第19話 初めての夜
メレフはこの町に来てもエフィムの屋敷に泊まることはなく、常に宿屋を利用していた。
「どうして泊まらないのですか?」
「……自分があの二人の邪魔をしているとわかっていたからですよ」
そう言ってメレフは苦笑する。仲が良い家族のようなのに邪魔と思う理由がわからない。
宿屋はエフィムの屋敷と町を挟んで反対側。同じく高台から海が見渡せる最上階の部屋へと案内された。外観は素朴でも、整えられた内装は貴族が使う宿屋と大差ない。白い家具に白い壁。窓布やクッションは鮮やかな青で統一されていて、爽やかな印象を受ける。
「港から船に乘る貴族が使うので、宿屋もそれなりの設備を整えているようです」
大きな窓を開くと眼下には煌めく港町。賑やかな商店や家々から漏れる灯りが夜空の闇を輝かせ、星々の光を霞ませている。
「綺麗……」
木々に囲まれ静かなエフィムの屋敷から見る夜景とは、また違った趣きがある。
メレフに促され一人で浴室へと向かう。手渡された布袋には、私がいつも使っている化粧水とクリームの小瓶や口紅が入っていた。更衣場には真新しい下着と白い夜着が用意されていて、必要な物すべてが揃えられている。
二カ月ぶりに一緒に眠ってもらえるのかと思うと嬉しくて仕方ない。念入りに体を洗い、準備を整えて浴室から出た。
「メレフ、お待たせしました」
「……こちらで待っていて下さい。飲みますか?」
三人掛けのソファの前に置かれたテーブルには茶色の瓶と美しいグラスが二つ置かれていて、片方には淡い青色の液体が注がれている。
「いいえ。一緒に飲みたいと思いますので、お待ちしています」
「すぐに出てきます」
素っ気ない言葉だけで、メレフは浴室へと入ってしまった。
二人きりになっても抱きしめてもらえなかった。何か間違ってしまっただろうかと考えてもわからない。部屋の中を行ったり来たりしながら、どうすればいいのか迷う。花瓶に活けた白薔薇を持ってくることができなかったことが気になる。
白薔薇を贈ってくれたのに、メレフは私に口付けようとはしない。挨拶の口づけすらないのだから、肉体的な関係は必要としていないのかもしれない。
そう結論付けた時、メレフが浴室から出てきた。白いガウンは鍛えられた体には少々窮屈そうで
「もう少し大きな寸法の方が良さそうですね。替えてもらいましょうか」
「いえ。どうせすぐに脱いでしまいます」
何故かメレフの言葉にどきりと胸が高鳴った。ただ一緒に眠るだけだというのに、鼓動が早くなっていく。
ソファに二人で並んで座ると、メレフが新しいグラスに液体を注いで手渡してくれた。
「酒ではなく炭酸入りの果汁です。海の向こうにあるコダルカ国から年に一度輸入される品です。私は子供の頃からこの色が好きでした」
メレフがグラスを魔法灯にかざすと、淡い青色が紫や紺色に見えて不思議な色になる。真似をして、私もグラスをかざすと、淡い青色が赤や桃色になった。
「不思議……メレフのグラスとは違う色になります」
「これは、魔力や神力に反応して色を変える果汁です。赤系の色に変わるということは、マリーナには神力があるということです。神力のことを知っていますか?」
「ええ。女神の力を分けられ、無から有を生み出す奇跡を起こす力だと」
我が国では、もうなくなったと思われていた特殊な力。それが私の中にあることが不思議だと思う。何かできるだろうかと考えてみても、全く思いつかない。
「ごく微量のようです。青い小鳥が見えたでしょう? 声も聞いた」
「はい」
「あの青い小鳥は風の精霊が変化した姿です。昔、王城庭園でマリーナに神力を感じて助けを求めたそうです」
「そうだったのですね。急に姿を消してしまったので、夢かと思っていました」
「強い魔力を持つ私が現れたので『乗り替えた』と言っていました」
あの黒い大きな鳥は精霊を狙う魔女の使い魔だったと聞くと、本当にお伽話としか思えない。メレフが精霊の本を熱心に読んでいたのも、魔力を持っていたからなのか。
「メレフがこちらにいらっしゃった際に、地面に描かれた複雑な模様は何だったのですか?」
「あれは魔法陣です。様々な呪文が図形化されたもので、魔法の目的によって形が変わります」
「メレフもエフィムと同じ魔法使いだったのですね」
「……そう……ですね。魔法の基本は幼い頃にエフィムから教わりました。ただ、私の出生の理由を知ってからはずっと封印してきました。強い力を持つ私が、両親や祖父のように狂ってしまったらどうなってしまうのかという恐怖を常に持っていました」
「メレフはきっと狂ったりしません」
「……そうだといいのですが……」
伏せてしまった青い瞳を覗き込む。お伽話の中にしかいないと思っていた魔法使いは、深い悩みの中にいる。どう慰めればいいのか全くわからない。
「あの……どうして魔法を使うようになったのですか?」
「マリーナを護る為です。さらわれそうになった時、私は精霊と契約を結びました。マリーナを護る強い力を欲して、自らの封印を解きました」
私を護ると繰り返すメレフの言葉が嬉しい。
「ありがとうございます」
「怖くありませんか?」
「はい。メレフなら怖くありません」
メレフの隣にいると、嬉しくなってしまう。緩んだ頬にメレフの手が添えられた。
「……マリーナが屋敷から出たと連絡があった時には、驚きました。任務を捨てて戻ろうかと思ったほどです」
「任務?」
辺境での軍事訓練ではなかったのだろうか。
「貴女の誘拐を依頼した隣国のカレルヴォ王子を懲らしめてきました」
「あれは……王子の……」
もしもさらわれていたらと考えて、恐ろしさに震えると抱きしめられた。
「王子は廃嫡。今は辺境の地にいます。これでマリーナも自由に行動できるようになります。……王子に未練があるのですか?」
「いいえ。ただ、一国の王子を廃嫡にしてしまう程の罪だったのかと考えてしまいます」
竜に守護された国の未来の王という地位の剥奪。私個人の価値と比べると、その重さが違い過ぎる。
「何の処分も行われないのなら、私はカレルヴォ王子と決闘するつもりでした。戦争になったとしても私はマリーナの方が大事です」
「それは……口にしてはいけないことです」
貴族である以上、個人の感情よりも国と国民の利益を優先させなければならないと教えられてきた。そうは言っても、大事に思われている嬉しさは隠せない。
「王子には誘拐計画以外にも多くの罪があったのです。トラン国王が迷いなく処断したのは、密かに知っていたのかもしれません」
多くの罪についてはメレフは詳しく説明してはくれなかったものの、少年少女への非道という一言で察しがついた。
「メレフが無事に帰ってきて下さって嬉しいです」
抱きしめられたまま、その胸へと頬を寄せる。嬉しくて嬉しくて、心は舞い上がってしまう。
「……私が妻の為にカレルヴォ王子を懲らしめに行ったというのに、妻は勝手に思い悩んで屋敷を出てしまいました」
大きな溜息が降って来た。
「そ、それは……はい。ごめんなさい……」
メレフの手が私の髪を撫でて、また溜息を吐く。
「私はここに来るために、妻に離縁されそうなので休暇が欲しいと王に訴えました」
通常、ヴァランデールに到着するまでは早馬で昼夜駆けても八日かかる。移動魔法を使えることは我が国の王と王子、数名の騎士にしか教えておらず、一月の休暇を認めてもらったとメレフは続けた。
「きっと今頃、騎士や兵士の間で笑い話になっています。……責任を取ってもらいますよ」
どんな責任を取ればいいのだろう。顔を上げれば、メレフが青い目を細めて笑っている。
指先であごを持ち上げられて、微笑みが近づいてくる。心臓が早鐘を打っていて、頬が赤くなっていくのがわかる。
触れられる喜びと、ほんの少しの恐怖。唇が触れそうな距離でメレフが動きを止めた。
「……閨でのことをどこまで知っていますか?」
「……皆、旦那様にすべてお任せしなさいとしか」
何をされても、望まれるままに身を任せるようにと教えられた。
「そうですか」
青い瞳に少し意地悪な光が見える。私の答えは何か間違っていただろうか。不安で震えると、そっと唇が合わさった。
何度も軽い口付けをされると緊張していた体から力が抜けていく。メレフの胸に倒れ掛かると、ソファから抱き上げられた。
「私は書物での知識しかありません。嫌だと思ったら言って下さい」
「そのようなことは絶対に思いません」
メレフのガウンの襟を握りしめる。嫌だなんて思ったことはない。
ベッドに並んで横たわると、メレフがまた大きな溜息を吐いた。
「ずっと馬鹿だ馬鹿だと思っていましたが、本当にマリーナは馬鹿ですね」
「それは……。はい……ごめんなさい」
また言われてしまった。確かに反論できない程、私は愚かだった。メレフの手が私の額を撫で、髪を梳く。優しい手つきが心地いい。
「……その馬鹿を好きになってしまった私は、もっと大馬鹿者です」
甘い囁きに驚く暇もなく、抱きしめられて口づけられた。好きと言われたことが嬉しくて涙が零れる。
「マリーナ、何故泣くのですか?」
「う、嬉しくて」
「これ以上、私の理性を試さないで下さい」
甘い囁きと甘い溜息。解かれた唇がまた重なる。
そうして私たちは初めての夜を迎えた。
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