第16話 薔薇の意味

「どうぞ入って。荷物は子供たちに運ばせるわ」

 エミーリヤに肩を抱かれ、私とゾーヤは屋敷へと招かれた。


 一歩入った途端、温かな優しさに包まれるような雰囲気。柔らかな色の壁紙、飾られた花と花瓶、敷かれた布には美しい刺繍が施されていても、布と同色の糸なので過剰な主張はしない。


 屋敷は女主人を具現するというのは、本当だと思う。肩の力を抜いて安心できる温かい場所はきっとエミーリヤの人柄。


 玄関ホールの階段から二階に上がり、居心地の良い部屋に通された。落ち着いた色のソファがテーブルを囲み、クッションがいくつも置かれている。私とエミーリヤが三人掛けのソファに座り、壁際に控えると主張したゾーヤもソファに座るようにと促された。


「二人とも遠い所から、よく来てくださったわね。夕食はとった? 疲れているなら軽食にする?」

「あ、あの……」

 貴婦人としての挨拶ができていないことが気になる。どう始めればいいのかわからない。ゾーヤと顔を見合わせて迷っていると、私の両手を包むようにしながら、エミーリヤが笑う。

「この家の中にいる間は、貴族の決まりごとは無効なのよ」


 優しい笑顔に見守られて名前を名乗り、温かい花茶を頂くと気持ちも落ち着いてきた。

「あの……実は義父から海を見てくるようにと言われただけで、他は何も聞いていないのです」

「そうなの? フェイはいつも突拍子もないことを指示するけれど、必ず何かを考えているから何か意味があるのだと思うわ」

「フェイ?」

「ああ、うちでは公爵様をそう呼んでいるの。夫のエフィムの古くからの友人なのよ。メレフと奥様のダーリヤを何度かお招きしているわ」


「連絡は無かったのですか?」

「たぶんエフィムには連絡が届いていると思うのだけれど……今は三男と船に乗っているから、慌てているかしら」

「船? あの……騎士とお聞きして……」

 この国では騎士が船に乘ることがあるのだろうか。


「ああ、エフィムはね、カデットリ王国の騎士を辞めて私をここに連れて来てくれたの。今は貿易商人よ」

 騎士が商人になる。私には全く理解できなかった。王国の騎士という身分を捨てる程にエミーリヤは愛されているのかという衝撃と共に、何故かうらやましさを感じる。


 視線を感じて扉の方を見ると、隙間からいくつもの子供の目が覗き込んでいた。不作法と思うよりも滑稽さが際立つ。


「もう! お客様に失礼よ! お話ししたいのなら、ちゃんと挨拶をしなさい!」

 さっと立ち上がったエミーリヤが勢いよく扉を開けると、緑色の髪をした三人の少年が部屋に転がり込んできた。ゾーヤが堪えきれずに笑いをこぼす。


「あ、あの、えーっと」

 立ち上がった少年たちが、誰が最初に挨拶をするのかを相談して並ぶ。

「ヴィタリー・シーロフです」

 深緑色の髪、碧色の瞳の十二歳くらいの少年は背筋を伸ばして左胸に右手を置き、軽く頭を下げる。それは騎士が貴婦人へと行う挨拶の作法。見習い騎士を見ているようで微笑ましい。作法通りに笑顔と会釈で返すと可愛らしい少年の頬が赤く染まっていく。


 一方で横の二人の少年たちは、そわそわと落ち着かない。

「申し訳ありません。貴女が美人過ぎて、こいつら緊張してるんです。ほら、挨拶しろ」


「あ、あの……ルスラン・シーロフです」

「ロジオン・シーロフ……です」

 八歳くらいの双子だろうか。渋い緑色の髪に緑の瞳でよく似ている。可愛らしい少年たちだ。


「長男と次男は、ヴァランデールの王宮で騎士をしているの。三男は夫と海。この子たちは留守番」

「ご子息が、六人?」

 口にしてから失礼だと気が付いた。慌てて口を閉ざしても、もう遅い。

「やっぱり驚いてしまうわね。でも家族が多いと賑やかで楽しいものよ。全員男だから、貴女たちが来てくださって嬉しいわ」

 エミーリヤは、よく言われることだと笑うだけだ。子供が六人いるとは思えない若々しさに驚くしかない。


 私たちは勧められるままに軽食を頂いて、居心地の良い客室で眠りについた。



 朝、窓の掛け布の隙間からの光で目が覚めた。私とゾーヤには一部屋ずつが与えられ、ゆっくりと休むことができた。馬車での長旅は、思っていたより体に負担だったようで、かなり早い時間に就寝したのに一度も目覚めることがなかった。


 ブラウスにベストとスカートという軽装に着替えて、窓を開けると港町と青い海が広がっている。昨日、暗い中では見えなかった光景に息を飲む。


 屋敷は高台にあり、三階の客室からは海を見下ろすことになる。どこまでも続く海が太陽に煌めき、空と海の境界線が視界を分ける。……これが海なのか。海の青は一色ではなく、何色で表現したらいいのかわからない。


 長い間海を見ていると、控えめに扉が叩かれてゾーヤが入って来た。ゾーヤも同じ軽装だ。

「マリーナ様、おはようございます」

「おはよう。見て、あれが海よ」

 初めて見る海を前にして、私たちは何も言葉が出てこない。


「あの遠くの海は、マリーナ様の髪の色のようですね」

「そうかしら?」

「はい。とても美しい色です」

「ありがとう」

 海と同じ色。少女の頃、メレフに助けられた日を思い出す。私の髪が深い海のような色だと言われて、私は自分に自信を持つことができた。


 メレフは今、どうしているだろう。会いたいと思いながらも、もう会ってはいけないのではないかという気持ちが強い。


 窓の下、カゴを抱えたエミーリヤが歩いているのが見えた。

「エミーリヤ! おはようございます! ……あの……私に何かできることはありませんか?」

「おはよう! それなら、料理を手伝ってもらえるかしら?」

「は、はい!」

 咄嗟に返事をしたものの、私もゾーヤも料理をしたことはない。待たせてはいけないと階段を降りて、エミーリヤに合流する。


 初めて入った厨房の壁には青い紋様が描かれた白いタイルが貼られていて、床は白い石が敷き詰められている。何かが煮られている鍋、大きな鉄板。中央の机には、大きな木の板と丸い器。カゴに入った沢山の卵や野菜が積まれている。


「厨房は初めて見る?」

「はい」

 屋敷では献立を考えることはあっても、貴婦人が料理をすることはない。ゾーヤも初めてだと緊張気味だ。


「じゃあ、卵を割るのも初めてかしら?」

 手渡された卵の不思議な感触に驚きしかない。硬くもあり、脆さも感じる。


 エミーリヤはテーブルに卵を軽く打ち付けて、出来たヒビを指先で割り開く。三度手本を見せてもらって、私とゾーヤが卵に手に取った。


 ゆで卵を食べることはあっても殻は剥かれているし、殻付きの生卵を割る機会はない。卵表面にできたヒビに指先を入れるとぐしゃりと割れて、どろりとした黄色と透明な何かが器に落ちる。


「あ……」

 二つに割れた殻は手に残っても、小さな欠片が入ってしまった。見ていたエミーリヤが、さっとつまんで取り出す。

「この国の卵は、生でも食べられるように洗浄されて売られているの。殻が入ってしまっても、すぐに取り除けば大丈夫なのよ」


 殻が入ってしまっても取り除けばいい。そう聞いて少し安心した。それでも恐々としながらゾーヤと二人で一つずつ割っていく。


「む、難しいですね」

 人一倍器用だと思っていたゾーヤも、私の手つきと大差ない。上手く割れると二人で顔を見合わせて笑ってしまう。


「最初から完璧に出来なくていいのよ」

 エミーリヤが大量の野菜を刻む間に、二十五個の卵をすべて割ることができた。

「これは朝食のオムレツ用ね」

 かなりの量だと思っても育ち盛りの少年が三人いる。メレフが食べる量を考えると多くはないのかもしれない。


「次はパンを切ってもらえるかしら? 切ったことはある?」

「ありません」

 パン切り用のナイフも初めて見る。丸く大きなパンがさっと切られていくのを見てから、ナイフを受けとる。


 パンをまっすぐに切るのは難しいと知った。最初は良くても、最後が薄くなったり厚くなったり曲がってしまう。ゾーヤも同じ。私たちがパンを切っている間に、エミーリヤは具沢山のスープを作り、オムレツと肉の腸詰めを焼いている。


「あ、あの、申し訳ありません」

「いいのよ。慣れれば切れるようになるわ」

 不格好だと気にする私とゾーヤを見て、エミーリヤはパンをさらに切り分ける提案をしてくれた。

「こうして小さく切って、カゴに盛ってしまえば目立たないわ」

 エミーリヤの言う通りに切って盛ると、私たちの失敗は不思議と消え去った。

 

 窓の外からは、賑やかな少年たちの歓声が聞こえる。庭の草木に水をやっているらしい。明るい光と風が心地いい。朝の空気の清々しさに頬が緩む。



 賑やかな朝食の後、エミーリヤに出掛けようと誘われた。

「海を見にいきましょうか」

「あの……窓から見えますが……」

「そうね。でも、近くで見ると、また違った海が見えるのよ」

 そう言われると体が動いた。従僕や護衛も一切付かない外出は、初めてで緊張する。


 港町の市場は、騒がしくて活気に溢れていた。カゴに盛られた色とりどりの果物や野菜、見たこともない魚、異国の細工物、何に使うのかわからない物が店頭に溢れている。


「エミーリヤ! おはよう! 今日はこれまた別嬪さんぞろいだね!」

「おはよう! うちの娘たちよ!」

「そりゃ、良かったな! むさくるしい男ばかりだったからな!」


 港町の人々は声が大きくて朗らかだ。初めての私とゾーヤに対しても明るくて親切に声を掛けてくれる。エミーリヤは、それぞれに私たちを娘だと紹介する。


「あの……どうして、私たちを娘と仰るのですか?」

「それはね。うちの娘だってわかったら、この港町の人間は誰も手を出さないからよ」

 意味が良くわからない。ゾーヤと顔を見合せた時、近くにいた人々が笑い出す。


「エフィムの嫁と娘に手を出したら後が恐ろしいって、皆知ってるからさ!」

 どうやらエフィムは、とても強くて怖い人らしい。



 市場を抜けて桟橋から見る海は、また違う色。大きな港には船が一隻繋がれていて、忙しく行き交う人々が荷を下ろし、一方では荷を積んでいく。


 ここでは、私が貴族であることを誰も知らない。窮屈な胴衣コルセットを締めて、ドレスを着る必要もない。海を見ていると肩の力が抜けていくような気がする。……これが自由という感覚なのかもしれない。


 義父は何故、私をここに来させたのか。海を見せて、どうするつもりなのか。全くわからないまま、私はずっと海を見つめていた。



 私たちが訪れてから十日が経っていた。卵を割ることにも慣れ、様々な料理や菓子を作る手伝いをして過ごしている。


「あ! 帰って来たわ!」

 クッキーを焼いていたエミーリヤが突然、手を止めた。

「あの……どなたが?」

「夫のエフィムと息子よ。門の開く音がしたの」

 窯の火を弱め、厨房から早足で玄関へと向かう。私たちも屋敷の主人を出迎えようと一緒に向かった。


「お帰りなさい! エフィム!」

 玄関の扉を出たエミーリヤが少女のように駆けだしていく。その先には、若々しく凛々しい中年男性。

「え?」

 深緑色の髪に緑の瞳。まとう色彩は異なっていても、体型や雰囲気がメレフに良く似ている。歳の離れた兄と言われても不思議はない。


「ただいま帰りました。エミーリヤ」

 エミーリヤを抱きしめるエフィムの手には、白薔薇の花束。


 口づけを始めてしまった二人から慌てて視線を外すと、渋い緑色の髪に碧の瞳、日に焼けた少年が苦笑しながら近づいてきた。十五歳くらいだろうか。

「初めまして。ファッジェイ・シーロフです。ジェイとお呼び下さい。……申し訳ありません。あれはうちの恒例行事なもので」

 船の上で私が来ることを知って、慌てて帰って来たとジェイは言う。


「船を早めることができるのですか?」

「僕たちが乗るのは〝海賊商人〟の船なので、多少の無理は効きます」

「〝海賊商人〟は実在するのですか?」

「はい」

 メレフが海賊商人の物語を背表紙がすり切れるまで読んでいた理由がわかったような気がした。実在すると知っていたからだ。


「あー、えーっと。お恥ずかしい話ですが、帰って来た直後の両親はしばらくあんな感じなので、家に入りましょう」

 言われてちらりと目をやると二人はまだ抱き合い、口づけていた。気恥ずかしさを感じながらも、うらやましいとも思う。


「ジェイ兄さん、お帰り! お土産は?」

「こら。帰ってくるなり、それか?」

 慌ただしく階段を駆け降りてきたルスランとロジオンが、ジェイを囲む。担いでいた布袋から取り出した箱を二人に渡すと、飛び上がって喜ぶ。

 

「お二人には、この菓子を」

「ありがとうございます」

 箱を受け取り、一緒に居間へと歩いていく。何の話題も見つけられないので、印象的だった薔薇の話を切り出した。

 

「お母様は白い薔薇がお好きなのですか?」

「えーっと。母が好きな花の一つでもありますが……ヴァランデールでは男が女性に贈る白薔薇に意味があります」

「意味?」

「あー、えーっと。口にするのは恥ずかしいな…………白薔薇は『永遠の愛を貴女に誓う』という告白の花でもあります。事あるごとに、下手すると毎日父は母に白薔薇を贈っています」

 毎日愛の告白を見ているようなものだと、ジェイが苦笑する。


「素敵なお話ですね」

 うらやましくて、きゅっと胸が痛む。そしてメレフが可哀想だとも思う。想い人には愛し合う夫がいる。どんな気持ちでこの光景を見ていたのか。


 深く感じる寂しさを隠して、私は微笑むことしかできなかった。

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