第7話 裏庭の大木

「……大丈夫ですか?」

 腕に抱き着く私の手にメレフの手が添えられて我に返った。大丈夫だと答えたくても、嫌悪感で体が震える。これまでは求婚を断っても、カレルヴォ王子はあっさり引いていた。今回のように全身を舐めるような不躾な視線を受けたこともなかったし、ましてや名前だけを呼ばれたことはない。気持ちが悪い。


「顔色が良くありません。帰りましょう」

「……でも」

 せっかく一緒に買い物をしているのに。沈む私をなだめるように、メレフはまた別の日に来ることを約束してくれた。


 私たちはすぐに屋敷へと戻った。メレフは心配してくれているのか、戻っても居間で一緒にいてくれる。メレフは本を読み、私も隣で本を読む。


 メレフが読む本は外国語の本ばかりだ。読み取れた単語からヴァランデール語だとわかる。我が国の標準語と音や文字は殆ど変わらず、文法や単語が若干異なる。話せば基本的な意思疎通はできても、似すぎているが故に書くことは難しい。


 夜のお茶の後、メレフが本を持って立ち上がる。この瞬間を待っていた私は、メレフが開けた扉の中へ先に滑り込んだ。


「……何をしているのですか?」

 扉を開けたままメレフが驚きの顔をしている。

「こちらのベッドの方が小さいので、私がこちらで就寝します。寝室のベッドはメレフ様がお使い下さい」

 ベッドに座ると本当に小さいと感じる。大きな体のメレフには小さすぎる。


 溜息を吐いたメレフは、手に持っていた本を小さな棚へと置き、おもむろに私を抱き上げた。

「あ、あら?」

 メレフの腕は軽々と私を運ぶ。何が起きているのかよくわからない。


「口を閉じて、歯を合わせて噛んで下さい」

 メレフの言葉に従って口を閉じると、柔らかなベッドの中央に放り投げられた。

「!?」

 ベッドに体が沈むと同時に、掛け布が頭から掛けられる。手足に布が絡む。


「ええっ!?」

 しばらくもがいて掛け布の中から顔を出した時、隠し部屋の扉の前にいるメレフと目が合った。


「明日も出掛けますから、しっかり眠って下さい。……おやすみなさい」

 その一言を残して、メレフは扉の中へと消えた。



 翌朝もメレフは運動を欠かさない。そろそろ鉄棒から降りる頃だと、私はタオルを持って近づいて、傍に立つ木を見上げる。


 裏庭の奥にそびえる木は本当に大きくて高い。しっかりと太い枝が伸びていて、メレフが簡単に登る姿を思うと私も登れるのではないかと思いついた。


「たしか最初はこの枝……」

 木の下に立ち、いざ手を伸ばしてみると私の背ではかろうじて手が届く高さだ。背伸びして、枝に手を掛ける。


「どうやって登るのかしら?」

 メレフが登る姿は見ているのに、いざ自分が登ろうとすると、どう体を動かせばいいのかわからない。


 両手を枝に掛け、地面から離れるべく力を込めて体を持ち上げようとした途端、びりっという音がした。

「び、びり?」

 腕の動きが軽くなり脇が涼しい。確認したいけれど両手は枝を掴んでいる。


「……くっ……」

 背後でメレフが噴き出して、笑うのが聞こえた。おそらくワンピースの脇が破れているのはわかっていても、どうしたらいいのかわからない。


「も、申し訳……た、助けは……要り、ますか?」

 羞恥で動かない頭で、辛うじて振り向くと明らかに笑いを堪えているメレフと目が合った。


 恥ずかしさで体が全く動かない。枝に掛けた手を降ろしたいのに貼り付いたようだ。


 メレフは私の体を片腕で抱えて固まった手を解くと、私を抱きしめながら本格的に笑い出した。


「……ごめ……止まら……な……」

 とにもかくにも恥ずかしい。抗議の意味を込めて胸を叩くと、さらにメレフが笑う。恥ずかしさと腕の温かさの中、私はメレフの胸を叩き続けるしかなかった。



「酷いですわ、メレフ様!」

「……申し訳ありません」

 笑いが治まったメレフに抱き上げられて、衣装部屋へと入った。呼び鈴が鳴らされてゾーヤと侍女たちが新しい服を用意して下がっていった。


 両袖の脇部分が縫い目から裂けている。基本的に貴族女性の服は腕を上げたり運動するようにはできていない。


「……私の名前に様はつけなくていいですよ」

 着替えが終わった時、メレフが私に言った。

「でも……」

 貴族の夫婦の間では、妻は夫に対して敬称を付けて名前を呼ぶのが普通だ。私の母もそうだった。


「では、私の名前を呼んで頂けますか?」

 少しずるいけれど、名前を呼んでもらえるのなら常識外れと思われても構わない。まっすぐに目を見ると、メレフの青い瞳が迷うように揺れる。


「わかりました。……マリーナ」

 結婚してから初めてメレフに呼ばれた名前は、私の胸に温かく響いた。



 馬車は書店へと向かっていた。王都には大きな書店が二つ、小さな書店が無数に存在する。私は大きな書店にしか訪れたことはない。メレフが良く訪れるという書店があると聞いて、そこへ行くことにした。


「……ここですか?」

 馬車が入ることができない狭い路地は暗い。昼間だというのに魔法灯がぼんやりと道を照らしている。


 メレフの左腕にしっかりとしがみつきながら、路地を歩く。明るく白い百貨店と違って、こちらはレンガの色も赤黒く、すり減った石畳の色も黒い。


 とある店先には不気味な干物や枯れた草花が吊るされていたり、動物の毛皮や不思議な形の金属器、ガラスの瓶が並ぶ。不気味だと思うのに、目が引きつけられる。


「あ、あれは何の店ですか?」

「魔道具屋です。入ってみますか?」

 私は心の底から驚いた。そんな店はお伽話にしか出てこない。頷くとメレフが魔道具屋の扉を開ける。


「いらっしゃーい。あ、良い本入ってますよー!」

 黒いローブに身を包んだ中年男性が、メレフに不躾な言葉を掛ける。メレフは怒ることもなく、平民のような挨拶を返した。


「いやはや、貴方が女性連れなんて明日は雪が降りそうですね。しかもとびきり美人だ」

 失礼な男だと思いつつも、美人と言われるとお世辞とわかっていても怒れない。


 店の棚に並んでいる物は、絵本に描かれている魔法使いの持ち物ばかりだ。

「これは魔物の爪。これは魔物の牙。目玉と皮は切らしてますが、耳はありますよ」

 棚に並ぶガラス瓶の中には、怪しく美しい物が詰まっている。魔物は遠い外国にいると聞いたことはあっても実物を見たことがない。


 ローブの男性は店主だった。ガラス瓶を掲げて内容物の説明を大袈裟に語る。美しく銀に輝く人魚の鱗、月夜に咲く花の雫が凝った玉、七年に一度しか取れない種。語られる由来は、本物か偽物かなんてどうでもいいと思う程に面白い。


 色とりどりの魔法石、魔術師が魔法の補助に使う杖や短剣、精霊の加護の力を込めた護符。一通り、棚の商品の説明を受けた後、メレフは店主が薦める一冊の本を購入して店を出た。

「それは?」

「魔法の本です。……冗談ですよ。精霊とその力について解説した本です」


 この世界には精霊がいるというのは知識としてある。その力の種類は火・木・土・水・風・光・闇の七つに分類される。人の目に見える精霊は相当な魔力を持っていて、その姿が人に近ければ近い程、高位の精霊だ。


「精霊に興味がおありなのですか?」

「ええ。面白いです」

 読んでみるかと問われて、メレフの後で読むことにした。


 路地の奥、目的の書店は臨時休業と書かれた板が扉に立て掛けられていた。また外国へ仕入れに出掛けているのだろうとメレフが教えてくれる。


「お! メレフ!」

 不躾な声の方を見ると別の店の一つから出てきた水色の髪、青い瞳の精悍な男が、手を振っている。茶色の上着に生成のシャツ。こげ茶色のズボンにブーツという姿は平民の服だ。


 知り合いなのだろうかとメレフの顔を見ると、しまったという表情をしながら片手で挨拶を返している。


「おいおい、新婚さんが来る場所じゃないだろー。何してんだ?」

 お酒の匂いと大きな声、乱暴な言葉遣いに心が怯む。怖くてメレフの左腕にしがみ付く。


「本を買いに来ただけだ。もう少し声量を下げてくれ。妻が怯える」

 メレフのさりげない言葉に私の胸が高鳴った。妻と言われたことが嬉しくて頬が緩む。

 

「そりゃ、すまん。えーっと。あれ? 何か彼女、俺の印象と違う気がするんだが」

「何がだ?」

「……えーっとだな、もっと、こう、凛々しくて、男なんて要らないわ! みたいなさ……冬の湖に浮かぶ白鳥みたいな印象だったんだが……何だ? この小動物みたいなのは」

「私の妻に失礼なことを言うな」


「お前、自分の腕にぶら下がってる彼女を客観的に見てみろ」

 何と失礼なことを言う男だろう。メレフの腕を両手で抱きしめて、男を睨みつける。


 男はメレフの同僚で騎士のドナート・ルィソフ。メレフの三つ年上の二十六歳だと紹介を受けた。昨日から休暇でずっと飲んでいたと笑う。お酒の匂いがするだけで酔っている気配はない。


 ドナートはメレフが新婚でなければ飲みに誘っていたと笑う。自分よりメレフの方が酒が強いと言う話を聞いて、少し気分が上向いた。この失礼な男よりメレフの方がずっと素敵だ。


「……そうだ。お前の彼女は仕立て屋だったな。急ぎの仕事はできるか?」

「おう。任せとけって……女物専門だぞ?」

「彼女の服をお願いしたい」

 昨日から、メレフは私の物を買おうとする。欲しい物を何度も聞かれても、私が欲しい物は一つだけだ。


 大声で話すドナートとしばらく歩くと、明るい通りへと抜けた。先程の路地と違って、すべてが明るく、多くの人が歩いている。舞踏会よりも混雑した町の中でも、メレフの腕にしがみ付いていれば安心。


 淡いベージュ色のレンガで出来た可愛らしい建物へとたどり着いた。小さな仕立て屋へと3人で入ると非常に狭い。


 ドナートの恋人スサンナは、少し年上の紺色の髪と瞳の女性だった。美しく仕立てられた濃い茶色のワンピースが、柔らかな体の線を引き立てている。


「彼女に動きやすい服を一式、急ぎで仕立てて欲しい」

 メレフの注文の後、衝立の中でスサンナに体の寸法を測られる。コルセットを外すと、解放される気持ち良さが体を包む。深く息を吐いて、体の中に新しい空気を入れる。


「こんなに綺麗な胸を潰して隠すなんてもったいないですよ」

 そう言われても困る。教育係たちから、大きすぎる胸は慎みがない女性と思われると言われ続けてきた。だからこそ胸まで覆うコルセットで押さえつけているのに。


「旦那さんだって、夜だけじゃなく、いつも大きな方が喜びますよ」

「そう……なのですか?」

 メレフに下着姿は見せたけれど直接見られたことはない。メレフが喜んでくれるならと胸を潰さないコルセットも注文した。


「お洋服のお色はどうされますか? 奥様のお好きな色でお作りしますよ」

「色……」

 メレフの好きな色を答えようとして口ごもる。そういえば、私の服はメレフの好きな色か、誰かが似合うと薦めてくれた色ばかりだ。


 ……私の好きな色は、何色だっただろうか。


「……メレフさ……いえ、メレフに相談してみます」

 私は戸惑いながら微笑んだ。

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