Side-A
2014年 8月8日
あの日以降、私は香澄との連絡をとっていない。何度かメールはきたけれど、私は返信もせずに長い時間を一人で過ごしていた。いつもなら終わっているはずの課題ですら手がつかず、あの日の出来事を忘れる一心で本を読み漁り、気が付いた頃には夜も更けて、気持ちとは裏腹に進んでいく時間の流れに逆らうこともできないまま、不安を抱えて日々を送っていた。
今日は台風が近づいていて、窓の向こうからは打ち付ける雨の音が聞こえる。もう随分と振り続ける雨の中、徐々に強くなる風は窓を揺らして音を立てていた。それにかき回されるようにして、私の心にある不安も、徐々に膨らみをましていく中、突然家の呼び鈴が鳴り響いた。
一度鳴り、私は居留守をするつもりで窓から門扉を覗き込む。しかしそこにいるはずの人は、塀の影に隠れて少しも見えない。ただそこにいるのが香澄ではないのかという考えが頭に浮かび、私は未だ彼女に囚われているような錯覚に陥った。
数秒無視していたけれど、それは再度家の中に響いた。それすらも無視をすれば、再度呼び鈴が鳴り、その間隔は少しずつ短くなっていく。焦燥感を煽るようなその音に駆られて、私はようやっと部屋から飛び出すと、リビングにあるモニターに目を向けた。
そこに立っていたのは、香澄だった。眉を寄せ、まるで涙を堪えているようにも見えるけれど、彼女を濡らす雨のせいで、その瞳からこぼれ落ちる涙は視認できない。乱れた髪の毛と、肌にくっついた服。その姿は、なぜか私に罪悪感を抱かせた。
ゆっくりと玄関へ足を運び、私は恐る恐る扉を開ける。最初に目に映ったのは、香澄の安堵したような表情だった。門扉を自ら開けることもせず、じっと立ち尽くす香澄の元へ、私は傘を差して歩み寄る。そうして門扉を開けたとき、香澄は私に飛びついた。
香澄は何も言わず、震える体でただ私を抱きしめる。震える息は寒いからか、それとも彼女に何かあったのか。二つの考えが脳裏に過ぎったけれど、私は誘われるようにして香澄の背に腕を回した。
「……とりあえず入って。風邪、ひいちゃう」
「……うん」
その声もやはり震えていた。私は彼女をなだめるように背中に手をおきながら、家の中へ案内する。靴を脱ぎ、先にタオルを持ってきて香澄の頭を拭いてあげた。拭いてもなお頬を伝う雫は、ようやくそれが涙なんだと私に教えてくれて、それが気がかりだったけれど、そんなことを聞くのは無理だった。
「お風呂、入ってきて。服は私の貸すから。サイズが合うかはわからないけど」
「ありがとう」
そこにいつものような明るい笑みはなく、私の知らない悲しげな表情だけがあった。放っておけば崩れ落ちてしまいそうで、少しだけ怖くなったけれど、私は浴室へ歩く香澄の背中を、ただ見つめていることしかできない。
もしも私が男だったなら、そんな彼女を強く抱きしめて、愛でも囁いてしまうんだろうかと思う。それくらいの考えは浮かんでも、それをするほどの気概は、私にはなかった。
香澄の姿が扉の向こうへと消えると、私は部屋へ戻って服を着替える。そうして香澄に貸すための少し大きな服を抱えて、私は浴室へ向かった。磨りガラスの向こうに見える香澄の影は、細く、綺麗なものだった。
「服、置いておくね」
「うん、ありがとう」
「……出るまで、ここにいてもいい?」
「……いてほしい」
問いかけてしばらく、返ってきた言葉を聞いて、私はこんな状況でも口元が緩んでしまう。話すことはなかったけれど、目を離せば香澄が遠くへ行ってしまいそうな気がした。
随分と長い時間、香澄はお風呂に入っていたと思う。シャワーの音も途絶え、湯船に入っていく音が響き、その後も何度か湯の跳ねる音が響いた。その音を聞いて、私は香澄の動作を想像した。
「そろそろ出るね」
「うん。わかった」
返事をして立ち上がると、私は脱衣所を出る。リビングに戻って暖かいお茶を入れていると、そのうちに香澄の声が聞こえてきた。
「お風呂ありがとう。部屋、行ってて平気?」
「うん、あったかいお茶持っていくから待ってて」
「わかった」
扉の向こうから聞こえる落ち着いた声に返事をすると、やがて階段を登っていく足音が聞こえた。
数分遅れて私が部屋に行くと、香澄はベッドに寄りかかるようにして座っていた。電気も点けておらず、仄暗い部屋の中で、私に気が付いた香澄は取り繕ったような笑みを浮かべる。私もそれに笑みを返して、持ってきた二人分のお茶をテーブルに置いた。
「ありがとう」
短い礼の後、香澄はお茶を飲んで息を吐く。私もそれに誘われるようにして、お茶を一口飲んだ。香澄は何も言わず、かと言って私の方から何かを聞くこともできないまま、部屋には打ち付ける雨と吹き付ける風の音だけが響いた。一人の時となんら変わらない時間の中で、香澄は不意に立ち上がって本棚へ足を向ける。
「本、読んでもいい?」
その問いかけに、私は無言で笑みを浮かべて頷いてみせる。本棚の中から一冊の単行本を取り出して元の位置に腰を落ち着かせると、香澄はそれをゆっくりと開いた。
数時間の間、私たちの間に会話はなかった。私も手持ち無沙汰になって本を読み始めると、時間はあっという間に過ぎていった。
「ごめんね、急にきちゃって」
「いいよ。どうせ暇だったし」
ようやく口を開いた香澄に返事をして、私は再び本に視線を落とす。パタリと本を閉じる音が聞こえて、すぐに現実へ引き戻されると、香澄は気まずそうに口を開いた。
「……今日さ、泊めてもらえないかな?」
私は答えあぐねた。嫌なわけでもないし、両親だってきっと了承してくれるのはわかっている。しかし、以前までは抑えられた香澄への情欲を、私が抑えることができるのだろうかと、少しだけ不安になった。そうなればきっと、本当に今度こそ、私は香澄と顔を合わせられなくなってしまうような気がしたから。
自分から遠ざかるのではなく、香澄の方から遠ざかれるのが怖くて、だからこそ私は、答えあぐねてしまった。
「……親に聞いてみるね」
結局そう返事をして、私は携帯を開いた。はっきりと断る勇気もない私は、せめて親がダメだと言ってくれるのを願って、メールを送信した。しかし思い通りに行くはずもなく、結局親は許可をしてくれて、その日香澄が止まって行くことが決まった。
複雑な気持ちでそれを伝えると、香澄は再度私に礼を言う。柔らかい笑みと、耳触りの良いその声が、私はやっぱり好きなんだと自覚して、本来の自分に触れるような感覚を覚えた。
特別二人で何かをするわけでもなく、用意された食事を香澄も加えて食べることとなった。ゲームなんてものもろくにやったことがない私の家での娯楽といえば、本を読むか映画を観るか、あるいはテレビ番組を観るか、それだけに限られるものだから、その日私たちは一日中本を読んでいた。そうやって香澄が二冊目の本を読み終えた頃、私たちは寝ることにした。
「やっぱりダメ。すみれの隣で寝ても良い?」
床に敷いた布団に香澄が寝そべり、私もベッドに体を預けて十数分が経過した頃。香澄は突然そんなことを言い出した。どうするべきか悩んだ挙句、結局私はそのお願いも断ることができないまま、香澄をベッドの中に入れる。
「すみれ、何も聞かないんだね」
「聞いた方が良かった?」
聞き返すと、香澄は少しの間おし黙る。ベッドの中で向かい合い、触れていないはずの体に、温もりを感じる。長い睫毛がはっきりと見えた。
「……ごめん」
「謝ることないのに」
しばらくして短い謝罪をする香澄に、私はそう返事をした。そうしてしばらくしたのちに、香澄はもう一度口を開く。
「私って、なんなんだろう?」
「……どういうこと?」
悲しげな笑みを浮かべて放たれた言葉の意図を、私は理解することができなかった。
「そのままの意味だよ。私、もうわけわかんなくなってきた。自分がどんな人間なのか、どう生きたいのか、何をしたいのか、全部わかんなくて、ひとりぼっちになった気分」
淡々と語られるその言葉は、きっと本心からの言葉なんだと思う。けれどその根幹にある香澄の何かが、私にはわからなかった。
「私は、宇宙人なんだ」
「特別ってこと?」
「そういえば聞こえが良いかもね」
聞き返す私に返事をして、香澄は笑みをこぼした。目を閉じた時に、そこからは一滴の涙が伝っていき、それは枕に落ちて染み込んでいく。その涙が、無性に私を駆り立てて、脆い姿をみせる香澄の顔に手を伸ばした。
柔らかく、すべすべで、手に触れる髪の毛は細い。手が冷たかったのか、一瞬香澄の体は小さく跳ねた。驚いたような表情で、パッチリと開いた二つの瞳が私を見つめる。暗がりの中、カーテンの隙間から入り込む隣家の明かりが、線となって私たちを照らした。
衝動に駆られるままに重ねた唇は、柔らかく、潤いを持っている。島崎くんの存在をかき消すように、私は長い時間、香澄の唇に自らの唇を重ね続けた。香澄の表情を見たくなくて、私は目を瞑り続けた。
恐怖と、喜びが、私の中で乱反射する。徐々に熱をもつ香澄の体は震えていたけれど、彼女が抵抗することはなかった。
十数秒のキスのあと、私はゆっくりと顔を離す。香澄の顔を見るのが怖くて、すぐに背を向けると、私は彼女に聞こえるよう謝った。
「ごめん。本当に、ごめん。嫌だったら、部屋出ていくから、言ってね」
返事はなかった。それを了承と取るべきなのか否か、私はその答えを導き出すことができなかったけれど、香澄があの日のように私に身を寄せることはなかった。後悔と高揚、その二つが混ざり合って、息苦しかった。そのせいですぐに眠ることはできなかったけれど、それでもいつの間にか、私は眠ってしまっていた。
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