Side-B
2014年 8月8日
台風が近づき、雨足もだいぶ強くなっている。平日のその日、私以外の誰もがそこにはおらず、昼間なのに仄暗く感じる部屋の中、私は電気もつけずにただぼーっとしていた。何度か来るメールは、島崎くんか、あるいは他の友人ばかりで、すみれからのメールはあの日以降、一度も来ていない。
やっと連絡が来たかと思えば、それは別の人で、また連絡が来たかと思えば、それもすみれではない。定期的に音を響かせる携帯に、私は過剰に反応をしては、その送り主を見て落胆する。そうして思い出すのは、島崎くんとのキスと、すみれの顔。
割にあっさりとしていて、キスをすれば、やっぱり男の子は好きになれないんだと、そう再確認することができると思っていた。でもそんなことはなくて、あの日私が感じたのは、その先にある好奇心だった。
すみれが好きなはずなのに、あの日のキスを、私は気持ちがいいものだとさえ思ってしまう。すみれへの好意は偽物だったのか、ただ自分がそう思い込んでいただけなのか、人間としての魅力に惹かれていただけで、この気持ちは恋ではないのかもしれない。
考えれば考えるほどに、それは渦を巻いて私を混乱させていく。生まれた孤独感をかき混ぜて、泡だてて、優しく包み込んで、その一つ一つの気泡が私を捉えて離さなかった。
自分の正体にすら気が付けないまま、その寂しさは、ひたすらに人を求める。だから私は、島崎くんにメールを送った。
『うち、来れる?』
『わかった』
すぐに返信が来て、私は息を吐いた。すみれに連絡をしても、来てくれないような気がした。島崎くんはきっと、私に明確な恋心は抱いていないけれど、彼氏になりきっているのだろうと思う。だから基本的に、島崎くんは私の言うことを聞いてくれるんだ。
もちろん無茶なお願いはしないけれど、こんな雨の中でも呼んでしまったのは、少しやりすぎたかもしれない。
二十分も経過せずに、島崎くんはうちに来てくれた。右手には傘を持ち、左手にはコンビニ袋を持っている。薄っすらと透けて見えるその中には、お菓子がいくつか入っていた。
「ありがとう。お菓子まで買ってきてくれて」
「うん。手ぶらっていうのも申し訳ないし」
「そんなことないよ。雨の中来てくれたんだし」
「確かに」
なんでもない話をしながら、私は島崎くんを家にあげた。こうやって何度か会話をしていると、島崎くんは案外話しやすい人だと思うようになってきた。時々浮かべる気さくな笑みは、本当に子どもみたいで可愛らしい。それに、時には皮肉だって言うものだから、学校でもこんな感じなら人気が出そうだと思う。
「なんか用事でもあった?」
「別にないよ。……ないけど、なんか一人だと心細くて」
「香澄って、本当は根暗だったりするの?」
「もう、なに急に? ひどいな」
突然の問いかけに、私は思わず笑みを浮かべて彼に言う。すると島崎くんは、笑みを浮かべながらも「ごめん」と謝った。
「学校だと友達も多くて明るい印象だけど、二人でいるときはなんか、いつもより落ち着いてて話しやすいなと思って」
続けられた言葉に、私はハッとして島崎くんの方を振り返った。確かに、彼の言う通りだ。私は、どこかで他人に合わせて生きている。人に同調して場を盛り上げることはできても、自分の意思を明確に持つことは少なかった。もちろん、すみれにそんなことはしたことがない。私がそうしなければいけないから、だから私は、すみれと一緒にいるのが好きだったのかもしれない。
スッと溶け込むような答えが浮かんで、その中で私は、一つだけ考えた。
——島崎くんが好きな自分こそが、本当の私なんじゃないか。
もしもその考えが正しければ、やっぱり私は異常なんかじゃない。すみれとは友達としてやっていけるし、みんなと同じように普通の人生を送ることだってできる。
まだ確信も持てず、迷いの中にいる私は、それを信じて島崎くんを押し倒した。困惑する島崎くんには目もくれずに唇を重ね、これが本当の私なんだと内心で言い聞かせる。脳裏を過ぎるすみれの表情をかき消すように、私は自ら身を委ねた。
数秒のキスをしているうちに、今度は島崎くんが私の体を押し倒す。手首を握る力の強さと、体に触れる島崎くんの膨らみは、彼が男であるということを再確認させた。
「ちょっ、やめ——」
声も聞かずに、私の唇には再度島崎くんの唇が重ねられる。ぎこちなく、深いキスを初めてして、視界は徐々に霞んでいった。理性の暴走を感じて、目の前の生き物が醜く見えた。荒くなる息遣い、急激に上昇する心拍数と、走馬灯のように浮かぶすみれの姿。それが恋しくなって、涙が溢れた。
少しして島崎くんの顔が離れた時、私の顔はどれほどぐしゃぐしゃになっていただろうか。
「ごめん……」
返事なんてできなかった。ただ離された両腕で顔を覆うようにして、私は島崎くんの顔を見ないようにするのに必死だった。仄暗い部屋の中、打ち付ける雨の音が煩いくらいにはっきりと聞こえ、その雑音に混じるような低い声で、島崎くんは言葉を続ける。
「今日は帰る……」
その言葉と同時に、鈍い音が聞こえた。何かを殴るような音。彼が一体何を殴ったのか、それを見る気力すら私にはなくて、ただ遠ざかる足音と、閉ざされる扉、やがて階段を降りて玄関から出て行く音を、私は雨音とともに聞いていた。
歯を食いしばり目を瞑ったとき、まぶたの裏に映るのはすみれの姿。ああ、やっぱりすみれのことが好きなんだ。その気持ちを改めて実感できたけれど、島崎くんに押し倒されたとき、少なくとも嫌な感情は抱かなかった。嫌じゃないのが、嫌だった。
驚きはもちろんあったけれど、あのまま先へ行ったとき、私は多分島崎くんを受け入れていたと思う。それが余計に私を混乱させて、今度はすみれに会いたくなった。
傘も差さずに家を飛び出し、雨に打たれて私は走った。なんども呼び鈴を鳴らして、ようやく出てきたすみれの体を、私は強く抱きしめる。震える体を抑えるように、彼女の体に縋るように、ただ強く抱きしめた。
私を心配してくれたのか、すみれは私を家に入れ、お風呂にも入れてくれる。泊めて欲しいなんていう無茶な願いまで聞き入れてくれて、本当にありがたかった。
ただ、すみれは私に何も聞かなかった。泣いていることも気づいていただろうに、すみれは何も聞かない。気を使っているのはわかるし、聞かれても私は素直に答えられない。分離する私自身と同じように、その心までもが矛盾を孕んで、疎外感を覚えてしまう。
「すみれ、何も聞かないんだね」
寝ようとする頃にようやく、私はそれを口に出すことができた。きっと不満げに聞こえていたと思う。実際、私の半身はそう思っていた。
「聞いた方が良かった?」
すみれの優しい表情が、目の前にあった。かき回される心が、涙を産み出して行くのがわかる。すみれを好きでいようとする気持ちと、島崎くんを好きになろうとする気持ちが混ざり合って、黒く淀んでいった。どちらにもなれない私は、一体何者なんだろうかと、その気持ちが強く胸を締め付け、無意識のうちにすみれと問答を繰り返していた。
問答を繰り返しているうちに、やがて私の瞳からは涙がこぼれ落ちた。拭うこともできないそれは、重力にしたがって枕へと落ちていく。その瞬間に、私の肩にはすみれの手が置かれ、気がつけばキスをされていた。
島崎くんの時とは違う甘い香りが鼻をくすぐり、柔らかく潤いのある唇には弾力を感じた。
時が止まるような感覚とともに、驚きが押し寄せてくる。それでもすみれの優しい口づけは、私を安堵させてくれた。
すみれはすぐに目を瞑ってしまったけれど、私は重なっていた視線をそのままに、目を細めて彼女の顔を間近で見ていた。カーテンの隙間から差し入る光がその顔を照らして、幻想的な世界にいるような感覚を覚える。
やがて顔を離すと、すみれは私の顔も見ないまま、背を向けた。
「ごめん。本当に、ごめん。嫌だったら、部屋出ていくから、言ってね」
怯えるような声音に、私は何も言えなかった。私も同じだよと、そう言うべきだったのかもしれない。だけど、そう言い切るほどの確信が、私にはなかった。感じ方は違うけれど、島崎くんとのキスも、すみれとのキスも、どちらも嫌じゃない。もっと言えば好きだと思えるほどだった。だからこそ、私はそれを言い切ることができなかった。
その日私は、私の中でとうとう迷子になってしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます