Side-B
2016年7月15日
終業式を終えて学校へ帰ると、またあの人がいた。向かいのアパートに住んでいるらしい彼は、父が単身赴任に出てから割によく来るようになっていて、すみれにはああ言ったけれど、実際のところはこれが原因だった。
毎回、母は何かしらの理由をつけて彼を家に呼んでいるけれど、その本当の理由なんて知るわけもなく、私はただ、その居心地の悪さに家を出て行くことしかできなかった。なんとなく、なんとなくでも、私は彼が家にいる間は外に出て行くべきだと感じて、そのたびに一人で外を出歩くか、友人の家に遊びに行くか、あるいは島崎くんを呼んで持て余した時間を潰す他なかった。
その日私は、家で制服を着替えると、すぐに家を出た。挨拶をしてくれる彼には素っ気なく返事をして、母親には行き先も伝えない。そもそも、行き先なんて決まっていないわけだから、そんなことできるはずもなかったけれど、知ってたって今の母に伝える気など起きなかった。
家を出た私は、とりあえず知治くんに連絡をしてみる。一緒に昼食を食べに行くことが決まると、私たちは駅前で合流して近くのファミレスに立ち寄った。
「最近こういうの多い気がするけど、何かあった?」
ファミレスで食事を注文してしばらく、ドリンクバーの飲み物を持ってきて待つことになると知治くんは私にそう尋ねた。
「……少し、家に居づらくなってさ。ごめんね」
「気にしなくていいよ。学校も別だし、こういうのもあっていいと思う。とりあえず連絡してくれれば、余裕のある時なら会うから」
「ありがとう」
その優しい言葉に安堵して、私は小さく息を吐く。少しだけ、少しだけだけど、知治くんは前よりも柔らかくなったような気がする。特別尖って居たわけじゃないけれど、こうやって表情が豊かになっているのをみると、そう思えた。
「無理に聞こうとはしないけどさ、抱え込まないでね」
「……うん。その時は話すよ」
なんとなく、なんとなくでしかわからないあの男の人と母の関係は、人に言っていいほど確信も持てて居なくて、私はまだそれを人に言うだけの勇気も持ち合わせて居ない。それを話してしまえば、私は少しだけ、私自身を情けなく思ってしまいそうだった。
「今日はアルバイトはないの?」
「あるから、16時には一旦家に帰らないとかな」
「そっか。それまでは、一緒に居てもいい?」
「うん」
躊躇いもなく返事をすると、知治くんはオレンジジュースの入ったコップを口元まで運ぶ。それから私は、心のもやもやを忘れてしまえるよう、彼とは別のことを話した。知治くんも、学校でのことを話してくれて、彼は一緒にすみれのことも話してくれた。二人が高校ではどの程度の関係なのかはわからないけれど、たまに話をするみたいで、それを聞いた私も、なぜか嬉しくなるのを感じた。
「この後、どうする?」
運ばれてきた食事を食べ終えると、私は知治くんにそう尋ねた。
「どこか行きたいところがあるならそれでもいいし、一応、今日ならうちでも平気、だけど」
「今日は平気なの?」
「うん、まあ。いつもは母さんや弟に妹もいるからあれだけど、今日はいないし」
「そっか」
少し恥ずかしそうに答えると、知治くんはその恥ずかしさを紛らわせるように飲み物を口元へ運んだ。
「じゃあ、行こうかな?」
「うん」
短い返事を聞いて一休みすると、私たちは知治くんの家へ足を運んだ。
「もしかして、家族に知られるのが恥ずかしいとか?」
「まあ、それもあるけど……」
道中、私は知治くんを揶揄うようにそう尋ねると、彼は気まずそうに目をそらし、しばらくすると、小さく息をこぼして言葉を続けた。
「まあ、香澄ならいっか。……今の母さんは、本当の母親じゃなくて、弟と妹は今の母親の子なんだけど、歳も離れてるから少しだけ浮いてるみたいで嫌なんだ。ずっと慣れないままでさ、僕の問題なんだろうけど」
「そうなんだ。だから中学の頃は夜に家を抜け出してたってこと?」
「まあ、そんな感じかな」
曖昧な返事をすると、知治くんは顔を前へ向けた。私はそれ以上何も聞かずに、ただ「話してくれてありがとう」と彼に伝えると、知治くんは近くのコンビニに立ち寄って、私はそれを待った。
しばらく歩いて彼の家に到着すると、私は初めて知治くんが住む家に足を踏み入れる。周りとなんら変わらない家だけど、少しだけ新鮮に感じて、私は思わず家の中を見渡してしまう。
「部屋は二階だから、先に言ってて」
「わかった」
返事を階段を登り、並ぶ部屋の奥に知治くんの部屋はあった。弟さんと妹さんの部屋の扉は開かれていて、そこは半分に区切られていた。右半分には可愛らしいぬいぐるみがいくつか見える。私はそれを覗き見るように歩きながら知治くんの部屋に入ると、荷物を下ろして腰を落ち着かせる。
しばらくして知治くんが部屋に戻ってくると、私は彼が用意してくれたお茶を一口飲んで一息ついた。
それからしばらくの間、私たちはゲームで時間を潰すことになった。その日は何もないんだろうと決め込んでいただけに、多少は驚きもあったけれど、それ以上に少しだけ、嬉しかった。
私の友達だって、それなりに経験し始めている子もいるし、話を聞けば私たちなんかよりも頻度は多いみたいで、それが少しだけ私の不安を煽っていたから、ただ、そんな心配をする必要なんてなかったんだと思えることができるから、こうやって知治くんの方から来てくれるのは毎度のことながら嬉しかった。
まだ少しだけぎこちない行為のあと、知治くんはいつも通り優しく接してくれたけれど、私はその優しさに少しだけ泣きそうになってしまう。いつもそうだった。そうして私はその度に気づかされる。原因なんてわからない、正体だって知り得ない、大きく黒いものが、心の奥底にうごめいていて、それが私を追い込んでいることを。
それでも私は、それを必死に押さえ込んで、今はただ、知治くんの胸に甘えようと、そう決めて静かに目を閉じた。
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