第17話 青海の乙女
水の国。それが隣国トランの別名であることに納得する光景が崖の下に広がっている。国土の半分以上が川と沼地。通常は川が豊かな土壌を作るものだと聞いているが、岩山に囲まれたこの国の土はさらさらとした砂状で何も残さない。海辺の砂とも違う、細かく砕いた薄茶色のガラスのような不思議な色をしている。
「かーっ! やーっと、芋料理ともおさらばかー!」
黙々と崖を昇っていた反動なのか、頂上に着いた途端にドナートが腕を上げ、背を伸ばしながら叫ぶ。地上は遥か下。ここなら大声を出しても聞こえることはないだろう。
水が多すぎて穀物が育たない為に、水を好む種類の芋や植物の根がトランの主食だ。この二カ月間、食事以外の楽しみがない中、様々な芋料理ばかりで辟易していた。
「そろそろ魔法で転移でいいんじゃねーのか?」
私が高度な魔法が使えるようになれば避けられるかと内心恐れていたのに、ドナートは便利だと言って増々絡んでくる。その親しさは、どこかほっとするような不思議な優しさを感じさせるので不快にはならない。
「国境を出てからだ。竜族に感知される危険は避けたい」
トランの王族は大昔から水竜と契約を結び、治水を任せている。古い伝承によれば、雨季にはすべてが流され、人々が定住することはできなかった土地だ。竜の聖なる力で流れる水の量が調節されるようになってから、村や町が出来た。
旅人を装い、土着の精霊たちから情報を収集する中、水竜ザハリアーシュが不在であることを知った。過去には竜王候補にもなった程の強大な力を持つ竜ではあるが、一度手に入れた竜の
替わりに水竜の配下の竜族が治水を行っていた。その力は脆弱で、治水を行うだけで精一杯。戦争になっても拠点から離れることはできない程度の力でしかなかった。
これは今回の計画にとって好都合でもあった。我が国の脅威でしかなかった水竜が不在であることを知っていると匂わせただけで、トラン王は柔軟な姿勢を見せ、突然訪問した我々の話し合いにも応じた。
「水竜の当主はいないんだろ? 残りの小竜じゃあ感知できないんじゃないか?」
「その可能性は高いが『念には念を入れよ』という異世界人の言葉がある」
「何だそれ」
「注意の上にも注意を重ねて慎重になれ、という意味だそうだ」
この言葉はヴァランデール王国に召喚された異世界人から伝わったものだ。
「ふーん。ま、あともうすぐってことだな」
大袈裟に肩をすくめて笑うドナートの表情にほっとさせられる。この計画は独りでは成しえなかった。私独りであれば、怒りの感情のまま王子を糾弾していたかもしれない。
「よし! とっとと国境を超えるぞ!」
どこにそんな体力があったのか、ドナートが駆け出していく。崖の反対側は、森へと向かう緩やかな岩場ではあるが、下りは気を付けなければ足首に負担を掛ける。
「足元に気を付けろよ!」
「おう! お前も早く来いよ!」
ドナートの足取りは笑いながらもしっかりとしている。この計画の中、この男は随分と実力を隠しているのだと気が付いた。
他人と深く関わることは面白く、自分が知らないことを知ることは楽しい。心の底からそう思える事が嬉しく、それを教えてくれたドナートへ感謝にも似た思いが心に広がっていく。
国境を越え、私は転移魔法を発動させた。国王陛下に今回の計画の結果を報告し、私は二カ月ぶりに公爵家の屋敷に戻った。
マリーナの誘拐を指示したのはトラン国の第一王子カレルヴォだった。エルショフ伯爵夫妻は国境近くの村でマリーナを王子の配下に渡す算段になっており、我々は配下を捕らえた。
実行犯は捕らえたものの、誘拐の嫌疑で王子を糾弾するには証拠が弱すぎた。そのことを養父に相談した所、他の犯罪についての多くの証拠を渡された。王子が我が国へ戦争を仕掛ける為の準備を重ねていたと知ったのはその時だった。
私はドナートと共に国王陛下の秘密の使者として隣国トランへと向かい、その証拠を王へ提示して王子への処罰を求めた。一国の王が第一王子についての処置を他国からの糾弾で決めるとは思えなかったが、トラン王はあっさりと王子の幽閉を決めた。
マリーナの誘拐未遂、我が国の王子に対する暗殺計画と侵略準備、トラン国での汚職もさることながら、王子が多数の未成年者を対象にした極悪非道の証拠が王に衝撃を与えたようだ。
公爵家の執務室では養父イグナート・プラヴィノフが待っていた。
「お帰り。どうだった?」
金の髪に青い瞳。養父の髪は元々、実母と同じ銀髪だったと記憶している。私を養子にした後、養父はその髪を薬草で染めるようになった。当時は理由がわからなかったが、今ならわかる。私に実母を思い出させないという配慮と、他者から見て親子ではないと詮索させない為だったのだろう。
「第一王子カレルヴォは廃嫡になりました。辺境の地で幽閉されたことを確認し、土着の精霊に変化があれば知らせてもらうように依頼しています」
王子は側近たちとともに塔に閉じ込められた。騒ぎになることを恐れた王は、自ら王子たちに眠り薬を飲ませ、意識を取り戻さないうちに騎士たちに運ばせた。
目覚めた時には全く違う場所にいる恐怖を王子は存分に味わえばいいと、多少の溜飲が下がったという黒い感情は秘密にしておきたい。
「それは上々。あまりにも外道だからどうやって潰すか考えてたんだけど、君が行ってくれて良かったよ」
養父はかなり以前からカレルヴォ王子に対して嫌悪感を持っていた。機会があればと狙っていたと笑う。
「水竜ザハリアーシュが不在であったことが、功を奏しました」
竜がトラン国にいない理由を問われて答えると、養父は目を輝かせた。
「そうか。もう三十年以上水竜ザハリアーシュが公式行事に出ていない理由がわかってすっきりしたよ。竜の番を見つけて城に籠ってるっていう話だったけど、全く外に出ない理由としては弱かったからね。竜に関しては、どうしても探れなかったんだ」
優秀な間諜といえども、我が国には魔力を持つ者はほぼいないので仕方のない話ではある。魔力を持つ私でも精霊と契約していなければ探れなかっただろう。
「今回、一番の収穫は戦争を防ぐことができたことだ。私は君に教えただろう? 『戦争はしてはならない・起こしてはならない』という掛け声だけでは国は護れないと」
「はい。『戦争を防ぐ為に備えなければならない』ですね」
この世界では戦争で負ければ王族貴族だけでなく国民全員が殺されてしまう。戦争が発生すれば絶対に勝つしか生き残る道はない。
「そうだ。我々は戦争を回避する為に外交を行い、裏では諜報活動を行っている。表向きは友好関係を結んでいても、豊かな国は常に狙われていると警戒しなければならない。兵を養い、軍備を整えておくのも回避する為だ」
「我が国が戦争を望んでいなくとも、敵に戦争を仕掛けられることを警戒する必要があるということがよくわかりました」
王子の暗殺計画、貴族たちへの浸透計画。静かに進んでいた侵略も戦争の一種だ。
「トラン国は水が豊富ではあるが、穀物が育ちにくい土地だ。我が国の穀倉地帯は魅力的なものだろう。王子が度々我が国を訪れていたのは、情報収集と協力者への呼びかけ、つまりは戦争を仕掛ける為の前準備だった」
「ところが我が国の間諜による情報では、戦争を仕掛けたいと思っていたのは王子のみで、王も第二王子も平和を望んでいるという話だった。次代の王としては第二王子の方が適していた」
カレルヴォ王子もただ領土を広げたいという理由ではなく未来の王として、国民の為に豊かな穀倉地帯を手に入れたいと考えていたようには思えた。しかしそれは侵略される方にとっては迷惑な話でしかない。
第二王子と少々話す機会があったが、カレルヴォ王子とは正反対の学者気質の真面目な青年だった。国土に合わせた作物を研究し、特産品を作ることを推奨していると語る姿は、華やかさはなくても堅実さを示していた。トラン国の民の為を思えば第二王子が王になる方が幸せだろう。
「カレルヴォ王子を上手く排除できて良かったよ。王子は十年も前からマリーナにご執心だったからね。すでに婚約していなかったら、かっさらわれていたかもしれない」
養父の言葉に驚いた。
「十年? マリーナは誰と婚約していたのですか?」
他の公爵家や外国からの縁談は断っていたと聞いていた。
「もちろん君と。本人たちにも知らせず、公表していなかっただけだよ。裕福とはいえ、たかが侯爵家の娘が外国の王子の求婚を何の理由もなく断ることなんて出来ないよ。他の公爵家もマリーナを欲しがっていたけど、私が息子の嫁にすると言って王とラフマニン侯爵に話を付けておいたんだ」
「それは……何故、私だったのですか?」
今となっては感謝するべき話だが、何故私がマリーナの婚約者に選ばれたのかわからない。
「だって、初めてマリーナと話をした日のこと、覚えてるかい? 『海の乙女の化身と会った』って目を輝かせて言うからさ。それまではエミーリヤ、エミーリヤと毎日言っていたのに、ぴたりと止まった」
養父の言葉で思い返してみると、そうだったと気が付いた。確かにマリーナと話をするまでは、エミーリヤのことばかり考えていた。
「そ、それは……気のせいではないですか?」
ほんの少しとはいえ、声が上ずってしまったのは隠しようがなかった。養父がますます目を細めて笑みを深める。
「へえ? そういうことにしておこうか。これからマリーナを迎えにいくのなら、贈り物くらいは持っていくといいよ」
「準備は整えています」
私が隣国へ行っている間、マリーナが屋敷から出て行ったと聞いて驚愕し、エフィムとエミーリヤの家にいると知って安堵した。
「温室の白薔薇を頂けませんか?」
「いいよ。僕も一緒に温室へ行こうかな。薔薇の切り方とトゲの取り方を教えてあげるよ。メレフ」
久しぶりに名前を呼ばれると不快ではないが、どうにも居心地が悪い。まるで幼子に戻ったような心持ちになる。
男二人が温室で薔薇を切る光景は、他人には見られたくないものだと思う。
「愛する人の為に花を贈る。慣れると周囲の目は気にならなくなるよ」
そう言って笑う養父は、私と違って細身で女性的な顔立ちなので花を持っていても違和感がない。一方の私といえば……むさくるしいとしか思えない。
「何も飾らないで、そのまま紐で束ねて持っていくといいよ」
「何故ですか?」
「他人が切った薔薇ではなくて、自分が切ったと伝わるからね」
トゲをナイフで削いでいく養父の手つきは慣れたもので、数え切れない程の白薔薇を義母に贈ってきたのだとわかる。
慣れない作業に戸惑いながらも、白薔薇の花束が出来上がった。
「メレフ。君の父親は僕とエフィムだ。実父を忘れろとは言わないが、血の繋がりよりも皆で積み重ねてきた思い出を大事にして欲しい」
肩に置かれた養父の手は昔と変わらず優しい。知略の養父と武勇のエフィム、二人が私を育ててくれたと改めて心に刻めば、流れる血への嫌悪が和らいだ。
「それに血の繋がりっていえば、僕とメレフは繋がってるからね」
王子だった養父と王女だった実母は兄妹だった。昔々、引き取られた直後に養父は繰り返し言っていたと思い出す。
「さぁ、その薔薇を持って青海の乙女を捕まえておいで。捕まえられなかったら、帰ってこなくていいよ」
「必ず捕まえて帰ってきます」
意地の悪い笑みを浮かべた養父に、私は苦笑しながら答えた。
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