Side-B

2016年8月18日


 母がパートに出かけたその日、昼ごろになると家のチャイムが鳴らされた。なんとなく、嫌な予感を覚えながらも、私はその呼び鈴を聞いて立ち上がり、モニターの方へと歩み寄った。


「はあ……」


 思わずため息をこぼしてしまいながらも、私はモニターに映るその男性の顔を見つめた。別に不細工ってわけでもないし、おじさんっていうわけでもない。聞いた話だと大学生みたいだし、見た目だけで言えばむしろかっこいいと思えるくらいだった。

 だけど、その欠点もないような見た目が、私には逆に怖くて、居留守をするつもりでモニターをじっと見つめていたけれど、そのうちに彼はもう一度家のチャイムを鳴らした。


 一体なんのようなのか、私はその目的の一つであろう母親の行き先を知っているから、諦めたように一つ息を吐くと、モニターに映る彼に呼びかけた。


「どうしたんですか? 今日、お母さんいないんですけど」

「あ、そうなんだ。……じゃあさ、香澄ちゃん、今日は俺と遊ばない?」


 一瞬考えるそぶりを見せてからそういうと、彼は爽やかな笑みを浮かべた。流石にこればっかりは嫌悪感を抱かずにはいられず、私はそれを声に出してしまわないよう、一度咳払いをしてから断ろうとする。


「ごめんなさい。今日は無理だから、帰ってください」

「あー待って!」


 モニターを切ろうとする私を呼び止めると、彼は目を横に逸らして恥ずかしげな笑みを浮かべた。


「えっと、ごめん、本当のことを言うね。今日お母さんがいないのは知っててさ。香澄ちゃんが俺のこと避けてるみたいだったから、仲良くなっておこうと思ったんだ。だから、少しだけ話さない?」


 そう言って再び視線をこちらへ向ける彼の雰囲気は、なんとなく、本当になんとなくだけれど知治くんに似ていて、だから私は、逡巡したのちに彼を家にあげることにしてしまった。


「ありがとう」


 家に入ってリビングへ案内すると、私は彼にお茶を用意しようと台所へ足を運んだ。その間にも彼は適当な場所に腰を下ろして、私のことを目で追っているのがなんとなくわかった。


「香澄ちゃんは、今高校一年生だったよね?」

「そうですけど……。って言うか、どうして私と仲良くなろうと思うの?」

「そりゃ、香澄ちゃんと仲良くなろうと思ったからだよ。これって言う理由はなくて、直感みたいな感じかな」

「そう、ですか」


 笑みを崩さずに答える彼は、やっぱり少しだけ嫌な感じがした。


「お母さんとは、どうやって仲良くなったの?」

「どうやってって、本当に変な聞き方をするね。香澄ちゃんは。別に僕は大したことはしてないよ。ただ買い物途中の静さんを見かけて手伝っただけだよ。それからはお礼にって彼女の方から時折僕を呼ぶようになっただけで、本当に僕は何もしてない」


 ただ淡々と答える彼の表情からは、まるで嘘を吐いているような感じはしなかった。やがて私が手元のお茶を口元まで運ぶと、彼は不意に立ち上がって私の隣に改めて腰を落ち着ける。


「香澄ちゃんとは、どうやったら仲良くなれる?」


 本能的に体を話そうとしたけれど、そんな私の手を彼は掴んで、依然崩れることのない仮面のようなその笑顔に、私は怖くなって目を逸らした。


「……知らない」

「そんなことないでしょ。大人の男女がどうすれば仲良くなれるかなんて、香澄ちゃんだって知ってるくせに。この前見たんだ、男の子とホテルに入っていくところ。あれ彼氏?」

「人違いだから……離して……お願い」


 掴まれた手を振り払うことなんてどうやったってできなくて、私はもうすでに泣きそうになっていた。そんな私を見ても、彼はただじっと面白そうに、まるで小動物をいじめるみたいに、私の体を軽々と引き寄せると、そのまま耳元に口を近づけて囁くように呟いた。


「君のお母さんも、僕と同じようなことをしたんだよ」


 あまりにも酷すぎて、私はとうとう泣き出してしまった。これから先に起こることがわかった。何をされるのかがわかった。誰も助けにこないことがわかった。ただ私ができるのは、彼に気がつかれないよう、知治くんに電話をかけておくことだけで、私はもがきながらもポケットに手を入れて手探りで電話をかけようとした。

 もう何度も知治くんには電話をかけた。感覚的に、それは覚えていて、ただ一つ、ちゃんと知治くんに電話がかけられていることだけを願って逃げようとした。


「香澄ちゃんのお母さんは素直に受け入れてくれたんだけど、流石に高校生じゃダメかな」

「お母さんはそんなことしない……!」


 本当は知っている。見ていなくてもわかる。だけど、私は信じたくなくて、その一心でそう告げると、彼は依然嘲笑うみたいに私を見つめて口を開いた。


「信じられないなら信じなくてもいいけど、とりあえず、僕は香澄ちゃんと仲良くなりたいなって」

「もうそんなのいいから! 離して!」


 知治くんの時とはまるで違う。完全に恐怖で支配されているような感覚に、私の手足は自然と震えた。あの時は驚きの方が大きかったけれど、今回ばかりは男の人の強さを強引に見せつけられているような、そんな感じがした。知治くんよりも腕は細く見えるし、筋肉もきっと彼の方があるだろう。それでも、その男の力は強くて、私では到底逃げ出すことは無理だと、そう教え込まれているような感覚だった。


 もう無理だと、諦めの感情が生まれて、私はそのうちに手の力を抜いた。もうなるようになればいい。そう思った。ただじっと、感情を殺して、何もしないで、早く終わらせて、そうすれば私の前から消えてくれる。そう思って、私はもう、それ以上何もしなかった。


 そうするとその男は、少しつまらなさそうな表情を見せたけれど、そのうちにまたあの不気味な笑みを浮かべて私の体を弄り始める。ただただ気持ち悪くて、私は男の顔ですら見ることはできなかった。目を閉じて、冷房の音と、舌で肌を舐め取るような音が時折聞こえ、その度に、その音の正体がどこにあるのかが、私にはわかった。優しくも抑え込むような愛蕪に声を漏らしては、その度に私は自信を最低な女だと思い込んだ。


 短い前戯の後に、男は服を脱ぎ始めた。もうどうにでもなれと思っている私を傍目に、彼はラッキーとでも思っていたのだろうか。それともつまらないとでも思っていたのだろうか。私からすれば最悪なんてほどじゃないくらいに嫌な一日になる訳だけれど、それでも、彼の一部が私の中に入ってから数分が経過すると、リビングの扉が開かれる音がした。


「……香澄?」


 その声が誰のものか、私にはすぐにわかったけれど、正直見られたくなかった。涙が余計に溢れて、私の顔はぐしゃぐしゃになって、そのうちに、見たこともない顔をした知治くんが、私に覆いかぶさる男の横腹を蹴り上げて叫んだ。


「何をしてるんだお前は!」


 叫ぶと、知治くんは着ていたTシャツを脱いで私に歩み寄る。


「香澄、警察を呼ぼう? 襲われた……てことでいいんだよね?」

「そうだけど……警察沙汰になるのは……嫌、かも」

「どうして……」

「こんなこと、知られたくない! もう誰にも知られたくないから」

「そっか。わかった。ごめん……」


 言ってから立ち上がると、知治くんは男の元へ歩み寄った。腹部を蹴り上げられて悶える男の傍に座り込むと、彼はそのまま一発男の顔を殴った。私には聞こえなかったけれど、知治くんはそのまま男に何かを言うと、男は痛みに悶えながらも家を出ていった。その背中を見送ることもしないまま、知治くんはもう一度私の側まで来ると、そっと抱きしめてくれた。


「本当に、ごめん……」

「私こそ……」


 ああ、やっぱり彼のことが好きなんだと思う。それが錯覚でもいい。とにかく今は、この優しさが暖かくて、そして私はやっぱり、人に甘えることしかできないんだと自覚した。

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