Side-A

2014年9月2日


 携帯を開くこともしないまま朝を迎えたのは、現実に引き戻されたくないからだった。

 当然香澄からのメールに気が付いたのは、朝起きてからだし、シンプルな文面には安堵すると同時に申し訳ない気持ちが湧き上がるのを感じた。

 まどかと遊んだのがそれほどに楽しくて、私はその余韻に浸っていたかったんだと思う。


「すみれ、昨日学校行った?」


 父が早くに出社して、二人きりになると母はそう尋ねた。その質問自体がおかしくて、きっと学校から連絡が来たんだろうと思いながら、私は素っ気なく返事をする。


「行ってない」

「……そう、何か嫌なことでもあった?」

「……そういうわけじゃないけど、学校に行くのが億劫になったのは確かだよ」


 ため息交じりの言葉を交わし、食事の手を止めて私は次いで母に問いかける。


「お父さんも知ってるの?」

「知らないし、言うつもりもないよ。何か問題がない限りはね」


 母の言葉を聞いて、私は小さく「ありがとう」と言葉をこぼした。けれどふと疑問に思うことがある。私が同性愛者だということは、あなたにとっては問題になるの? それを知ったときあなたは、どんな反応をするの?

 考えて、言ってしまおうと息を吸ったけれど、結局喉元まで出かかった言葉を押し出すことはできなくて、ゆっくりと飲み込んでしまった。


「今日はちゃんと行ってね、学校」

「わかってる」


 返事をして、私は食べかけの朝食を口に運び始める。正直まだ学校には行きたくないけれど、メールをもらった以上、香澄にも何か言わなければいけないような気がした。誤魔化しでもなんでもいいから、私はちゃんと彼女と話がしたい。

 久しぶりに感じる心の言葉。本気でそうしたいと、そう思った時に感じる私の決意は、ゆっくりと体全体に溶け込み、やがて馴染んで行く。


『メール、気がつかなくてごめん。今日の放課後、一緒に帰れる?』

『わかった』


 部屋に戻ってメールを送ると、返事はすぐに来た。本当のことを言うか、気の迷いだと誤魔化すか、たった一つの迷いを抱えて、私はいつも通りに家を出た。


 学校で香澄と顔を合わせることは何度かあったけれど、私は声をかけることもしないまま、そっと顔を逸らしてすれ違う。話すのは放課後だと、そう決め込んでとった行動を香澄も理解してくれたのか、彼女もそのうちに私を視界に入れても何事もなくすれ違うようになった。


 悶々とした気持ちを抱えたまま授業を受けて、そのうちに放課後になったけれど、私はすぐに香澄のいる教室へ足を運ぶことができなかった。直前になって、やっぱり話すのが怖いんだということがわかってしまう。

 十数分もすれば生徒たちもはけていき、やがて教室には私一人だけが残った。


「すみれ……?」


 呼ぶ声に振り向くと、教室前方の入り口には香澄が立っていた。私の顔をみて安堵したような表情を浮かべて、彼女はそのままゆっくりと私の元へと歩み寄ってくる。


「よかった。帰っちゃったのかと思った」

「……ごめん。やっぱり、どんな顔して会えばいいのかわからなくなっちゃって」

「そっか」


 短い返事をして、香澄は私の隣の席に腰をおろした。

 何を言い出すこともしないまま、時間は経過していく。ゆっくりと流れる時の中に取り残されているような感覚に陥りながらも、私はやっぱり彼女といるこの瞬間に、何か特別なものを感じてしまうのだと再確認した。


「帰りながら話す?」

「……うん。行こう」


 優しく問いかけてくれる香澄に返事をして立ち上がると、彼女もまたカバンを持って立ち上がった。教室を出て、廊下を歩き、下駄箱で靴に履き替えると、グラウンドのサッカー部を横目に私たちは校門へ続く道をゆっくりと歩いた。

 残暑の中、まだ強く照りつける日差しとは正反対に、吹き付ける秋風は涼しく感じられた。


「……あの日は、ごめん。変なことしちゃって」


 ずっと口火を切ることはできなくて、どのタイミングで話すべきかと心で迷い、ようやくその言葉を出すことができたのは、帰路も中ほどまで差し掛かった時だった。


「うん。私も勝手に帰っちゃってごめんね。ちょっと混乱っていうか、わけわかんなくなっちゃって」

「あれはしょうがないよ。悪いのは私だし、香澄は何も悪くない」

「ううん。あの日ちゃんと話せばよかったんだと思う。だから、私にも非はあるよ」

「そう、かな……?」

「うん。そうだよ」


 その言葉に一瞬安堵して、私は息を漏らした。少しの沈黙の後に顔を見合わせて笑みを浮かべ、やっぱり気まずくなって顔をそらす。そうして再び沈黙が流れた後に、香澄は改めて私に視線を向けた。


「理由、聞いてもいい?」


 もともとそれを話すつもりでいたのに、途端に胸が締め付けられるような感覚を覚え、私は答えあぐねてしまった。でも私のあの日の行動を顧みれば、言わずもがなその意図ぐらいは理解できているんだと思う。それでも聞くのは、きっと香澄が、それを認めたくないからだろう。そう考えると、やっぱり本当のことは言わない方がいいような気もした。


「多分だけど、香澄が考えていることはだいたいあってると思う。だってそうでしょ? 普通、ただの友達なんかにキスなんかしないよ……。程度はわからないけど、私が香澄に対して何か特別な感情を抱いてるのは確かだよ」

「……なんか照れるなぁ。でもそうだよね、うん、すみれの言う通りだと思う」


 私の言葉を聞いた香澄は、困ったような笑みを浮かべてそう返事をする。やがて彼女は申し訳なさそうに私を見返すと、立ち止まって私の腕を掴んだ。


「私もね、すみれには特別な感情を抱いてる」

「……え?」

「多分、同じようなものだと思う。ずっと前から、すみれと一緒にいるのが好きで、他の友達には抱かないような感情を抱いてたの」

「それじゃあ、島崎くんが好きって言うのは……」


 そこまで言うと、香澄は気まずそうに目を伏せて黙り込んだ。人通りの少ない通学路には、私と香澄だけが向かい合って立っていた。近くにある小さな橋の下に流れる川のせせらぎがよく聞こえ、数秒の沈黙をかき消すように一台の軽トラックが通り過ぎた時、香澄はゆっくりと顔をあげて答える。


「嘘だった……はずなんだけどね。私は確かに、島崎くんにも同じ感情を抱いてるんだ。……わけわかんないよね」


 一瞬、香澄の体を抱きしめようとしたけれど、その言葉を最後まで聞いて肩の力は抜け落ちた。やっぱり、最初からこの気持ちを伝えておくべきだったのかもしれない。そうすれば私たちは……。本来そうであって欲しかったと願うことを、私は夢想しかけてやめた。


「今は本当に島崎くんが好きってこと?」

「うん。あの日は混乱して、すみれの家に駆け込んだ。思い込みだったらいいんだけどね……もうどっちが思い込みかなんていうのもわからなくて。でも言えて良かった。これからも、せめて友達でいれたらいいんだけど……」

「ごめん。結構、しんどいかも……」


 初めての失恋、そもそも香澄にその気が一ミリもないのであれば、割にあっさりとしたものだろうと思っていたけれど、チャンスがあったなら話は別になる。目の前のハードルが低くなったからこそ、それを超えられなかったことが悔しかった。

 香澄の心が島崎くんに奪われたという実感が、彼女の目を見た瞬間に湧き上がり、ひどく心を傷つけた。愛は惜しみなく奪うものだと誰かが言っていたけれど、なんとなく意味がわかったような気がした。


 それ以上何も言わないまま私は香澄と別れて帰路についたけれど、当然彼女が追ってくることはなかった。

 帰ってからしばらく距離を置きたいと連絡をしたけれど、そうしてしまうのも、きっと私が香澄のことを諦めきれていないからだと思う。友達でいてくれようとする香澄への気持ちは嬉しいけれど、それ以上を求めてしまう気がしてならなかった。

 結局私は、訪れた自分の変化に対して、一歩だって前に進めていないんだ。

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