第3話 初めての朝
夜が明けるまで、私は婚礼衣装のまま床に座り込んでいた。
無理矢理結婚した私が悪いとはわかっていても、この扱いは心に強い衝撃を受けた。涙を零してしまいそうになるのを堪えながらドレスを強く握りしめる。
私の計画はメレフの気持ちを無視していると諭したゾーヤの言葉が心に刺さる。この胸の痛みは、自分の愚かな計画の結果なのだから受け止めなければ。そう、安易に泣くことはできない。
「絶対あきらめないって、私は私に誓ったわ」
呟いて心を奮い立たせる。どうしても彼の隣に立ちたかった。今まで両親や周囲から与えられる物をすべて受け入れて指示に従ってきたけれど、結婚だけは首を縦に振らなかった。
別の公爵家からの婚姻の打診もあった。王城に訪れていた外国の王子から求婚されたこともある。すべてを断り、これまで自分の容姿を磨いてきたのはメレフの隣に立つためだ。
深く息を吸い込んで心を落ちつける。頭を冷やさなければ。悲しみで打ちひしがれていても、何も解決しない。
メレフと出会ってから十年、私のたった一つの願いは彼の隣に立つことだった。愚かな行為の結果ではあっても、私の願い通りに結婚はできた。次に私が望むものはなんだろう。
「……次は心よ」
彼の心が欲しい。隣に立てるだけで満足なんてできない。
改めて自分の欲深さに震える。最初は隣に立てるだけで嬉しいと思っていた。この半年を婚約者として過ごす間に、彼の心が欲しいと願いが深くなっていたのか。
どうしたら私を見てもらえるのだろう。読書が趣味というメレフを見習って、たくさんの本を読んできたものの、物語の中の主人公たちは出会った瞬間に恋に落ちることが多い。嫌われている所からの出発という物語は読んだことが無い。
嫌いという感情を覆すことは難しいとは思う。それでも彼を振り向かせたい。
突然扉が開いて、シャツにベスト、トラウザーズという服装のメレフが出てきた。腕には婚礼用の上着を持っている。
「……眠らなかったのですか」
メレフの小さな溜息が私に対する非難のようで心に刺さる。
「おはようございます、メレフ様。婚礼衣装は一人で脱ぐことができません」
心が軋んで痛んでも、私は精一杯笑顔を作る。メレフの心を手に入れるまで絶対に負けられない。
婚礼衣装は男性が脱がせるように出来ていることをメレフは全く知らなかったらしい。
「……申し訳ありません。それは知りませんでした」
視線を落としたメレフが近づいてきた。
「どうすれば?」
逸らした青い瞳がかすかに揺れている。いつものように私の目を見て欲しいのに、メレフは見ようとしない。
「背中のボタンを外して頂けますか?」
微笑んでメレフに背を向ける。赤い婚姻用ドレスの背中には、くるみボタンが並ぶ。独りでは着ることも脱ぐこともできない。
メレフの指が一つずつボタンをゆっくりと外し始めた。恐る恐るという雰囲気だ。時折優しい指先が背中に触れる。
昨夜の心の衝撃が、少しずつ溶けるように無くなっていく。何か理由があれば、こうして触れてくれる。それなら理由を作ればいい。
ドレスが体から滑り落ち、赤い布が床に美しく広がると白い婚礼用の下着が露わになった。胸まで覆う白いコルセットとドロワーズは、レースをたっぷりと使用した華やかなものだ。
「これでいいですか」
「ええ。ありがとうございます」
振り向いてメレフに微笑む。華やかな婚礼用の下着姿を一瞬でもメレフに見せることが出来て嬉しい。
視線を逸らしたメレフが、寝室を横切っていく。
「メレフ様、どちらへ?」
「着替えるだけです」
「それでは、私も」
いつも着替えを手伝ってくれる侍女はいない。下着姿のままメレフの後を着いて行く。
メレフが開いた扉の先は衣装部屋だった。深い飴色のクローゼットと引き出しが壁に並んでいる。中央のテーブルにはメレフの服と私の服が用意されていても使用人は一人もいない。
メレフは用意されていた服ではなく、クローゼットから出した簡素なシャツと黒いズボンを着用していく。
「こちらの服は着用されないのですか?」
「……毎朝の日課の後で着用します」
メレフは毎朝の日課として体を鍛えているという。全く知らなかった彼の日常に心が躍る。
慣れた手つきで素早く着替えたメレフが扉へと向かう。
「私も行きます! 待って下さい!」
咄嗟に叫ぶとメレフは扉の前で立ち止まってくれた。
私に用意されていた服は、渋い緑色のワンピースだった。前ボタンなので独りで着用できる。
独りで服を着ることは婚約してから習い覚えた。この国の上級貴族の娘が自分で服を着ることはないけれど、騎士の妻には何があるかわからないから覚えておいた方がいいとゾーヤが提案してくれた。
ゾーヤに感謝しながらワンピースを着る。鏡に目をやれば化粧は随分落ちていた。昨夜、最後の化粧直しの時に薄い化粧にしていたので、それほど酷いものではない。
口紅を引きたいと思いつつ、扉の前で待っているメレフをこれ以上待たせたくはなかった。
結い上げた髪から髪飾りを外し、婚礼用の赤い靴を茶色の靴に替える。もう履くことのない華やかな靴を惜しみながらも視線をあげる。
「お待たせしました」
微笑んで駆け寄るとメレフの青い瞳が戸惑うように揺れる。本当に優しい人だと思う。私のことを嫌っていても、こうして待っていてくれるのだから。
寝室の扉が開かれても使用人が誰も待っていないことに少し驚く。侯爵家では寝室内には侍女がいて、外には使用人たちが廊下で待っていた。
「あの……使用人はいないのですか?」
「……私はいつ起きるかわからないので、待たないようにと指示しています。必要であれば呼び鈴を鳴らせばいいですから」
使用人は必要な時だけ呼ぶ。その言葉に驚いた。
「それは……使用人が仕事をしなくなるのではないですか?」
使用人に時間を与えれば、怠惰になるものだと教えられてきた。だから使用人には常に仕事をさせることが必要だというのが貴族の常識だ。
「使用人も私たちと変わらない人間です。彼らを大事に扱えば、私たちのことも大事に扱ってくれる。何も指示をしなくても、彼らは自分の仕事を探して務めてくれます」
この屋敷の女主人となる為に教えられた使用人の数は侯爵家よりも多い。使用人に常に仕事を与えるのも貴族の義務だと教えられてきた私にとって、その考え方は驚くしかない。この屋敷の方針なら理解しなければ。
階段を降り、玄関とは反対側の方向へとメレフは歩いて行く。何度も角を曲がった先に扉があった。
「この扉の先は?」
「裏庭です」
扉が開くと生垣で囲われた土の地面と鉄の棒。そして奥には大きな木が見えた。抜けるような青い色の空には、赤と緑の月が浮かび上がっている。
「私はしばらくここで体を鍛えますから、部屋に戻っていいですよ」
突き放すような冷たい口調に怯みながらも、今更戻るという選択肢は私の中になかった。
石壁に掛けられていた剣を持ってメレフは中央に立ち、私に背を向けて剣を振り始めた。騎士や兵士の訓練で見たことがある。重い金属の剣を勢いよく振り下ろして、ぴたりと止めるのはとても難しいことだと聞いた。
何もすることのない私は、心の中で回数を数える。三百回を過ぎるとメレフのシャツの背中が濡れ始めた。汗をかいているのだろう。
手巾を手渡したいのに、服の隠しに入れておくのを忘れていた。拭く物がないかと辺りを見回しても何もないので諦めるしかない。
五百回で剣を振る手を止めたメレフは剣を壁に掛け、鉄の棒へと歩いて行く。立てられた二本の棒の間、地面と平行に棒が渡されている。その高さはメレフが手を伸ばすよりも上だ。
跳び上がったメレフは両手で鉄棒を掴んでぶら下がる。メレフの体を支えているのは二本の腕だけ。腕を曲げて自分の体重を持ち上げる行為は、体にどれだけの負荷を掛けるのだろうか。これが体を鍛える訓練なのだと、私は感動すら覚えていた。
五十回を数えた所で、メレフの腕が伸びた。鉄棒から手を離して飛び降り、荒い息を整えながら額に流れる汗をシャツの袖で拭う。乱暴で不作法な仕草だけれど胸が高鳴る。……どうしようもなく彼が好きだと再確認して笑ってしまう。
メレフは奥にそびえ立つ大きな木へと向かった。三階建ての屋敷の屋根よりも遥かに高く、幹は大人が五人手を繋いでも囲うことができそうにない太さだ。複雑に入り組んだ枝の中、一本の太い枝に手を掛けてメレフは木を登っていく。
屋敷の三階に届く程の高い枝に立ったメレフは、白い太陽の光を浴びて輝いている。その姿は神々しくて凛々しい。彼は一体、どんな景色を見ているのだろうか。想像もできない。
しばらくして、メレフは軽やかに木から降りてきた。
「……まだいたのですか。面白くとも何ともないでしょう」
冷ややかな言葉が心に刺さっても、私の心の興奮は冷めることがない。
「いいえ。とても楽しいです!」
大きな体がしなやかに動く様は、とても美しい。初めて見る姿ばかりで心が躍る。些細な仕草が私の心をときめかせる。
目を逸らし、無言で寝室へと戻るメレフの背中を私は追いかけた。
白いドレスシャツに青紺色のロングベスト、黒いトラウザーズという貴族の日常着に着替えたメレフと共に食堂へと向かう。
初めて見る光景に私は驚いた。貴族の食卓といえば、大人の背丈三人分以上の長いテーブルを使用することが普通なのに、茶会で使われるような小さなテーブルが用意されている。端と端に座っても、身を乗り出して手を伸ばせば相手に届く距離だ。
メレフに補助されて着席すると、料理が運ばれてきた。食事に感謝の祈りを捧げた所で、私は我慢できずに口を開く。
「……メレフ様。それをすべてお食べになるのですか?」
メレフの目の前に置かれた料理は、私がこれまでみたこともない量が盛られている。
山。そんな単語が頭に浮かぶ。
分厚く切られて焼かれた牛肉が皿の上に高く積まれ、添えられたゆで卵は五つか六つ。付け合わせのバター煮のニンジンも皿から零れ落ちそうな量が盛られている。
私の皿は美しく控えめに盛られているのに、メレフの皿に盛られた料理は皿の限界に挑戦しているのかと思う量だ。
野菜とベーコンがたっぷり入ったスープも、花器かと目を疑うような大きさの皿に盛られていて、通常は皿の上に置かれるパンが籠に積まれている。副菜もどうしたのかと驚く量だ。
「ええ。騎士ですから量を食べないと体がもちません」
さらりと答えたメレフは優雅な手つきでナイフとフォークを使い、次々と料理が口の中に消えていく。
「貴女は食べないのですか?」
メレフがくすりと笑ったことで、私が口を開けて見ていたことに気が付いた。貴族女性としてあるまじき失態だ。羞恥で頬が熱くなっていく。
「た、食べます!」
スプーンを手に取ってスープをすくうと、その熱さに驚いた。侯爵家の食事では毒見役が確認してからなので、熱いスープが食卓に出ることはない。公爵家に毒見役がいないというのは驚きだ。
熱いスープを口にして体の中から温まると、とろりとした眠気が沸き上がってきた。食事中に眠るなんて不作法だと思っても抗えない。まぶたが落ちていくのが止められない。
「マリーナ?」
メレフに優しく名前を呼ばれたような気がして、頬が緩む。これまで名前で呼びかけられたことはなかったから、幻聴なのかもしれないけれど嬉しい。
温かな何かに包まれて、私は眠りに落ちた。
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