしまえるほどに、シエラは
「良いんです、シエラさん。ケインさんは混乱系の呪術に
ドナの意見は真逆のものだった。何回とも共に探索したとはいえども、ドナの中でケインはまだ他人である。それに切り捨てても心は痛まないし、一層までの人材ならば自由に代わりが効く。
一人を見捨てる事で五人が助かるのだから、ドナは喜んでその道を選ぶ。……ましてや自分が当事者でないならば。
「ですが、ケインさんを置いていく事なんてできませんよ。むざむざ死にに行く人を見捨てるなんて」
クリスも、その意見を通す事などできない。クリスは常に騎士として育てられてきた。仲間を思いやる精神についても、いつまでも脳裏にこびり付くまでに教えられた。
だから、ドナの言っている事が正しかったとしても従えない。
「クリス、俺達がここで時間を浪費して俺達だけが死ぬならまだ良い。だがここで突っ立ってるだけなら全員死ぬんだ。認めたくは無いが、ここは行かなきゃならないんだよ。アンネも、さっきから何か言おうとしてたらしいが、問答してる時間は無い」
ケインは
「……そうですか」
それを見届けたクリスは、背を向けてエイベル達の後を追った。
残ったのは騎士とケインだけ。ケインは改めて騎士の方へ向き直った。
……生き残る事はできないだろうが、それでも
薄灰の
剣は目視できないほど
騎士はケインに槍を振るう
傷はどれも浅いものだが、それも重なっていけば、出血ですぐに動けなくなってしまうだろう。
ケインの体は、今となっては
……なんて馬鹿な事をしてるんだろうって、自分でも思う。でもこのもどかしさがどうも振り払えない。
騎士がこちらを見つめてくる眼がシドとマルコの眼に見えるのは一体どうしてなのだろう。
あの
ケインはだんだんと、出血によって頭を
シド達がケインをこうも
……それほどまで
余計な考え事に頭を
もう終わりなのか。ケインは自分の置かれた状況を達観して受け止める。ただ日常の光景の一つと同じように、自分が両断される未来を見
ケインは目を見開いて、長剣の流れる
ふと、横ばいから銀の光が飛び出した。今まさにケインを切り裂こうとしていた長剣を叩き、
パチパチと弾ける火花が、足元の汚泥を
ケインが横を見れば、そこにはクリスが息を切らせて立っている。
「どうして、来たんだよ……」
ケインには、
やって来たクリスは、明らかに汚泥の騎士に
だからこそ、ここに来る理由が、どうしてもケインには分からない。ただ疑問だけが頭を
クリスは、苦虫を
「僕だって、分からないんですよ。それでも僕は騎士なんだ。家を取り
クリスは言葉と同時に汚泥の騎士に斬りかかった。当然、それは
絶望的な力の差にも関わらず、クリスは戦わなければならない。それほどまでに、クリス自身も追い詰められているから。
「本当に、どうすれば良いっていうんだよ」
このままでは、死体が一つ増えるだけだ。ケインはただそう感じた。どうすれば良いかって?そんな事分かるはずがない。頭は熱で
それでもクリスが来てしまったから、一縷の希望に
斬りかかっては剣に防がれ、斬りかかられてはすんでの所で回避して、そうやって先ほどまでのように戦うべきだ。
少しだけケインは深呼吸する。
汚泥の騎士は、こちらの準備が終わったのを見ると、再び剣を正眼に構え直した。
分からない事だらけだ。ケインは
ただ、確かに分かっている事は。
──迷宮の中での死闘は、まだ終わらない。
探索者と怪物が、お互いに刃を構え、静かに斬りかかった。
……
『水薬』
錬金術師が作り出した
迷宮都市では一般に、霊薬を使用した薬品を水薬と呼んでいる。ただし、その効果は天から地ほどの物まで差が広い。
霊薬を抽出精製し、
しかし全ての水薬に共通する事は、探索者の危機を救ってくれるという事に他ならない。
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