Side-A
2014年 7月11日
夏の雨。涼しげな今日で、一学期は終わりを迎える。昨日から、私にとってはあまり良くない噂を耳にしていた。あまりというか、かなり嫌な噂。けれど私は、それを本人から聞くことができていない。
学校が始まり、終業式を終えてからも、香澄の周りには同級生の群が出来上がっている。ちらほらと聞こえてくる話は、どれも島崎くんのもので、私は逃げ出したい気分になった。
話題に上がるほどに、島崎くんが普段人と一緒にいるところは見たことがない。それは、クラスの違う私も知っていることで、好きな人を香澄から聞いたときにはもちろん驚いたけれど、まさかこんな早くに付き合うとは思っていなかった。
「すみれ」
私が素知らぬふりをして通り過ぎようとしたとき、香澄は私を呼び止めた。ああ、きっと報告されるんだろう、そう思うと、余計に胸が痛くなった。いっそこのまま告白してしまおうか。そんな考えが頭を過ぎったけれど、私はその勇気を持ち合わせていなかった。
「どうしたの?」
「うん、あのね。もう知ってると思うんだけど、私——」
「島崎くんと付き合えたらしいね」
あくまで平静を保って、私は笑みを浮かべながら先に言った。香澄の口からは聞きたくなかった。嬉しそうな笑みを浮かべる彼女からは、その報告はされたくなかった。
「うん。そうなんだ。本当はすみれに一番に報告しようと思ったんだけど……ごめんね」
「いいよ。私は気にしてないから」
「ありがとう」
それだけ言うと、香澄はまたみんなの元へ戻っていく。友達の多い香澄を羨ましいと思ったことはないけれど、彼女と友達として付き合い続けることができる人たちは、私にとってはこの上なく羨ましい存在だった。
私はどうしても、それ以上の感情を抱いてしまうから、それはきっと無理なんだと思う。付き合い続けていく中で、いつかきっとこの気持ちが暴走してしまうだろう。そんな予感が、いつからか脳裏を過ぎるようになっていた。
放課後。私はいつも通り香澄と帰ることはなかった。きっと今日から、私はずっと一人になるだろう。そう思った。香澄と仲良くなる以前のように、何もない私になって、今はまだ話しかけてくれるけれど、そのうち距離は空いていく気がした。
現実を突きつけられるのが嫌で、私はホームルームが終わってすぐに教室を出た。時々後ろを振り返るのは、私がどこかで期待しているからかもしれない。いつものように、先に帰ろうとする私を呼び止めて、私の横に駆け寄り、足並みを揃え、明るい笑みを浮かべてくれる。それを私は、心のどこかで期待していた。
「ただいま」
家に帰ると、玄関には見慣れない靴が二足あった。そのうちの一足は男物で、私はなんとなく察しがついた。腹違いの姉が、彼氏を家に連れてきている。二階から聞こえる大音量の音楽は、私にそう確信させた。
大学で彼氏を作ってからというもの、姉はほとんど家に帰ってきていない。けれど時々、彼を家に連れてくることがあった。私への見せしめなのか、自慢なのか。大音量の音楽が流れる部屋から、壁を超えて微かに聞こえる声は、いつもと違う、甘ったるい声。最初こそ何をしているのかはわからなかったけれど、今ではなんとなくわかるようになってしまった。
植えつけられた知識のせいで、姉が彼と何をしているのかわかってしまう。それが嫌で、こういう時は決まってすぐに家を出るようになった。
徒歩で十数分の距離にある図書館に逃げ込んで、私は読書にふけった。いつ、彼氏はいなくなるんだろう。今日は泊まっていくのだろうか。そう考えると帰るのも嫌になって、結果的に私は、夜の七時まで家の外にいた。
恐る恐る玄関の戸を開け、私はあの男の靴がないのを見て安堵した。
「おかえり、すみれ」
「ただいま、お姉ちゃん」
声をかけられ、私は姉に返事をした。首元の跡が目に入り、私は目を逸らした。普段は優しいはずなのに、その姿は姉の嫌な姿を想起させて、嫌悪感を抱いてしまう私がいる。
「今日は帰り遅いね。部活やってたっけ?」
「やってないよ。読みたい本があったから、図書室に行ってたの」
私が笑みを取り繕って答えると、姉は私の頭を優しく撫でた。
「偉いね、すみれは。私なんかとは大違いだ」
「ありがとう」
こういう時の姉の表情が、私は好きだった。両親のことは好いていないけれど、私のことは小さな時からよくしてくれていた気がする。だからこそ、私はそんな姉の別の姿を想像したくなかった。
「すみれ、今日は一緒に寝よう」
「……うん」
夕食を食べ、お風呂に入ったあと、私は姉の提案を受けて頷く。姉が一人で泊まっていく日は、決まって彼女に誘われて一緒に寝ることが多かった。
寝る時間になるまで、姉は私の部屋で過ごし、私が寝ようとすると、同じベッドに横になった。背の高い姉は、私を後ろから抱きしめるようにして腕を回す。
「暑いよ、お姉ちゃん」
「いいじゃん。たまにしか帰ってこないんだから、妹成分補給」
その声に切なさを感じて、私は振り返ろうとしたけれど、すぐにそれをやめた。
「女の子は、こうやって大切な人とくっついてるだけで、心が満たされるんだよ」
「彼氏さんは?」
「それは二番目。私にとって今一番大切なのは、すみれだから」
優しい声音でそう告げると、姉は言葉を続けた。
「ていうか、やっぱり今日一回帰ってきてたんだ?」
「……うん」
「そっか……ごめんね」
姉が謝ると、しばらくの間沈黙が流れた。暗い部屋の中、耳元に響く姉の声は優しく、それ以上に悲しげだった。
「……どうして、家にほとんどいないの?」
「私は……邪魔者だもん。お父さんはきっと、私のことなんか見たくないと思う」
「そんなこと——」
「あるんだよ。別の男を作って出てったお母さんとの子なんて、普通は見たくもないって。蛙の子は蛙。私は、お母さんに似てるから。お父さんが私を見るとき、なんとなく嫌悪感を感じる。すみれを見るときとは違ってね」
その言葉に、私は慰みも何も言ってあげることが出来なかった。きっと、姉にしかわからない何かがあるんだろうと思う。その何かは私にはわからないけれど、ただなんとなく、私が軽々しく言葉をかけていい問題ではない気がした。
「ごめんね、こんな話しちゃって。すみれは私の大切な妹だからね。……おやすみ」
「うん、おやすみ」
縋るように付け足して、姉は最後に私の頭を撫でた。彼女が感じているのであろう孤独感が、なんとなく私にも伝わって、一瞬、下まぶたが痙攣した。私は、姉のことを少し、勘違いしていたのかもしれない。
それ以上の会話もなく、私は姉の腕に包まれたまま、その温もりの中で眠りに落ちた。
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