Side-A
2016年6月19日
その日から、私は高校の入学祝いで買ってもらった安いポメラで小説を書き始めた。ずっと書こうとは思っていて、なかなか前に踏み出すことはできなかったけれど、好きなことに真っ直ぐなまどかを見ていたら、それに感化されたみたいだった。
降る雨が窓を打ち、静かな部屋に響くタイピング音は耳に心地が良く、始めこそ躊躇い、なかなか思い浮かばなかった物語は、書き始めてみれば割にスラスラと書くことができた。画面に並ぶ言の葉の海に意識を集中させて、自分の中の迷いを、葛藤を、考えを、物語に投影していくことは割に気持ちの良いものだった。
まどかに借りたアルバムを小音で垂れ流しにして、物語の雰囲気に合うような音楽が流れたらそれをリピートする。そうやって集中していれば、時間の流れなんてあっという間に感じた。昼を過ぎて、遅めの昼食を食べ、そうして部屋に戻って一休みすると、再度ポメラに向き直る。手が止まらない、なんてことはなかったけれど、初めてにしてはそれなりに書けた方だと思う。
そうやって夕刻を過ぎる頃になると、家のチャイムが鳴った。両親が出るだろうと、私は部屋を出ることはしなかったけれど、一分とも経たずに私の部屋がノックされた。
「すみれ、入っていい?」
聞き間違えることなんてない、香澄の声と、打ち付ける雨の音はあの日の出来事を想起させたけれど、私は咄嗟にポメラを閉じると、返事をした。
「香澄?」
「うん。……お邪魔します」
そういってゆっくりと扉を開いた香澄は、あの日のように雨でずぶ濡れなんていうこともなかったけれど、なんだか困った様子の彼女は、やはりのあの日の出来事を想起させた。
「……久しぶり。えっと、どうしたの?」
中学を卒業して以来、連絡もしなければ見かけることも、会うこともなかった彼女に対し、私は少しだけ気恥ずかしくなりながらも問いかけた。
「ちょっと、親が喧嘩しててさ。しばらく、居てもいい?」
「いいけど、島崎くんは?」
「知治くんの家はだめみたいだし、外で時間潰させちゃうのも悪いと思って……迷惑だったら、帰るんだけど……」
申し訳なさそうに答える香澄に、私はそれ以上何も言わなかった。連絡くらいはして欲しいとは思ったけれど、それも今はいうべきではないと思った。彼女が帰るときにでも言おうと、そう頭の片隅に置いておいて、私はとりあえず彼女のために飲み物を持ってこようと立ち上がった。
「飲み物持ってくるから待ってて」
「うん、ありがとね」
リビングでお茶の入った冷水筒と二人分のコップをお盆に移すと私はそれを持って部屋に戻った。
「ありがとう」
お茶を注いであげると、改めてお礼を言われ、私は笑みを返した。そうして受け取ったコップを口元に運ぶと、香澄は首を傾げてポメラを指し示した。
「これなに? 電子辞書?」
「違うよ。ポメラっていう文書作成機みたいなものかな? 電子メモ、みたいな?」
「じゃあ、小説書いてるの?」
すぐに言い当てられると、流石に驚きはしたけれど、こればっかりは彼女にも言ったことがあったものだから、私は誤魔化しもしないまま彼女に返事をした。
「うん、書いてる。よくわかったね」
「まあ、聞いてたからね」
そういうと、香澄は小さく笑みを浮かべる。親が喧嘩してるというものだから、もう少し落ち込んでいるかと思ったけれど、案外元気そうで私は安堵感を覚えた。
「学校はどう?」
「中学の頃よりは、楽しんでると思う。もちろん、香澄と一緒だったのがつまらないって訳でもないんだけど、学校生活だけで考えるとね」
続く香澄の問いかけに私が答えると、彼女はどこか嬉しそうに笑みを浮かべて言う。
「そっか、良かった」
「香澄も、島崎くんのこと名前で呼ぶようになってるってことは、うまくいってるの?」
「うん、それなりに。多少は、前より親密になったかも?」
「なに、その言い方」
「なんでもないよ」
そう答えて口元を緩めるのをみると、香澄は本当に島崎くんのことが好きなんだと思う。今でこそ受け入れることはできるけれど、それでもまどかと会っていなかったら、私はずっと引きずってしまっているような気がしてしまう。そう考えれば、私も少しは成長できているんだろうか。
「なんか、すみれ少し変わった?」
「そんなことないと思うけど、どうだろう?」
少しの沈黙の後に、香澄からそう尋ねられた私は、正直にそう答える。
「うん、変わったと思う。大人になった、なんて言い方は少し違うけど、それに近い感じかな。うまく言えないけど、変わったと思う」
「ありがとう」
どう答えるべきかわからなくて、口ではそう言ったけれど、内心ではそれを喜ぶべきことなのかどうかわからなかった。ただ、そういうことなら私も香澄に対して感じる部分は幾らかある。
「好きな人ができたり……?」
不意な質問は、私を少し動揺させたけれど、彼女も私の振る舞いをみてなんとなくは感じていたことだろうと思い、私は正直に答えることにした。
「まあ、うん。いるよ、好きな人」
「やっぱりそうなんだ。私が言うのも変だけど、うまくいくといいね」
「……うん」
少しだけ寂しげな笑みを浮かべる香澄に、私は短く返事をする。彼女は今、どんな気持ちなんだろう。私のことを、今はどう思っているんだろう。そう考えたけれど、それは今の私には関係のないことだと一蹴して、それ以上考えるのはやめた。ただ一つ、うまくいくっていうのは、私はまどかとどうなればいいんだろうと、その疑問だけがずっと残った。
気持ちを伝えずとも、私はなんとなくまどかとは少なくとも高校生の間は今の関係を保っていられるような気がしていた。だからこそ、それ以上踏み込むことはできなくて、それが甘えだとわかっていても、私は今の状況に縋っていたかった。
「それじゃあ、私そろそろ帰るね」
「もう行くの?」
「うん。そんな長居もしてられないし」
言いながら立ち上がると、香澄は荷物を持って部屋を出て行こうとする。私もその後までついていき、そうして彼女を玄関先まで見送ると、彼女は振り帰って笑みを浮かべた。
「じゃあね。久しぶりに会えて良かった」
「うん。私も」
そう言って手を振り返すと、香澄は傘を右手に持って歩いて行く。門扉を抜けて道を曲がると、やがてその背中は見えなくなり、私は静かに玄関を閉じた。開いた鍵を閉めて、コップを片付けようと部屋に戻った私は、小さく息を吐いてベッドに腰を下ろす。久しぶりの再開に無意識のうちに気を張っていたのか、妙な疲れが出てしまっていた。天井を見つめ、蛍光灯の明かりに目を細めながら、私は心のうちで例えようのないもやもやが蠢くのを感じて、今度は大きくため息を吐いた。
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