第5話 侯爵家の娘

 体が眠りから覚めようとしている。心地よい柔らかさの中、いつもの自分のベッドとは違う香りに気が付いた。


 かすかな渋みのある柑橘類の香りはメレフと同じ匂いだ。メレフは香水は使っていないと思う。近づけばほのかに香る程度だから石けんか整髪料の匂いなのかもしれない。


 目を閉じたまま寝がえりを打って、枕へと顔を埋める。侯爵家では絹の寝具を与えられていたけれど、この柔らかな綿の方がさらりと肌離れが良くて気持ちいい。


 侯爵家では何も言わずとも最高級の物が用意された。ラフマニン侯爵家の領地は豊かな実りをもたらす良質な土壌が広がっている。父と長兄は領民を豊かにする為に農地や作物の研究への出資を行っており、今では公爵家にも劣らない税を国へ納める裕福な家だ。


 上級貴族の娘は自分の希望を軽々しく口にすることはできない。希望を口にすれば、それを叶えようと誰かが我慢を強いられてしまうことがある。


 六歳の頃、王城庭園ですれ違った少女の素朴な水色の服が可愛いと両親に話した翌日、全く同じ服が私の部屋に用意されていた。


 何故同じ物がと聞くと、着ていた少女から譲り受けたと父に言われ、私は衝撃を受けた。私は欲しいと思った訳ではない。ただ、可愛いと言っただけだった。 


 私は服を返したいと父に願った。返しておくと父は約束してくれたものの、本当に返してくれるのか心配で直接返しに行くことにした。


 銀髪に青い瞳の少女は震え怯えていた。私は二人きりで話すことを求め、心から謝罪した。その少女が当時男爵家令嬢のイネッサだ。イネッサは私の謝罪を受け入れ、友人となってくれた。


 それ以来、私は自分の好みや希望を口にすることを避けてきた。……メレフのこと以外は。


 侯爵家の娘として、別の公爵家や外国の王子からの求婚があれば、本来は受けるべき話だ。良い条件の縁談を断り続けながらメレフを想うことを許されていたのは、何の希望も口にしない私が唯一自分の意思を表明したからだ。


 ……そうだ。私はメレフと朝食を食べていた。何故ベッドの中にいるのだろう。


「あら?」

 枕から顔を上げると全く見慣れないベッドだった。視線を感じて顔を向けると、枕元の椅子に座って目を瞬かせるメレフと目が合った。その膝の上には分厚い本が開かれている。


「え!?」

 飛び起きてベッドに座り込む。メレフはシャツにロングベスト、トラウザーズという服のままだ。一方の私は白い夜着。


「……食事の途中で眠ってしまったので運んできました」

 目を逸らしてしまったメレフの言葉を聞き、羞恥で頬が熱くなっていくのがわかる。


「も、申し訳ありません!」

 まるで子供のようだと恥じ入るしかない。大きな枕を抱きしめながら、どうすればいいのか考える。昨日は一睡もしていないし結婚式が楽しみでここ数日十分に眠ることができずにいたとはいえ、この失態はあり得ない。

 

「……いえ。謝罪しなければならないのは私の方です。貴女の睡眠不足の原因を作ったのは私です。申し訳ありません」

 メレフが立ち上がり、本を書き物机の棚へと戻した。


「食事を運んでもらいます」

 メレフはテーブルの上に置かれた金の呼び鈴を手にして鳴らす。大きな音ではなく、美しい澄んだ音が軽やかに響く。

 すぐに入ってきた侍女との短いやり取りの後、侍女たちが手早くテーブルに白いクロスを敷き、運ばれた食事を並べていく。


「椅子まで運びます」

 メレフの声と表情は冷たくても、その手は優しい。運ばれるだけなのに抱き上げられると嬉しくて笑みが零れる。


 そっと椅子に座らされて、食事用の膝布を掛けられた。まるで子供扱いだと思いながらも、メレフが世話をしてくれることがくすぐったくて嬉しい。


「ありがとうございます」

 お礼を言うとメレフはまた視線を逸らしてしまった。礼は不要と言われても、感謝の気持ちは伝えたい。


 私にはリゾット。メレフの目の前に並ぶ料理は山のような量だ。焼かれた鶏のもも肉が五本、チーズたっぷりのグラタン、野菜たっぷりのポトフ、大きな丸いパンがスライスされて籠に入っている。


「見ていないで、ちゃんと食べて下さい」

 メレフに言われて我に返った。慌ててスプーンを手に取って、リゾットを口に運ぶ。優しい味のリゾットは最近の流行だ。これまでは米を人間が食べることはなかった。


 この数年コルセットなしで食事をしたことがなかったので、ついつい沢山食べてしまう。少し多めに盛られたリゾット一皿を食べきった。


「それだけでいいのですか?」

 食事を続けていたメレフが手を止めた。

「はい。いつもよりたくさん食べました」

 

 果物を食べるかと聞かれて頷くと、果物が運ばれてきた。ガラスの器に盛られた果物は、季節外れの赤い苺と見たこともない白い苺。


「白い苺?」

 私の疑問に、それはヴァランデールから取り寄せた物だとメレフは答えてくれた。口に入れるとさわやかな甘味が広がる。赤い苺よりも甘い。


 ヴァランデールの農業技術は進んでいて、ガラスで覆われた温室で一年中、果実や花を栽培しているとメレフが語る。公爵家の領地ではヴァランデールの農家と契約を結んで栽培実験を行っていても、土が違うのか思うようには育たないらしい。


 騎士としてのメレフしか見たことがなかったので、領地の民のことを語る姿はまた違った魅力がある。話す時は食事の手を止めて、私の疑問にも丁寧に答えてくれる。


 ゆっくりと話を聞き、私が苺を食べている間に、大量の料理がすべて綺麗に無くなった。食器は茶器に取り替えられ、控えていた侍女たちが全員退出していく。


 侯爵家や王城では部屋に侍女か従僕が一人は控えているのに、ここでは誰も残らないということが新鮮であり、少々不安でもある。使用人たちは皆、気配を消してはいても誰かの視線を常に感じることが普通だった。

 

「……今、何時ですか?」

「リカスの時です。先程日没を迎えました」

「夜!?」

 私は一体どれだけ眠っていたのだろうか。初日を完全に無駄にしてしまった。王子の護衛騎士として、休むことが難しいメレフの婚姻休暇は式当日を含めて十日しかない。


 メレフがポットを手に取ろうとするのを私は止めた。

「あの、私が」

 上級貴族の娘がお茶を淹れることはないけれど、イネッサと二人だけのお茶会の時には、私がお茶を淹れることもある。二人で美味しいお茶の淹れ方を研究したこともあった。懐かしい思い出に頬が緩む。


 ポットに用意されていたのは紅茶だった。メレフの希望は砂糖を一匙、温められた牛乳を多めに注ぐ。私も同じものにする。


「ありがとうございます」

 メレフの一言が嬉しくて、さらに頬が緩む。温かなカップを両手で包み、熱い紅茶を口にする。美味しいと思ってもらえるだろうか。そんな心配をしたけれど、紅茶は美味しかった。


 ゆっくりと紅茶を飲み干したメレフが、カップを置いて立ち上がった。先程棚に戻した本を手に取り、隠し部屋へと向かう。


「あの! お聞きしてもいいですか?」

「何ですか?」

 扉を開けて立ち止まったメレフに駆け寄る。


「その部屋は一体、何の部屋なのですか?」

「ここは護衛の為の控え部屋です」

 覗き込むと中には小さなベッド。奥にある扉は小さな浴室だという。


「今日もこちらで眠られるのですか?」

「はい」

 メレフの声は冷ややかだ。悲しくなって見上げると、視線を逸らされた。


「……食事中に眠らないよう、しっかり眠って下さい。明日は買い物に出ましょう」

 意外な言葉に驚いた私は、扉の向こうへメレフが消えるのを止めることができなかった。


「買い物?」

 何を買いに行くのか聞けなかった。婚約中は、私が一方的に誘うことばかりだったので、メレフからの誘いは初めてだ。メレフと一緒に眠れないのは寂しいけれど、明日が楽しみで心が浮き立つ。


「……まずはお風呂にはいらないと」

 昨日からシャワーを浴びることもなく夜を迎えてしまった。化粧が綺麗に落とされているのは侍女の手によるものだろう。私が眠った後、侍女たちが着替えさせてくれたのかと、少し残念に思う。あの婚礼用の下着は、メレフの為の物だった。


「仕方ないわ。無理矢理結婚してしまったのだもの」

 嫌われているとわかっていても、そばにいるだけで嬉しくなる。メレフの声と表情は冷たくても、その手は温かくて優しい。


 ……本当に私は我がままで、自分勝手だ。他に想い人がいてもいいと言ったのは自分なのに、私を見て欲しいと願ってしまう。もっとそばに行きたいと思ってしまう。


 浴室に入っても侍女の姿はなかった。浴室を一人で使う練習もしてきたので問題ない。


 この国では魔力を含む魔法石によるシャワーを使うことが一般的だった。十年程前、浴槽にお湯を溜めて浸かることが貴族の間で流行して定着した。


 白く輝く陶器でできた浴槽は外国で作られている。大人二人が入ることのできる浴槽の底には小さな穴が開いていて、木の栓をしてお湯を溜め、使い終わった後は栓を抜いてお湯を流す。


 壁の魔術紋様に手を触れれば、魔力が無くてもお湯が一瞬で浴槽に溜まる。その仕組みは魔法石頼りだ。


 この国では特殊な能力を持つ者がいなくなって久しい。外国には精霊や魔法を使う力である魔力や、無から有を生じる神力という不思議な力を持つ者が多数存在する。平民ですら弱い力を持ち、強い力を持つ者は貴族に多い。


 王家はその力を取り戻そうと外国から魔力や神力の強い王女や貴族の娘を王妃に迎え続けていても、子供にその力が受け継がれることはなかった。


 この国では魔法使いはお伽話の中にしか存在しない。


 浴室に用意されていた石けんは、私が侯爵家で使っていた花の香りと、渋い柑橘の香りの物。迷わず柑橘の香りを手に取る。


「……明日、何を買いにいくのかしら?」

 誰もいない浴室で、私は独りつぶやいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る