第14話 自責と悔恨

ふわふわとした夢を見ていた。メレフに何度も名前を呼ばれて、何度も口づけされる夢。髪や体を優しく撫でられて抱きしめられる。とても温かい夢。


「マリーナ、喉は乾いていませんか?」

「ん……」

 まぶたが重くて目が開けない。口を開くと温かい何かに覆われて、口の中が甘い液体で潤う。少しずつ流し込まれる液体をゆっくりと飲み込む。


「マリーナ、シーツを替えてもらいましょう。体を動かしますよ」

 メレフの声は優しい。だるくて重い体がふわりと浮いて、また戻される。


「旦那様! どうかお眠り下さい! もう三日も眠っていらっしゃらないのですよ!」

 ゾーヤの声だ。メレフが三日も眠っていない? それは駄目だ。眠って頂かなければ。

「……レ……フ……眠っ……」

 喉が閉じたようで声がでない。指すら思うようには動かない。


「旦那様! マリーナ様も眠るようにおっしゃっています!」

「わかった。皆は下がってくれ。……マリーナ、湯浴みをしてきますので、少し待っていて下さい」

 頬をメレフの大きな手が撫でていき、少ししてメレフの温かさが戻ってきた。寄せられた頬が温かくて、口元が緩む。

「マリーナ。ゆっくり眠って下さい」

 メレフの声が優しくて、私はまた眠りに落ちた。



「あら?」

 すっきりと目が覚めると、メレフが白い夜着を着た私を抱きしめながら眠っていた。夢の続きかと考えてみても、この温かさは現実としか思えない。


 目を閉じて力が抜けた表情はどこか可愛らしく思えて仕方ない。その唇にそっと口づけると、恥ずかしさと嬉しさが心に満ちて頬が熱くなっていく。


 少年の頃は普通だったのに今では騎士の立派な体格だ。指で腕の筋肉をそっと辿る。女性とは全く違う硬い感触が興味深い。押してみたり撫でてみたりと、これまでは出来なかったことを楽しむ。


「うふふ」

 嬉しくて変な笑い声が漏れてしまった。貴婦人としてあるまじき失態だと思いながらも、浮き立つ心は隠せない。


 もう一度口づけようとすると、青い瞳が開いた。

「……おはようございます、マリーナ」

「お、おはようございます、メレフ」

 もう少しだったのに。残念に思った瞬間、メレフの唇が私の唇に重なった。


「!?」

 メレフに口づけられている。そう理解するのに少し時間がかかった。青い瞳が近すぎる。私を抱きしめていた腕は力強さを増し、片手が私の髪を撫でる。


 鼓動が早鐘を打ち、頭がのぼせていく。初めての長い長い口づけに息をすることもできない。


「……マリーナ? 大丈夫ですか?」

 唇が解かれて、息を大きく吸い込む。新鮮な空気が肺に満ち、のぼせた頭と体を冷やしていく。

「大丈夫です」

 息ができなくて苦しくても口づけは嬉しい。もっとして欲しいと口にするのは恥ずかしくて頬が緩む。


「四日間眠り続けていました。体に異常はありませんか?」

「四日?」

 そう言われて徐々に舞踏会の夜の記憶がよみがえってきた。眠り薬を口に含んだ時の恐怖が体を硬くさせる。


「私……一体……何があったのですか?」

 意識を失ってからのはっきりとした記憶はない。震え始めた体をメレフの腕がしっかりと抱きしめる。


「救護院の少女たちにさらわれる寸前で助けることができました」

「さらう? 何故ですか?」

「理由はまだ判明していません。彼女たちに命令した者を調べています」

 救護院に在籍していた少女たちは保護されて、院長とエルショフ伯爵夫妻が捕縛されているという。


「何か判れば教えます。それまでは忘れていて下さい」

 抱き寄せられて額に口づけられると、不安が吹き飛んだ。眠っている間に夢だと思っていたことは現実だったのかもしれないと気づくと、熱くなっていく頬が緩む。メレフの変化に戸惑う気持ちもあるものの、嬉しくて仕方ない。


「あの……朝の鍛錬は?」

「今日は休みにします。……マリーナ、貴女が眠り続けていたのは薬ではなく、これまでに溜め込んでいた疲労のせいです」

「疲労?」

 そう言われても全く身に覚えがない。髪を撫でるメレフの手が優しい。


「ええ。医術師に注意されて、やっと気が付きました。思えば結婚式の準備から始まって、貴女にすべてを任せ過ぎていた。私が悪かったのです」

「大丈夫です。嬉しくて、疲労なんて感じませんでした」


「それが危険だそうです。気分が高揚している時には自分が疲労していることさえ気が付かない。疲労を溜め込んで倒れてから判明することが多いと聞きました」

 手遅れになる前で良かったとメレフは安堵の息を吐いた。



 私が目覚めてから、メレフは心配性になってしまった。体の調子が整うまではベッドで過ごすようにと厳命されて、食事や着替えの移動はすべてメレフが抱き上げて運ぶ。夜は浴室を交代で使い、一緒のベッドで眠る。


 何かと口づけをされて抱きしめられて、夢見ていた以上の甘い生活にふわふわとした喜びが止まらない。目を逸らされることもなく、まっすぐに見つめ合うこともできる。


「呼び出しを受けたので王城へ行って来ます。ベッドの上で大人しくしていてください」 

 八日目からは、メレフの護衛騎士としての勤務も再開し、普段の生活が戻ってきた。女主人としての指示はベッドで行い、使用人たちから報告を受ける。皆が私の体調を心配し、これまで以上に協力してくれることに感謝しかない。


 無理をし過ぎていたと言われても、全く実感はなかった。メレフが喜んでくれるようにと頑張っていただけだ。それが駄目だと言われても、メレフにしてあげたいことはまだまだある。


 夕方に帰って来たメレフは夕食の後、私を膝の上に乗せて今日一日何をしていたのかと私に問う。私は一日の報告を行い、メレフの王城での一日の話を聞く。


「誘拐の理由はわかりましたか?」

「まだ調べが終わっていません。本人たちの証言だけでは弱いので、裏付ける証拠を探している所だそうです」

 メレフは王子の護衛騎士の職務についているから、取り調べは同僚のドナートや他の騎士が行っている。理由が判明するまでは、屋敷の外に出てはいけないとメレフが言う。


「出かけたいのなら、私の次の休暇まで待ってください」

 小さな買い物でも外に出れないのは不便でも、メレフが心配してくれていると理解できるから我慢できた。


 毎日が緩やかに過ぎる中、ベッドの上でできることは多くはない。久しぶりに刺繍道具を広げ、メレフのハンカチを見本にして刺繍をしているとメレフが帰って来た。 


「……これは……まだ持っていてくれたのですか」

 懐かしいと色褪せたハンカチを手に取ったメレフが目を細める。


「ええ。こちらをお手本にして何度も練習しているのですが、色が難しくて」

 海が見える窓と剣の図案。本物の海を見たことの無い私が褪せた糸の元々の色を想像しながら刺しても、なかなか納得できる物にはならない。


「これはどなたが刺されたのですか? きっと刺繍の名手ですね」

 少年の冒険心を象徴したような素敵な図案だと思う。

「……エミーリヤという方です」

 心がちくりと痛んだ。それは、私が湖に飛び込む真似をした際にメレフが叫んだ名前だ。


「……エミーリヤ様というのは、どういった方なのですか?」

 このまま疑問を心に持つことは耐えられそうにない。今なら答えてくれるかもしれないと期待を込めて、努めて笑顔で問いかける。


「幼少の頃の教育係であり、私を護ってくれた恩人です」

 教育係と聞いて、内心安堵してしまう。幼い頃の憧れの人ということか。

「今はどちらにいらっしゃるのですか?」

 きっと素敵な方だから一度会ってみたいと思う。私の問いにメレフが一瞬目を伏せて、緊張した面持ちで深く息を吸う。


「今は外国で暮らしています。……彼女は、私の実父ダヴィットによって凍った泉に沈められて殺され掛けました。私は当時五歳で……溺れた彼女が冷たい水の中から助け上げられる所を見ていることしかできなかった……」 

「……ごめんなさい……知りませんでした……」

 全身から血の気が引いて行く。私は、知らなかったでは済まされないことをしてしまった。


「それは仕方ありません。この件を知っている人間はほぼいません。……このことは初めて話をしました」

 私を抱きしめたメレフが苦笑しながら、私の髪を撫でる。

「でも……。私、酷いことを」

 大事な人が溺れたメレフの前で、私は何と愚かなことをしてしまったのだろうか。


「エミーリヤはその時助けた騎士と結婚して、今は外国で幸せに暮らしています。ですから気にしないで下さい。……マリーナが湖に飛び込もうとした時、私は心臓が潰れるかと思いました。もう二度と馬鹿なことはしないと誓ってくれますか?」

 頷く私の目から零れる涙を、メレフの唇が拭い去る。そのまま口づけられると、涙の味がした。


「泣き止んで頂かないと困ります。明日から、辺境での軍事訓練に向かうことになりました。このままでは心配で行けなくなります」

「軍事訓練……ですか? 明日から?」

 あまりにも急すぎる話に、涙が止まった。何か用意するものはないだろうか。


「準備は終えています。辺境で二カ月間訓練を行う予定ですが、三カ月になるかもしれない。手紙を書くことは出来そうにありませんが、早く終わって帰れるように努力します」

「……はい」

 そうだった。騎士は軍事訓練もあるし、王子の視察旅行に付随することもある。職務に口を挟まないことが騎士の妻には重要だと教わったことがある。


「今はマリーナの健康が一番大事です。必ず帰ってきますから、大人しく待っていて下さい」

 メレフは優しく囁いて、私を強く抱きしめた。

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