第15話 憧憬の顕現
必ず帰ってくると何度も念押ししてメレフは辺境へと旅立った。屋敷に独り取り残された私は、後悔だけを繰り返す。
「マリーナ様、過ぎ去ったことはやり直すことはできません。それよりも、これからのことを考えましょう」
ゾーヤが毎日励ましてくれても、私の後悔は止まらない。
愚かな計画だとしても、メレフと結婚できればいいと思っていた。それは本当に独り善がりの計画で、メレフの心を深く傷つけていたことに今更気が付いた。
私は最初から間違っていた。認めたくはなくても、認めなければならない。
「……離縁した方がいいのかしら」
「マリーナ様!? 何をおっしゃっているのですか!?」
私がメレフの隣にいる限り、メレフは何度も大事な人が溺れたことを思い出してしまうだろう。それはとても苦々しいことなのではないだろうか。
「旦那様がマリーナ様をどれだけ心配され、どれだけ優しく介抱されていたか、ご理解していらっしゃらないのですか? 私は見ていてわかりました。旦那様もマリーナ様を大切に思っていらっしゃいます。どうして今更、離れるなどと仰るのです? それは誰も幸せになれない、酷いわがままです!」
「……ゾーヤ……」
今まで見たこともない剣幕でゾーヤが怒りの感情を見せた。
「……ごめんなさい、ゾーヤ。……でも……」
「マリーナ様、お出かけになっている旦那様がいつ帰られても良いように準備をしましょう。体を動かしていれば、そのようなわがままも忘れることができます」
ゾーヤに言われて、私はベッドから出ることにした。毎日女主人としての仕事をこなし、メレフの帰りを待つ。忙しく過ごしていれば、日中は確かに忘れることはできた。
夜になって独りになると心に闇が戻ってくる。眠りにつくと、湖に落ちた私に背を向けて去っていくメレフの夢を見て飛び起きる。
メレフの為に何かをすることができても、自分の為には何もできなくなっていた。食事をとることも面倒になって少しずつ痩せて行く。ゾーヤや家令たちが心配して医術師を呼んでも私は大丈夫だからと診察を断り続けていた。
しばらくしてイネッサが屋敷に訪れた。前触れのない訪問は貴族間では珍しいことだ。会うなり、私が痩せてしまったことをイネッサは心配してくれた。
「今日の訪問はプラヴィノフ公爵様にお許しを頂きましたの。マリーナ、大変な目に会いましたわね。気が付かなくて申し訳なかったわ」
「どうしてイネッサが謝るの? 何もかも、私がいけなかったのよ。顔を知っているからと言って、安易に伝言を信じてしまった私が悪いの」
イネッサとお茶を飲んでいると、何故か安心する。おっとりとした変わらない微笑みが、私の心を穏やかにしてくれる。
「最近、お茶会にも参加していないから、何が話題なのかも知らないの。何か変わった話題はあるかしら?」
「マリーナに関係している話題がありますのよ」
イネッサが楽し気に微笑む。
「舞踏会での素敵な口づけも話題なのですけれど、孤高の騎士がマリーナを抱きかかえて運ぶ姿を見た者たちが、まるで物語のようだったと騒いでいて…‥すでに吟遊詩人の題材にもなっていますのよ」
私が誘拐未遂にあったことは、一部の者にしか知られていないと聞いている。不要な騒ぎが回避できたのはイネッサのおかげだとメレフに教えてもらっていたので、私はイネッサに感謝を伝えた。
「マリーナが身籠っているのではないかっていう噂も出ておりますの。どうですの?」
まさか一度も致していないとは口にはできない。
「……まだだと思うわ。……イネッサ……私、離縁しようと思うの」
「マリーナ。冗談でもそれは口にしてはいけない言葉です。何が理由なのか、教えて頂ける?」
困惑の表情を浮かべたイネッサに、私は結婚してからのことをすべて打ち明けた。
「マリーナ。よくお考えになって。十年思い続けて、ようやく手に入れた幸せなのでしょう?」
「でも……これから先は何十年もあるの……」
「……貴女は昔から、すぐにこれしかないと思い込む悪い癖がありましてよ。辛い記憶は、愛があれば乗り越えることができますのよ。私のように」
イネッサは結婚する前の恋人に、言葉にすることもできない酷い仕打ちを受けていた。その絶望から救い、結婚して護ってくれたのが年上のコルスン侯爵。
「ごめんなさい。知らなかったわ……」
「夫以外、誰も知りませんもの。恋人は、私たちの結婚の日に当てつけるようにして自死。……今でも思い出して涙を流すこともありますし、夜中に飛び起きることもある。そんな時にも夫が寄り添って愛してくれるから、私はこうして幸せを感じていられますの」
結婚式で微笑んでいたイネッサが、裏で苦しんでいたことに全く気が付かなかったことに、私は衝撃を受けた。
「ごめんなさい……」
「こうして、誰にも言えなかったことを口にするのは、相手を信頼しているということですのよ? マリーナ、孤高の騎士が貴女に何故辛い記憶を打ち明けたのか、よくお考えになって」
イネッサとゾーヤに励まされても、私の後悔は深まっていった。愛があれば乗り越えられると言っても、苦い記憶を呼び起こすきっかけになるのが私の存在だ。私が思い起こさせて、私が慰める。それはメレフにとって、辛いだけではないだろうか。
一月悩み抜き、離縁してメレフから離れる決意をした私はメレフの養い親であるプラヴィノフ公爵に面会を求めた。
結婚前には何度も訪れた公爵の執務室で、公爵一人が待っていた。少し長めの金髪に青い瞳。メレフと色彩は似ていても、その顔立ちも体格も全く異なる。細身で若々しく、繊細な美貌をお持ちの方だ。
「離縁したい? それは君の本当の願いなのかな?」
「…………はい。申し訳ございません、お
本当はメレフと一生添い遂げたい。孤独になろうとするメレフに寄り添いたい。自らの願いは喉の奥に留め、貴婦人の礼を取りながら頭を下げる。
「私が間違っていたのです。愚かなことを致しました」
時間を戻すことができたなら。そう願ってみても、時間は戻せない。私がそばにいてもメレフを苦しめるだけだ。
「……君は海を見たことはある?」
「ありません」
唐突な質問に顔を上げると、義父の優しい笑顔が目に入った。貴族であっても、海が見える遠い外国への旅行は大変なものだし、命の危険もある。決して気軽に行えるものではない。
「一度、広い海を見てくるといい。それでも君の考えが変わらないのなら、離縁を認めてあげるよ」
メレフに似た青い瞳を細めた義父は、そう言って私を旅行へと送り出した。
数日後、馬車は街道を走り続けていた。公爵家の頑丈な馬車は乗り心地も良く、長時間乗っていても疲れは少ない。義父が用意してくれた十数名の従者たちは、見た目が荒々しくても規律正しい者ばかり。騎士とは違う覇気をまとい馬を駆る。きっと野盗も逃げ出す迫力だ。
「不思議な方たちですね」
一緒に馬車に乗っているゾーヤも首をかしげる。公爵家の屋敷で見たことがある者が数名。他は見たことが無い。
名前を聞いても本名は教えられないと言って、仮名を呼ぶように求められた。この旅行の後、もしもどこかで出会ったとしても、けっして名前を呼ばないで欲しいと念を押される。
この一団はプラヴィノフ公爵家の間諜なのではないかと、旅の途中で気が付いた。王族が間諜を使っているのは周知の事実だ。王家に連なる血を持つ公爵家に間諜がいても不思議はない。
頻繁に休憩を取って宿屋に泊まり、医術の心得がある者が私の体調を管理する。食事の量を決められ、食べ終わるまでは出発できないので半ば無理矢理口にした。そのおかげなのか、体調を崩すこともなく十八日を掛けて目的地へと着いた。
「到着しました。こちらの家が目的地です」
促されて馬車から降りると、淡いベージュ色の石壁で囲まれた小さな屋敷の門前だった。日が落ちた直後で辺りは暗く、門に掲げられた魔法灯しか光は無い。
「私たちの案内はここまでです。未来の公爵夫人様、またお目に掛かれますことを我々一同願っております」
深く礼をして別れを告げた従者たちは、私たちの荷物を置いて去ってしまった。
「……ゾーヤ、帰りのことを聞いている?」
「いいえ」
義父は何を考えているのかさっぱりわからない。この屋敷を尋ねていいものなのか、ゾーヤと二人で迷っていると、人の話し声が門の中から聞こえた。
「どちら様かしら?」
可愛らしい装飾が施された飾り門を開けて出てきたのは、クリーム色の服を着た美しい中年女性。若々しい雰囲気で年齢はよくわからない。
初めて会ったというのに、私は理解してしまった。彼女がエミーリヤだ。
メレフが好きな渋い緑色は、彼女の髪の色。そしてメレフが好きな
涙が溢れて止まらない。エミーリヤはメレフの心の中にいる人だ。幼少の頃の教育係への憧憬以上の愛情を感じる。『想い人がいる』それは嘘ではなかった。
「マリーナ様……」
ゾーヤも気が付いたのだろう。
「マリーナ様? もしかして、メレフのお嫁さんかしら?」
エミーリヤの声は優しい。私が敵う訳がない。
「初めまして。エミーリヤ・シーロフです。涙の理由を聞いてもいいかしら?」
エミーリヤが服の隠しから取り出したハンカチには鳥の刺繍が施されていて、さらに涙を誘う。
「……ごめんなさい」
謝罪の言葉しか口にできない私を、エミーリヤは温かく抱きしめた。
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