第9話 晩餐会の席
メレフに薦められて注文した服が二日で仕上がってきた。胸を押さえ付けないコルセットは空気まで美味しく感じるから不思議なものだ。
生成色のブラウスに灰水色のスカートという簡素な
「はい。どうぞ」
今朝も鉄棒から降りてきたメレフにタオルを手渡せることが嬉しい。いつも戸惑うように視線を逸らされてしまっても、ちゃんと受け取ってくれるだけでも感謝したい。
大木の最初の枝に上ったメレフを見上げていると、手が差し出された。
「手を。それから口を閉じてください」
何をするのだろう。疑問を持ちつつも指示されるままに口を閉じて、手を乗せる。
「持ち上げますよ!」
メレフの掛け声と同時に、体がふわりと浮いた。
「!?」
一瞬で私は木の枝の上にいた。自分の背の高さよりも高い場所だ。
急に高くなった視線が怖い。メレフを見上げると微笑んでいる。
「あ……」
メレフの笑顔を見て心が落ち着いた。微笑み返すと目を逸らされてしまったのが残念だ。
腰はしっかりとメレフの手が掴んでいるから落ちる心配はない。視線を外に向ければ、いつもとは違う光景が広がっている。
「素敵な光景ですね。花や木が日差しを浴びて、手を広げて喜んでいるようです」
窓から見る切り取られた視界よりも、美しい庭が広がっている。朝日を浴びた花や木が、生き生きと輝く。
メレフが毎朝木に登る理由がわかったような気がする。
しばらく眺めて、二人で一緒に木から降りた。
「いつもの高さまで上らなくてもいいのですか?」
「ええ。今日はここまでです。……明日はもう少し登りましょう」
「はい!」
視線を逸らしたままでもメレフの提案が嬉しくて私は微笑んだ。
メレフが王城へ出仕している間、私は屋敷の女主人としての仕事をこなしている。まだ爵位はないので来客もなく、主に屋敷の中のことばかりだ。
貴族の屋敷は女主人の美意識を体現する場所だ。敷地に入った瞬間に与える印象は、そのまま女主人の印象と直結する。
カーテンや寝具の色や材質を選び指示を行う。何度も私の好きな色を選んで欲しいとメレフには言われても、未だに好きな色がわからない。
中庭で切った花を玄関や客間の花瓶に飾り、旬の食材を取り入れた食事の献立を作る。メレフの好物を中心にして、足りない栄養を補う副菜を選ぶ。料理の見た目だけでなく、その食物が持つ栄養を取ることが重要だと言われ始めたのはここ最近で、最新流行の生活様式だ。
家令や使用人たちはとても優しい。侯爵家や他の貴族の屋敷で常に感じていた緊張感は、ここでは全くない。とはいえ緩い雰囲気ではなく、清潔感とすがすがしい空気に包まれている。
メレフが使用人に仕事を無理に与えなくてもいいという話は、すぐに理解することができた。この屋敷では皆が自分の仕事に誇りを持って働いている。
日中は結婚祝いのお返しを選び、ひたすらお礼状を書く。我が国では結婚六十日後に一斉にお礼状とお返しを贈る。お祝いは外国からも多数贈られてきており、広い部屋二つが結婚祝いで埋まっていた。
数が多すぎて、とにかく時間が足りない。夕方に帰宅したメレフと慌ただしく食事を取り、食後のお茶の時間に王族や外国からの贈物を確認してもらい、どういった関係なのか聞き出す。
メレフが隠れ部屋に入って、入浴してから隠しておいたお礼状をテーブルに広げる。お礼状を書くのは女主人の最初の大仕事だ。母も祖母もイネッサも一人で書き上げたと言っていた。
筆跡を真似てくれる代筆屋もいると、私を心配してくれる侍女たちが教えてくれたけれど、自分一人で書き上げたい。
毎日頑張って、四十五日目の夕方にすべてのお礼状を書き上げることができた。これで遠い外国にも六十日目に届けることができる。達成感と喜びの中で、帰宅したメレフを迎えた。
いつもよりも豪華に飾られた夕食は使用人たちの気遣いだ。
「……今日は何か祝い事があったでしょうか?」
食後に出てきた甘い生クリームたっぷりのケーキを見て、メレフがようやく気が付いた。
「結婚のお礼状を書き上げたお祝いをしてくれているのです」
私が件数を報告するとメレフの顔から血の気が引いた。総数は聞いていた数の三倍近く、かなりの量になった。
「気が付かなくて申し訳ない。一人で書かせてしまった」
謝罪するメレフを私は止めた。これは女主人の最初の仕事であることを説明する。
「マリーナ、私からも慰労したい。何か欲しい物はないですか? 何か希望は?」
メレフに聞かれて咄嗟に思い浮かんだのはベッドで一緒に眠りたいということだった。流石にそれは口にできない。
「一緒にケーキを食べて頂ければ嬉しいです」
私はメレフに微笑みを返した。
結婚してから六十日が過ぎ、国賓として訪れているカレルヴォ王子を歓迎する晩餐会の招待状が私宛に届いた。若者だけの私的な宴と書かれているのは珍しいことで、さらには王印が捺されている。第一王子の護衛として参加するメレフには招待状はない。
「体調不良ということで欠席しても構いません」
招待状を見たメレフはそう言ってくれたものの、王印があるというのは王の命令に等しい。仮病で欠席するのは非常識だ。
隣国トランは無数の川や湖がある土地だ。穀物の収穫には向かず、芋や果物を中心に栽培している。はっきりいえば、国力としては我が国の方が遥かに上だ。けれどもトラン国王は古の時代から水竜と契約を結んで治水を任せていて、魔法というものが失われた我が国にとっては、竜の存在は畏怖の対象だ。
万が一戦争になった場合、我が国には水竜に勝つ方法がない。そのため、トラン国には最上に近い敬意を持って接することになっている。異例の晩餐会もカレルヴォ王子の希望に合わせたものなのだろう。私は参加すると返答した。
晩餐会当日、昼過ぎになって私は準備を始めた。ドレスは流石に自分一人では着る事ができない。ゾーヤと侍女たちの手で、渋い緑色のドレスを着せられ、結い上げられた紺碧色の髪にエメラルドの髪飾りを付けられる。
化粧をほどこされると侯爵家の娘にもどったような堅苦しさを感じる。胸を押さえ込むいつものコルセットが苦しい。……カレルヴォ王子に挨拶しなければならないことが、嫌で嫌で仕方ない。
これは貴族の義務だ。他国の賓客をもてなし、友好を結ばなければならない。そう言い聞かせながら、私は独り馬車に乗って王城へと向かった。
晩餐会の控室には多くの若い貴族たちが揃っていた。三十歳以下の者だけに招待状が贈られていたらしい。独りで参加している女性も目立つ。
顔見知りの女性たちと軽く挨拶を交わしていると、イネッサが近づいてきた。輝く銀の髪をふわりと結い上げ、瞳と同じ青い色のドレスがとても似合っている。
夫のコルスン侯爵には招待状が無かったと、イネッサも単独参加だ。
「マリーナ、ひさしぶりですわね。……どうですの?」
「……優しいけれど、やっぱり難しいみたい……」
一度もベッドを共にしたことがないとは口にできない。メレフの表情や口調は冷たいことが多く、時々笑い掛けてくれても私が微笑み返すと視線を逸らされてしまう。
毎朝一緒に木に登っている時にも、拒絶するように体が大きく震えることがある。
「……言うかどうか迷っていましたけれど、結婚してから孤高の騎士が変わったと城で噂になっているそうですわ」
口元を扇で隠してイネッサが囁く。
「変わった?」
結婚後、お礼状を書くことにすべての時間を割いていたので、お茶会に出ることもイネッサに会う事も出来なかった。噂を聞く機会は一切ない。
「孤高の騎士の笑顔を初めて見た、笑うようになった、と」
扇を降ろしたイネッサが優しい微笑みを浮かべる。
「え……でも……昔から、王城で会った時には笑顔で……」
初めて会った時、メレフは優しく笑い掛けてくれた。表情から笑顔が無くなったのは王子の護衛騎士になる少し前のころだ。絶対に失敗の許されない厳しい職責が真剣な表情にさせているのだと思っていた。
「その笑顔はきっと、貴女だけが見ていたのですわ。……もっと自信を持ってもよろしいのでは?」
イネッサは私を励ますように優しい言葉を掛けてくれる。お礼を口にした所で、晩餐会の席へ案内が始まった。
私に用意されていた席は、黒と赤のロングコートを着たカレルヴォ王子の隣だった。緋色の長い髪、碧の瞳のカレルヴォ王子の正面、大人の背丈五人分の長いテーブルを挟んだ席には銀髪に青い瞳の第一王子が座っている。椅子の後ろにはメレフと数名の護衛が控えていた。
美しく飾られた料理が一品ずつ目の前に並べられる。これはトラン国独特の料理の給仕方法らしい。最初は軽い料理やスープ、魚や肉料理へと移って行く。女性には少なめに盛られているのに、食べきれないまま皿が下げられることを繰り返す。
「食が進まないようだねぇ。顔色も悪い。……毎日、夜が激しすぎてお疲れかな?」
美しいグラスで赤ワインを飲むカレルヴォ王子の囁きは下品極まりない。第一王子の護衛をしているメレフに視線で助けを求めてはみても、個人的な理由で動ける訳がない。
「孤高の騎士の寝技はどんなものかな? マリーナが壊れそうな程激しいのか、それとも長い時間を掛けて快楽の拷問を行うのか。……そうだねぇ。私なら長い時間を掛けるかな。マリーナが泣いてやめてと懇願するまで楽しもうか」
優雅に食事をしながら、私にだけ聞こえるように王子は囁き続ける。席を立ちたい。
「男嫌いの美しい宝石だと思って眺めるだけに留めておいたのに、いつの間にか奪われてしまった。固くて青い果実を先に食べられてしまったのは残念だよ」
カレルヴォ王子の声が気持ち悪くて食事の手が完全に止まる。もう一口も食べられない。
「まぁ、今からでも遅くない。今夜は私の寝室においで。マリーナに本当の快楽を教えてあげよう」
カレルヴォ王子の手が私の手に触れようとした時、小さな青い光が煌めいて王子のワイングラスが割れた。
「ちっ! 何だこれは!」
グラスの大きな破片が王子の手に刺さり、赤いワインと血の染みが白いテーブルクロスに広がっていく。
「カレルヴォ様! 破片を抜いてはいけません! すぐに手当てします!」
すぐに後ろに控えていた王子の側近たちが取り囲み、私は押し出されるようにして席を立つ。
多くの貴族が立ち上がり、騒然とする中で私の肩を掴んで抱き寄せたのは厳しい表情のメレフだった。
「帰りましょう。許可は取りました」
大きなメレフの手と胸の温かさに、私は安堵の息を吐いた。
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