第6話 緋色の王子
出掛けるという朝も、メレフは早朝の運動を欠かさない。
今朝はちゃんとタオルを用意してきたので手渡せる。
剣を振る姿を見ていると、メレフが婚姻の腕輪を外していることに気が付いた。既婚者は起きている間は付けているのが普通だ。昨日は付けていたのに。
自分の金の腕輪の輝きが色褪せて見える。美しいエメラルドも色が沈んでいる。気持ち一つで色が違って見えるような気がしてしまう。
胸の痛みを隠して、私は微笑む。鉄棒から降りたメレフにタオルを差し出す。
「どうぞ」
「…………ありがとうございます」
シャツの袖で汗を拭いかけたメレフは、少し迷うような顔をした後、タオルを受け取った。タオルを首に掛け、メレフは軽々と木を登っていく。
私が嫌いでも、理由があれば受け取ってもらえる。それは私にとって嬉しいことだ。部屋に戻るメレフの後ろを浮ついた気持ちで歩いていると、階段の途中の一段を踏み外した。
「あ!」
落ちる。痛みを覚悟して目を閉じると、強く腕を引かれて抱きしめられた。
「あら?」
目を開くとメレフの腕の中だった。頭の上で深い溜息が聞こえる。
「……また眠っていないのですか?」
「いいえ。良く眠りました」
運動をした直後の為かメレフの体が熱い。不謹慎だと思いながらも、メレフの胸に頬を寄せるとメレフの体が大きく震えた。これは拒絶なのだろうか。嫌われていると再確認してしまって心がずきりと痛む。
「…………何故、後ろをついてくるのですか?」
「あの……その……」
本当は後ろではなくて隣を歩きたいとは言えなくて、目の前のメレフのシャツを握りしめる。
「…………後ろで転倒されると困ります。私の前か隣を歩くようにしてください」
「はい!」
階段の途中では不安定だと言って、メレフは私を階段の上まで運んでくれた。お礼を言うと目を逸らされてしまったけれど、助けてくれたことが嬉しい。
衣装部屋には外出着が用意されていた。侍女を呼ぶかとメレフに問われて、必要ないと答える。侍女や従僕がいない方が自由で快適だと私の考えも少しずつ変わってきている。
私に用意されていたのは渋い草色のワンピースと薄手のクリーム色のコート。昔は既婚女性は髪を結い上げることが必須だったと聞いている。今では髪型は自由だ。両横の髪を少しずつ取って、後頭部の高い位置で髪飾りで留め、軽く化粧を施す。
「お待たせしました!」
化粧を終えて振り向くと、メレフはタイを結んでいる所だった。
「申し訳ありませんが、少し待って下さい」
メレフは青紺色の上着に黒のベスト、白いシャツ。鉄紺色のトラウザーズに黒のブーツという、貴族の外出着姿だ。いつも外出時はタイのない騎士服なので慣れていないらしい。
私が結ぶと提案してメレフの正面に立つ。背の高いメレフは少しかがむような姿勢を取ってくれたので、ちょうど結びやすい高さだ。
タイを結ぶ方法は母に習った。毎朝父のタイを結んでいると聞いた時には驚いたものだ。夫のタイを結ぶことがとても嬉しい。礼を言われて心がさらに浮き立つ。
「剣はお持ちにならないのですか?」
外出着には剣を下げるベルトはない。
「今日は休日ですから。剣は持ちませんが、多少の武器は持っていますので安心してください」
騎士が隠し持っている武器は特殊で、家族にも秘密にしなければならないと教えてもらえなかった。
衣装部屋を出て、階段を降りる直前にメレフが立ち止まる。
「……心配なので腕に捕まっていて下さい」
差し出された左手に思いっきり両腕で抱き着くと、驚きの目を向けられる。
「………………歩きにくくないですか?」
「大丈夫です!」
メレフの腕はしっかりと力強い。私一人なら軽々と持ち上げるだろうという安心感がある。
階段を降り、家令と数名の使用人に見送られて馬車に乗るまで腕に抱き着いていた。上級貴族の家令というものは、どういった場面でも冷静な表情を崩さないものだけれど、どこか微笑んでいるように思える。使用人たちは全員がはっきりと微笑んでいる。
「そういえば家令を正式に紹介していませんね。戻ったら紹介しましょう」
顔見せだけは結婚の前に行っている。この国では家令は男主人に従い、使用人長は女主人に従うと決まっている。
現在四つ存在する公爵家は、領地とは別に王都の四方に広い敷地を与えられている。公爵夫妻が住む本邸と、その子供が住む別邸が建てられており、公爵が引退すると領地へと向かい、その第一子が使用人ごと本邸へと移る。第二子以降は代替わりの際に屋敷から出て行かなければならない。
「……何が欲しいですか?」
馬車の中、隣に座るメレフの言葉に驚く。何か目的があって出たのではなかったのか。
「あの……メレフ様のお好きな物を」
「貴女の好きな物を買いに行くつもりで誘いました」
そうは言われても何も思いつかない。本当に欲しいものは……隣に座っている。
「……あ。最近話題になっている百貨店に行きたいです」
これまでは貴族の買い物といえば専門店ばかりだった。一つの店では宝飾品、一つの店ではドレス、一つの店では紳士服と、幾つもの買い物がしたい場合は、何軒もの店を回るか、屋敷に店主を呼んで注文することが普通だった。
ひと月前、多くの店を一カ所にまとめた百貨店という物ができて、毎日貴族でにぎわっていると聞いている。一度行ってみたいと思いながらも結婚式の準備が忙しくて見に行くことはできなかった。
私の希望を聞いて、メレフは馬車の壁に付いていた小さな円形の鉄のフタを持ち上げ、現れた穴に向かって目的地を指示した。
「これは伝令管です。鉄の管が御者台に声を伝えてくれます」
馬車が走る音で聞こえないのではないかと聞くと、魔法石によって増幅されるので問題ないと答えが返ってきた。
「初めて見ました」
走り出した馬車の御者に行き先の変更を伝えるには、天井を杖で叩くか大きな音がなる鈴を鳴らして一度止めるしかない。この仕組みは王族と公爵家の馬車にしか使われていないと聞いて納得できた。
公爵家の馬車には他にも秘密がある。いくつかの説明を受けている途中で目的地に着いてしまった。
百貨店は白く大きな三階建て。花の彫刻が施された白い円柱が特徴的な異国風の美しい建物だ。馬車止めで降りると、多数の貴族の姿があった。メレフに差し出された左腕に手を掛け、すれ違う貴族たちと軽い会釈を交わしながら店内へと案内される。
初めて見る百貨店は、驚きの連続だった。
大きな四角い箱の中に、一つの町が閉じ込められているようだ。広い通路に面した店には扉がなく、様々な商品が棚や机に美しく飾られている。
これまでは専門店に行って希望を告げてから商品を見せられるか、絵型を見て注文するという方式だったのに、この百貨店では何も言わなくとも展示されている物を自由に見ることができる。
階段で二階に上がると色とりどりの服が服掛けに吊るされて並んでいる。試着室もあり、寸法が合えば買ってそのまま着ることもできると案内人に説明を受けた。いくつもの服飾店が出展していて、壁はなくとも床の色で店が区別できる。
「メレフ様、これはいかがですか?」
メレフが好きな渋い緑色のロングベストを手に取る。複雑な紋様が織り込まれた布は上質なものだ。メレフの寸法には合わないので、注文するしかないだろう。
「……貴女の物を買いに来たのですが」
メレフの溜息が心にちくりと刺さる。私の物と言われても、何も思いつかない。
「あ! メレフ様! あれはいかがです?」
視界の隅に捕らえた
「ですから、貴女の物を買いに来たと……」
「……でも……欲しい物なんて……」
それは貴方ですと口にしたくても、周りには他の貴族もいるし案内人もいる。恥ずかしくてメレフの左腕をしっかりと抱え込む。
結局、私が見立てたメレフの服や装身具を注文し、三階へと向かった。
三階は美術品や宝飾品を扱う店が並んでいた。高価な大きなガラスの箱の中に、黒い布が敷かれ美しく煌めく宝石が飾られている。
別の店では白く透けるような陶器で出来た茶器のセットや、花紋様がくりぬかれた白い花器が宝石と同じくガラスの箱の中に並ぶ。金色に輝く女性像、金属で出来た男性像に怯み、白い石に彫られた魔物の像に驚く。
「こんなにいろいろな物を見たのは初めてです」
メレフに笑いかけても、そうですねという答えの後は視線を逸らされてしまった。
寂しくなって抱え込んだ腕に寄りかかった時、中央の廊下を歩く派手な一団が見えた。緋色の髪の男性を中心にして、男性たちが従うように囲んでいる。エルショフ伯爵の姿もある。
「あれは……カレルヴォ王子……」
緋色の長い髪、碧の瞳。甘く美しい顔立ちは見間違いようがない。隣国トランの第一王子だ。黒に近い赤色のロングコートに黒いシャツと黒いトラウザーズにブーツという姿は、この国の貴族の服装と同じでも、色の選択が独特だ。この国で黒いシャツを着る者はいない。
数年前から何度も求婚され、毎回断ってきた。本気だとは思えなかったし、メレフへの想いは変わることがなかった。
「おや。久しぶりですねえ、マリーナ嬢」
緋色の髪の王子の視線が私に向かってきた。周囲の視線も私へと向けられる。
気付かれてしまったので、仕方なく貴族の礼を行う。騎士であるメレフは外国の王子に対しても右手を胸に当て、軽く会釈するだけで許される。私はメレフの腕から手を離し、右手は胸に当て左手はスカートを摘まんで靴先を見せて、腰を低くして頭を下げる。これは王族に対して害する意思が無いことを示すという意味を持っている。
「そのような挨拶は不要です。それよりも貴女の顔が見たい」
顔を上げると美しい笑顔が待っていた。明るい光と白い壁に反射した光の為なのか、煌めいているように見える。ただひたすらに美しくて、作られた不自然な美しさのように思えて怖い。
ゆっくりと王子が近づいてくるのを見て、慌ててメレフの腕にしがみつく。メレフは少し腕を引いて、私を体の後ろに隠すようにしてくれた。
「おや? これはどうしたことかな。マリーナ嬢は男嫌いと聞いていたが」
「一昨日、結婚致しました」
メレフの背に半分隠れながら、からかうような王子の言葉に反射的に答える。蛇のような視線が怖い。
「それは残念だ。おやおや。私には招待状が無かったねえ。もしも招待状をもらっていたら、式の最中に貴女をさらいに行ったのに」
王子の薄い唇が美しい弧を描く。細められた目がメレフを一瞥した。
「孤高の騎士……か。若いねえ。若い」
王子は今年三十歳になると聞いている。トラン国王は五十三歳。まだまだ健在で、譲位はまだ先になるだろうという話だ。王子は外国で遊び回っているという噂が付きまとっている。
「二人の結婚の祝いに食事でもいかがかな? 評判の料理店を予約しているんだ」
「申し訳ありません。先約がありますので」
王子の誘いをメレフが即座に断った。
「おやおや。冗談が過ぎて、孤高の騎士に嫌われてしまったかな。先約があるなら仕方ない。……また次の機会を楽しみにしているよ、マリーナ」
美しい笑顔の王子は緋色の髪を翻し、私たちの目の前から去って行った。
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