三話 海の底に光を求めて
ドプリ、色の無い世界へ。
深い海に沈んだように落ちていく。
何も感じられない。音も、光すらも。
動いてる、止まってる。
それすらも分からない。何も分からない。
静かに体が
そこにあるのは"
鎖は俺を逃がさない為の
……きっと
それはまるで深海に降り積もる雪のようで、なんとも幻想的な光景だった。いっそ俺もその一部になってしまおうと、そう考えてしまう位には。
ああ、俺は暗闇の中で確かに見出したのだ。
懐かしいような気持ちがする。あの頃の陽だまりの記憶のように。
光が差し込んでくる。
ああ、もう終わりなのか。
朝は の領域ではないのだから。
目覚めの時間だ。
意識が薄れていく。
願わくば に のあらんことを────
……
音が流れ込んでくる。
何か、大切な夢を見ていたような。夢の断片らしきものが脳裏に浮かび上がっては消えていく。
それらを掴もうとしても、どうしても手の隙間から
それでいて、やはり
──いや、忘れてしまうという事は、そう大したことでも無いだろう。
どうでもいい事を考えている内にかなりの時間が経っていたようで、ケインの頭はすっかり覚めていた。
ケインは薄っぺらい布切れを押しどけて足を床に付ける。そして、先日起こったことについて考え出した。
……俺達はもう少し慎重になるべきだった。帰るまでが迷宮探索なのにも関わらず浮かれて、ヘマをして、仲間を死なせてしまった。
次こそは失敗しない。必ず全員で生還して祝杯を挙げよう。辛かった事も、嬉しかった事も分かち合おう。死なせてしまえばそれすらも出来なくなってしまうのだから──
ケインは一度思考を止める。こんな朝から気持ちを落としている場合ではない。
今日もまた日銭を稼ぐために迷宮探索をしなければ生きていけないのだから、とにかく今は後悔なんてしている場合ではない。
服を整え、道具袋を
……
人混みの中を歩いていく。まだ朝は早いというのに辺りには買付けやら使いやらで
中には
それでも昼間は通路がすし
……俺の故郷では毎日が
人の熱気に温められていた先ほどの路地と比べて、朝の冷たい風がより一層張り付いて来る。
道路は先程まで居た中央と同じように石畳で
中央地区のものがが均一な扇台形によってほとんど
それに対して、ここの石畳はいびつで大きさも大小様々な長方形で、空いた
技術力の差だろうか?それとも他の理由が有るのだろうか?この街は見ていて飽きる事が無い。ありとあらゆる場所に新しい何かが散りばめられて光り
そうやってケインが色々な事を考えながら進んでいく内に、いつしか人も見かけなくなってくる。
ケインが中に入ると、こちらに背を向けて座っている中年の男が一人。
「よお坊主、早かったじゃねぇか。依頼されたのは全部やっておいたぞ」
男はしわがれた声でケインに話しかける。
「なんで俺だと分かったんですか? 見てもいないのに」
「こんなボロ屋に来る客など坊主くらいだからな。全く、
と、そう吐き捨てた後、男はケインの方へと振り向く。
片方が潰されている目、見える場所を埋めつくしている古傷、くたびれた鼻。
男が
とはいっても、ここは探索者の集まる街。その方がまともなのかもしれないが。
「槍はしっかり手入れしておいた。ほら、確認しろ」
そういって男はカウンターの下へと屈み、布に包まれたケインの短槍を手渡してくる。
ケインが包装を解いてみると、中からは新品もかくや、とまでは言わないものの、十分に整った短槍の姿が明らかになった。
怪物との戦闘で
鋳造の量産品とはいえ、これからも長い付き合いになるのだ。しっかりと手入れはしておいた方が良い。この槍もそう思っているに違いない。
「それで──」
「
男は言い終わると同時に、ケインに袋を投げつけた。
大通りの商店にも並んでいる見慣れた物達。
必需品だというのに探索者だからという理由で足元を見られ、財政を圧迫してくる物達。
たまたま店を訪れたケインに、男はそれらを格安──とはいっても、元々の値はそれほど高いものでも無かったようだ──で仕入れようかと提案して来た。
お陰で緊急用の水薬も、一つだけとはいえ買う事が出来たのだ。頼ってよかったと言えるだろう。
「こんなもの投げつけてこないでください。割れたらどうするんですか」
「そんときゃ坊主がノロマだったって事が分かるだけだ」
ふん、と鼻を鳴らし、男は次の頼み事の成果を投げやる。
「そんで最後の巻物だが、ありゃ【軽癒】だ。まあ新米なら喉から手が出るほど欲しがるだろ。それに命が惜しけりゃそのまま持っててもいい。まあ当たりだな」
鑑定、賢者を象徴する技能。例え低級のものだったとしても、世界の真理を紐解く英智。
このような場末の寂れた店になど在るべきではない特別な力だ。
中央の商店などでは、依頼品の価値と同等の金銭という法外な料金を対価として要求する鑑定屋がある。
そしてそれがまかり通っているという事実が、その技能の希少性を表しているだろう。
そしてこの男の胡散臭さを引き上げるものでもあった。
「助かった、ありがとう。それで料金は?」
「全部まとめてお買い得…… なんと銀貨九枚」
意趣返しに銀貨をばら
男はそれを左手で受け止め、無表情のままに、もう一度深く鼻息を押し出した。
──最初は好奇心だった。こんな所に何でも屋なんて変なものがあるから、つい引き寄せられてしまった。
次は
だが出来るものなのだから仕方がないだろうに。結局は認めざるを得ないのだから。ケインがどのように疑おうが、
男の事を知るほどに、彼がどのような経歴を
朝日が扉の
「あの……」
「どうした坊主」
「貴方はどうしてこんな所に店を構えようと思ったんですか?」
ケインが
「別にこんな所に店を構えようなんて思ったことはねぇ。そもそも俺ァ死ぬまで探索者をやり続けるつもりだったんだ」
陽の光が少しだけ暗くその身を落とし、男の顔は、また影の方へと追いやられる。
「死ねずに残り、復帰も出来ずに、なら何をすれば良かったってんだ」
体に溜まった
そして引き出しから
口から、
それから間もなく、店の中には薄甘く、薬香のような匂いが広がっていった。
「コネはねぇ。金もねぇ。
男はもう一息、深く煙を吸って、何ともいえない充実感に身を浸らせている。
煙はなにも生み出しはしない、ただの煙だ。だがそれでも、その煙に込められた魔力は男を現実から引き下ろし、暖かいスープのように
「そんでこんな小汚ねぇ店を持ったもんだ。街の隅っこなもんだから、あんまり客も来ねぇ。料金を下げねぇともっと来ねぇ。貧乏が貧乏を呼ぶ、やな世界だね」
白い陶器の皿に打ち付けると、黒い
「まあ、坊主も俺みてぇに落ちぶれたくなけりゃ、身の程を弁えて
店の前に掛けられた風鈴がカランカランと硝子越しに音を立てる。
煙によって少しズレていた世界が、音によって巻き戻されてゆく。
男の目──それも潰れて何も無い方の目だ──がケインを見つめる。
まるでその何も移さないはずの目の視界により近づこうとするように、ケインの世界は急速に
男は頭に手を置き首を振り、改めてケインに語りかける。
「湿っぽい話をしちまったな、忘れてくれ。だが、探索者を辞めるというのは考えておくんだ。あんなのは不幸しか呼ばないからな」
「……ああ、分かったよ」
分かりうるはずも無い。ケインの求めるものは、迷宮以外で手に入ることのないようなものなのだから。
嘘をついた。男もそれが分かっていたのか、小さく乾いた笑いを
鈴の音と共に扉を閉めて、ケインは元来た道を戻っていこうとする。
男は深いため息をつきながら、椅子の上からケインが立ち去ってゆくのを見送っていた。
……
帰り道も始まったばかり、郊外の端の部分。都市の人々が避けていく道の間。
行きはケインも目を
いつの間にか、石畳を踏みしめる硬質な足音は、若草を踏みにじっていく生暖かい感触へと変わっていった。
何でも屋の男の話は、それを直視しようとしないケインの瞳を、無理やりに開いていったから。今はただそれに向かって歩いていく。
それは金貨一枚という安価なものだ。土の上に木を一本ずつ刺しただけの
ほんの少しばかり死の気配が残っているそれは、仲間の灰を収めるのには余りにも
何百もの木の墓標に
ただ二匹の足長蜂が
ケインが墓の前に立った頃には、彼の脳裏には二人の死に様が鮮明に思い出されていた。
焼かれて灰となった二人の最後を思い出してしまった。
「すまなかった」
ケインは謝る事しか出来ないから。
「すまなかった」
終わってしまったことに対して、どうやって償えば良いのかなど、
「すまな…… かった」
結局は、二人の死を置き去りにしてでも迷宮へと潜らなければならない事を理解しているから。だからこそ、ケインは謝り続ける。
──金貨二枚で封をして、後は何も考えなければいい。それが一番楽なのだから。
……そう考える事にしよう。
元より二人は赤の他人で、死んでしまった他人の事など考える必要は無い。必要はないのだから。
ゆっくりと立ち上がり、重い足取りで墓場から離れていく。それはまるで、迷宮の出口を求めて歩いた、あの時の足取りのように。
黒ずんだ
……
『呪い』
大まかに、迷宮の魔物が人間に
人間はただそこにいるだけで周りから死を吸収し、その身に宿った呪いを育てていく。
呪いが強くなるほど、
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