第10話 貴族の義務

 王城から帰る馬車の中、横に座るメレフはずっと厳しい顔をしたまま、震える私の肩を抱いていた。


「寒いのですか?」

「……いえ……気分が悪くて……」

 ただひたすらに気持ちが悪い。寝室に誘うカレルヴォ王子の声が耳に残っている。


「今後、カレルヴォ王子の参加する行事には病気で不参加にしましょう」

「でも……王の命令があれば、参加しなければ……」

 メレフの提案は嬉しい。


「流行り病と言えばいい。あのような下品な物言いは許せません」

「聞こえていたのですか?」

 私の席からメレフがいた場所までは、かなり遠かった。カレルヴォ王子の囁きが聞こえる距離ではない。


「……読唇術です。護衛騎士は皆、習得しています」

 視界に入る範囲で、誰が何を話しているのか把握する必要があるとメレフは言う。


 あの破廉恥な言葉を知られていたことに、私は恥じ入る。メレフの同僚にも知られてしまったということか。

「上手くかわせなくて、ごめんなさい」

「謝る必要はありません。隣の席でどうやってかわせるというのです?」


 前を向くメレフの表情は厳しいままだ。黙ってしまったので何に対して怒りを向けているのかわからない。

 私はメレフの胸に寄りかかって目を閉じた。



 久しぶりの休日は結婚後七十日目にやってきた。メレフは三日間の休みを取ったという。これまでは半日の休みばかりだった。


 初日は救護院に行くと事前に言われていたので、準備は整えてある。華美にならないように簡素な意匠で、貴族であることを示す上質な素材の街着はメレフの好きな渋い緑色だ。メレフのベストと同じ布で注文した。


 新しく注文する下着や服は、胸を潰さない意匠を頼むようになった。メレフが喜んでくれているのかは全くわからなくても、息がしやすくて心地いい。


 馬車で到着した救護院は、それほど困窮している雰囲気は無かった。メレフが個人的にエルショフ伯爵から支援を引き継いだと事前説明を受けている。


 母と共に、いくつかの救護院へと訪れたことがある。事前に通告して向かうと一番良い服を着て待っていることが多い。通告なしに訪れた際に見た服の粗末さは、気の毒で仕方なかった。


 憐れみの心を持っても限度というものがある。際限の無い寄付は、逆に孤児や寡婦の自立の妨げになってしまう。


 自分の財政状況を把握し、無理のない金額の中で適切な寄付をすることを母に教えられた。支援する相手の細かなことまで観察すること。それが判断するための材料になる。


 しっかりとした造りの建物は、もともと下級貴族の屋敷だったらしい。貴族が手放した建物をエルショフ伯爵が購入して救護院を始めたと、明るく優しい笑顔の女性の院長が歩きながら説明する。


 広間で私たちを迎えたのは十代前半から後半の美しい少女が十二名。私は内心驚いていた。通常は小さな子供が多いものだ。院長は、少女たちが安易な職業――酒場女や娼婦にならないように職業斡旋をしていると説明する。


 服は袖や裾がすり切れていても洗濯されていて清潔だ。全員がしっかりとした編上げ靴を履いており、美しい礼をする。


 三人で一部屋を使用して、広間では刺繍や縫物、編み物をして完成した物を店に卸している。部屋の一つに案内され、作業をする姿を見学した。


 メレフはすでに金銭の支援を行っていたらしい。院長の口からは賛美と感謝の言葉しか出てこない。大袈裟すぎる感謝の言葉の連続で居心地が悪くなったのか、メレフは早々に切り上げて馬車に乗り込んだ。



 馬車はゆっくりと町を進んでいる。昼食は人気の料理店で食べる予定だ。メレフが同年代の貴族から聞いたと予約を入れている。


「今まで見た救護院とは全く異なる場所でしたね」

 私は正直に感想を口にした。メレフは冷たい顔をしていても、私の話をちゃんと聞いてくれるのはわかっている。


「……どうしてそう思われるのですか?」

「救護院といえば小さな子供たちと寡婦が多いものです。少女ばかりというのは初めて聞きました。貴族に対する挨拶も全員があれほど美しく揃うことはありません」

 まるで訓練されたような美しさだったと言うと、メレフの表情が一瞬強張った。


「私はいつも金銭を寄付するだけだったので、気が付きませんでした。他に違うと気が付いたことはありますか?」

「そうですね……身に付けている靴が違いました。救護院では服も靴も個人に貸し出すという仕組みを取っています。特に子供はすぐに大きくなるので、寸法が合わなくなったら他の物と交換する為です。彼女たちの服はそれなりに着古されていましたが、靴は脚に馴染んでいました。しっかりとした踵は、まるで馬に乗る為の靴のようでした」


「馬?」

「ええ。基本的に女性の靴には踵がありません。最近は背を高く見せる為に踵を付ける靴もありますが、平民に普及はしていません」

 踵のある靴を履くと平民のように足首を晒したくなるらしく、貴族女性の間では、はしたない靴だと言われている。


「……ですが、馬も家畜もいませんでした」

「それも不思議なことです。救護院では困窮した際にも栄養が取れるように、牛か羊、鶏を飼うのが普通です」

 町中のとても小さな救護院にも鶏はいた。家畜を飼っていない救護院は初めてだ。


「外国語を学習しているのも驚きました」

「外国語?」

「ええ。本棚にヴァランデールやトランの本がありました」

 メレフがヴァランデールの本を読んでいるので、タイトルだけは判別できるようになっている。隣国トランの言葉は、貴族の基本として習得している言語だ。


「それから……全員が左利きのようでした。偶然とはいえ本当に不思議です」

「どうしてわかりましたか?」

「針やハサミを持つ手が左手だったのです。それに何を手にするにしても、最初に左手で触れていました」

 メレフの質問に答えながら私は喜んでいた。いつも私の話を聞くばかりで、こうして質問される機会はあまりない。


 細部まで観察することを教えてくれた母に感謝しながら、私はメレフの質問に答え続けた。



「……ですから、何をしているのですか?」

 夜になり、私は隠し部屋に先に入ってベッドに潜り込んでいた。私の身長でちょうど良いベッドなのだと思う。メレフには狭すぎる。


「何度も申し上げておりますように、私がこちらで就寝した方が良いと思うのです」

 掛け布から顔を出して訴える。背の高いメレフは、広いベッドで寝る方がよく眠れるだろう。


「……わかりました。私もあちらで眠りますので、マリーナも」

 メレフの提案が嬉しくて、喜んでベッドから出ようとして転んだ。


「落ち着いて下さい」

 もちろんメレフがしっかりと抱き止めてくれている。隠し部屋の床は石だ。そのまま落ちていたなら怪我をしていただろう。


「これでは芋虫のようですよ」

 そう言われて私は自分の姿を見た。数枚の掛け布をしっかりと体に巻き付けていたので、確かにそう見えるかもしれない。


「あら、本当ですね」

 自分で解こうとしても解けない。

「……どうやって巻き付けたんですか……」

「えーっと……ベッドで何度も転がって……」

 私の説明にメレフが苦笑しながら、掛け布を解く。私はどうやら三枚の掛け布を巻きつけていたようだ。


「ありがとうございます! ベッドに行きましょう!」

「…………意味がわかって言っていますか?」

「意味ですか? そのままです」

 私が微笑むとメレフが深い溜息を吐いてしまった。意味と言われても、これから一緒に寝るというだけだ。


 メレフが軽々と私を抱き上げ、隠し部屋を出た。またベッドに放り込まれないように、しっかりとメレフの夜着を握りしめる。


「降ろしますよ」

 今夜はベッドにそっと降ろされた。掛け布が掛けられ、メレフが横に入ってくる。初めて一緒に眠れることが嬉しくて仕方ない。


「初めてですね!」

「…………そうですね」

 メレフが枕元の魔法灯ランプを消して部屋が暗くなった。侯爵家では魔法灯を点けたまま眠っていた。こちらでは消すものなのか。初めて知った。


 そっと目を大きな手で覆われると闇が濃くなる。

「眠って下さい。明日も出掛けますから」

 囁く声と温かい手の温度が心地いい。


 そうして私は子供のように寝かしつけられてしまい、翌朝目覚めたベッドからメレフの姿は消えていた。

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