第一章 悪夢が始まる日

それは秋というのに、まだ暑い日が続く十月の初めのことだった。 

その日の朝は空気が少し寒いような気がした。

まだ薄暗い中、自衛隊のとある駐屯地で、武器庫の見回りをしていた隊員がいた。

彼は入隊して三年目の若い隊員だった。

日頃の鍛錬の成果か、ラグビー選手並みの厚い筋肉に覆われ、ガッチリした体型をしていた。

焼けて荒れた肌や、髪の毛の先の荒れようから、日ごろの訓練の凄まじさが感じられる。

その見た目とは裏腹に、親しみやすい愛嬌のある眼差しをしている。

この隊員が笑うと、きっと”可愛い”という言葉が似あいそうな、そんな眼差しだ。

隊員は、ふと立ち止まった。

何か変だ

そう感じた隊員の表情は一瞬にして険しいものになり、持っていた銃を構える。

そして、武器庫の右奥のスペースに違和感を感じて銃を構えたまま歩いていく。

違和感を感じた場所へたどり着くと、隊員は息を飲んだ。

その場所には何の武器もなく、ガランとした空間だけがあった。

ここにたどり着くまでに様々な種類の銃を目にしてきたが、ここへ来て目の前には何もなかった。

隊員は頭の中にある記憶の中から、そこにあったものが何だったのか引き出すために、過去の記憶に頭を巡らせる。

数秒もしない内に答えはでた。

「SCARがなくなってる」

そこにあったのは、SCARというアサトライフルだった。

有事の際に編成される、特殊部隊用として用意してあった銃だ。

隊員が辺りを見回すが、誰かがいる気配もない。

ただ、アサトライフルがなくなった空間に白いカードを見つけた。

カードには、何者からかのメッセージが残されていた。

“世界の悪夢はここから始まる”


 時間は夜の十一時を過ぎていただろうか、とあるバーのVIPルームのソファーに、二十代半ばの青年が座っていた。

栗色の柔らかそうな髪に、すっきりした顔立ちで、笑うとフワッと柔らかな空気が広がりそうな顔だ。

服は特にVIPという感じでもなく、ラフなシャツとパンツだ。

その脇にスーツ姿の青年が立ち、向かい側のソファーには自衛隊の戦闘服を着た青年が二人座っている。

二人の青年達は見てわかる通り自衛官なのだが、どう見てもこの場所には不似合いな格好だった。

部屋の壁は黒一色であるのに加え、ソファーは赤、テーブルは黒、扉は赤など、赤と黒のコントラストを意識している。

それでいて、間接照明で薄暗く辺りを照らし、赤と黒のコントラストという落ち着かない配色にも関わらず、不思議と落ちつく空間になっていた。

そのお陰か、慣れないVIPルームにいるにも関わらず、二人の自衛官は落ち着いた口調で駐屯地での出来事を話していた。

「つまり、何者かにSCARを盗まれたので探してほしい…と?」

そう言ったのはラフな服装の青年だった。

彼は久我くがひいらぎという。

”アスピレイション”という会社の若き社長だ。

五年前に社長である父親が亡くなり、社長業を継いでいる。

いくつもの部門を持つ大手の会社で、日本では知らない人間はいないほどの知名度がある。

柊の脇に立っているのは執事の朝倉あさくらりく、柊より三歳ほど年下だ。

可愛いという言葉が似合う、アイドルのような顔立ちをしている。

自衛官の一人は意志の固そうな凛々しい顔立ちの戸倉とくら冴月さつきだ。

自衛隊幹部であり、柊の親友でもある。

もう一人の自衛官は三上みかみ勇輝ゆうき、駐屯地の武器庫の見回りをしていた自衛官だ。

「勇輝」

「はい」

勇輝は黒いテーブルの上に、白いカードを置いた。

「これがSCARがなくなった場所に残されていたカードだ」

冴月はテーブルに置かれた白いカードを、柊の目の前に差し出した。

「何て書いてある?」

言いながら、柊はカードを手に取る。

「世界の悪夢はここから始まる」

読み上げてから冴月を見た。

「犯行声明文?」

「そうかもな」

「なんのために?」

「わからないが…。SCARが盗まれたままだと、勇輝に処分が下る」

「それで、俺に相談しに?」

柊が勇輝に視線を移すと、懲戒処分への恐怖からか、勇輝は少し青ざめた顔でうつむいていた。

微かに滲む冷や汗が、筋肉質の屈強な体には不似合いだった。

無敵かのうよに見える体を持つ勇輝も、年齢通り、心の中はまだ未熟で強くなりきれていないのだろう。

「頼む!勇輝を助けたいんだ!」

冴月が頭を下げる。

「冴月さん…」

勇輝は困ったようにオロオロしている。

「頭を上げろ。冴月」

柊は、ため息をつく。

「柊…」

「おまえがそこまでいうなら、コイツはおまえにとって、本当に大事な仲間なんだろう?」

「そうだ」

「おまえの仲間なら、俺の仲間も同じだ。助けないわけがない」

そう言うと柊は微笑む。

「柊…!ありがとう!」

冴月は顔を上げると嬉しそうな笑顔で、そう言った。

柊は勇輝に握手をうながすように手を伸ばす。

「よろしくな、勇輝。今日から俺たちは仲間だ」

「あっ…!ありがとうございます!」

勇輝は柊の手を両手で握り、握手した。

その様子を、執事の陸はため息をつきながら見ていた。

「柊。SCAR探しには勇輝も同行させようと思っている」

「いいのか?そんなことして?」

「実はSCARが盗まれたことは、自衛隊内部でもトップシークレットで、知ってる人間は少ない。特殊任務ということにすればいいさ。これは本人の意志でもある」

冴月は勇輝に視線を移す。

「柊さん!足手まといにはなりません!今回は俺のミスです!俺の手で何とかしたんです!」

柊は暖かい眼差しで微笑む。

「そうか…。おまえの気持ちはわかった。でも、自分一人の力で何とかしようと思うな。俺たちは仲間だ。何かあったら仲間同士で助け合うんだ。いいな?」

「はい!」

勇輝は笑顔で元気よく返事をした。

「話は決まったな!」

冴月は笑いながら、勇輝の肩をポンと叩いた。

勇輝は嬉しそうに笑う。

その笑顔は体型とは裏腹に好感のもてる…そう、可愛いという言葉が似合っていた。

「それで、これからのことなんだが…」

「これから?」

柊は聞き返す。

「特殊任務の手続きをして勇輝を外に出すつもりだ。その手続きで一度、本部へ連れていくが…。準備ができ次第、柊の所へ向かわせる」

「わかった。それまでに、できる限り俺の方で事件のことを調べてみるよ」

柊は微笑んだ。

「そうか、助かる」

冴月は深く呼吸する。

「なんだ?どうした?まるで、これから手ごわい相手と戦う前みたいじゃないか?息を整えるなんて」

柊は笑う。

「するどいな。服装を見てわかると思うが、俺たちは今日は休みじゃない。勤務中に抜け出してきた。これから、どう言い訳するかって考えないとな。駐屯地に着くまでに」

柊は、ああなるほど…と頷きながら、戦闘服姿の冴月と勇輝を見る。

「思い立ったら、居ても立ってもいられなくて、俺のとこへ来たってわけか?」

「まあ、そういうことだ」

冴月はニッと笑う。

柊は噴き出して笑った。

「おまえらしいな」

「笑いすぎだろ…?」

冴月は苦笑いする。

「大丈夫なのか?そんなんで?勇輝を特殊任務って苦しい理由で外に出せるのか?」

「なんとかするさ。今までだって、そうしてきたしな」

冴月はニヤリと笑う。

「相変わらずだな」

柊は穏やかに笑う。

「バカだって言いたいんだろ?」

「おまえらしくて、いいんじゃないか。大事な仲間なんだろ?そいつが…」

微笑む柊に、冴月は言葉を詰まらせる。

そうなんだよな

柊って、こういうヤツなんだよな…

さらっと相手のすべてを認めて、受け入れられる

どんな状況だったとしても

おまえはおまえでいいって…

冴月は心の中で呟いてニッコリ笑う。

「俺のことは何でもお見通しだな。柊。おまえの言う通り、こいつは俺の大事な仲間だ。何かあったら力になるのは当たり前だ。そうだろ?」

「ああ、そうだな」

柊は微笑んだ。

「それに…この手のバカさ加減じゃ、おまえには勝てないけどな」

「よくいうよ」

柊はニヤリと笑う。

「お互いバカ同士、気が合うんだよな~。だから、親友なんだろうけど」

「確かに」

柊と冴月は声を出して笑いあった。

湧きあがる暖かい空気が、その場を包んだ。

二人は今まで何かあっても、こんな風に助け合ってきた…そう思わせる強い信頼関係が感じられた。

「さて、そろそろ行くかな。適当な理由で、駐屯地から抜け出してきたからな。早く戻らないとヤバい」

冴月は勇輝に目で合図すると立ち上がる。

勇輝も続いて立ち上がる。

「じゃ、頼むぞ。柊」

冴月は軽くウインクした。

「任せとけ」

柊は笑顔で言った。

冴月と勇輝が出ていくと、陸が柊を横目で見る。

「本当にいいんですか?あんな約束して」

「陸。どうした?急に…?」

「何か忘れてませんか?大事なことを…」

「大事なこと…?今の話以上に大事なことなんて…」

柊は首をかしげて数秒後…

「あー!さきか!」

「そうです。最近、うちに居候を始めた…あの女です」

「まいったな…」

「このことを知ったら、大変なことになりますよ」

「調査についてくるだろうな」

「はい。間違いなく」

柊は肩を落として、ため息をついた。


 とある豪邸にあるダイニングルームのテーブルの上に、ホテル並みの豪華な朝食が並んでいた。

家具やカーテンなど、すべてが高価なものだと一目でわかる。

大きな窓からは朝日が差し込み、朝食と綺麗な花を生けた花瓶を照らし、すがすがしい空気の中、朝食を楽しめそうな情景のはずだった。

その部屋のすべてが白とピンクと少女趣味で、お姫様チックな色使いになっていなければ…。

ちなみにカーテンは可愛いフリル付きだ。

食卓に座る柊はため息をつく。

そう、ここは柊の家だ。

「食欲ないの?」

そう言って、テーブルの向かい側に座るのは、真島ましまさきという駆け出しの女流作家だった。

小説の執筆のために、アスピレイションの社長の柊を密着取材したいという話で、面倒を見てくれと、知り合いに一方的に押し付けられていた。

知り合いは仕事関係の人間なのだが。

ここ数年、連絡を取らないようにしていたので、断るためだけに連絡を取ることもできず、

しぶしぶ、一カ月前から面倒を見ている。

咲は肩までの長さのゆるふわパーマが愛らしく、着ているビタミンカラーのオレンジ色のワンピースからか、明るく元気な感じの女の子という感じだった。

柊より二歳年下なのだが…。

「…落ち着かない」

柊がため息まじりに言った。

「こんなに可愛い部屋にしたのに?」

なんで?といわんばかりの表情で、不思議そうな顔をする。

「…」

柊はため息をつく。

住み込みでの取材ということだったので、この一か月間、同じ屋敷で寝食を共にしている。

屋敷に来た当日に、屋敷中の部屋をフリルと白とピンクに模様替えしようとしたので、咲が使う部屋とダイニングに限り、模様替えを許したのだ。

他にもリビングも…と粘っていたが、来客があった時に困るからと断った。

咲はかなりマイペースで、自分がいいと思ったものは相手もいいと思ってしまう思い込みの強さがある。

そう信じて疑わないのだ。

ある意味、最強な価値観といえる。

それが、この一か月間で柊が理解した、咲という人間だった。

取材と称して着いてくるのはいいが、基本的に自分の好きなように行動するので、正直手を焼いていた。

柊も内心…こいつには何か言っても通じないと諦めているところがある。

ダイニングには執事の陸の他に、もう一人執事がいた。

白髪と白い髭の年老いた執事だ。

彼は陸の祖父で、朝倉あさくら耕史郎こうしろうという。

先代の柊の父親の時からの執事で、主に屋敷内の管理を任されている。

ちなみに陸は柊と行動を共にし、ボディーガードの役目も負っている。

頭も良く格闘術もこなせる、優れた若き執事だ。

柊より三歳年下だが、年下とは思えない程しっかりしている。

そう、この家には執事が二人いる。

それだけなら、あってもおかしくない光景だった。

しかし、この屋敷では主人の柊と二人の執事が同じ食卓についていた。

この屋敷では、何年も前から主人と執事が一緒に食事をとるのが当たり前になっていた。

家族のいない柊にとって、執事は唯一の大事な家族というのが、その理由だった。

「ぼっちゃん。食事は進みませんか?困りましたな」

そう言いながら耕史郎が咲に視線を移すと、咲と目が合う。

「何よ?あたしのせいって、いいたの?」

マイペースな咲でも、さすがに気がついたようだ。

「いいえ。柊はすでに二十歳を過ぎた立派な大人です。このような装飾は不似合いで苦手なんですよ」

陸は眩しいほど屈託のない笑顔で言った。

「あたしも二十歳は過ぎてるけど…」

咲は不機嫌そうに陸を見る。

あたしが子供っていいたいの?

咲の目がそう言っている。

陸は変わらず屈託のない笑顔で見ている。

しかし、その目の奥は笑っていないように見えた。

「…」

咲は、その有無を言わさぬ、その笑顔に押し黙った。

「陸。それくらいにしとけ。悪気はないんだ」

「柊…」

陸はため息をつく。

「坊ちゃん。陸は、坊ちゃんが大好きなのでございます。坊ちゃんを守ろうとしただけでございます」

耕史郎が、陸の気持ちを代弁するかのように言った。

「わかってるよ。ありがとうな。陸」

柊は陸に微笑む。

「柊は甘すぎるんですよ」

困ったように陸は笑った。

「とりあえず、食事を終わらせよう。時間もないし」

「そうですね」

陸は咲を睨む。

「だから!なんなのよ!」

「別に…」

陸は、むくれる咲を冷たくあしらうと朝食を食べ始めた。


 朝の九時を過ぎた頃、柊はとあるビルの最上階にいた。

そこは柊の会社である、アスピレイションの自社ビルだ。

そのビルの最上階にアスピレイションがある。

他の階は他の会社に貸し出していて、アスピレイションの社員は、最上階のワンフロアにいる人数のみとなっている。

そこで不思議思えるのが、手広く事業をいっている国内大手の会社の社員が、ワンフロア程度に収まるのか?ということになってくる。

AIの進化により、現在では人から仕事が奪われ、この国で実際に働いているのは国民の4割にも満たない。

後の6割は”インカムベーシック”と言われる社会保障制度により、国から支給される給付金のみで生活している。

十年ほど前に始まった社会保障制度だが、年金・生活保障・失業保険などなど、国民の状況により支給されていた社会保障制度を廃止し、働ける働けない、大人か子供か、に関わらず全ての国民に平等に、同額の給付金が支給される制度だ。

それにより、年齢や生活環境に関係なく、働かなくても生活ができるようになった。

そんな中でも、一部の者だけが働いていた。

自分の好きな仕事につきたい、収入を上げたいなどなど、理由は様々だ。

生活のために苦しい思いをして働く…という社会は終わりを迎えていた。

その最上階の、アスピレイションの一角に社長室があった。

つまり、柊の仕事場だ。

咲は社長室前の応接室で、お茶とお菓子を出してもらい、秘書室の女性秘書とおしゃべりを楽しんでいた。

柊がいる社長室には、柊の他に陸と秘書室長の高津こうづみきがいた。

幹はスラっとした長身のやせ型で、黒いスーツが似合う。

眼鏡をかけ、人形のように綺麗で整った顔をしているが、冷静沈着で感情を感じさせない雰囲気を持っていた。

柊が椅子に座り、デスクを挟んだ向かい側に幹が立っていた。

陸は座っている柊の斜め後ろに立っている、

「昨夜、メールで連絡いただいた件の報告を

いたします」

「早いな。それで?」

「はい。マユキ。SCARに関する記事を」

『はい』

どこからか、ボーカロイドにも似た女の子の声が返事した。

彼女は一応、女性というカテゴリにあるが、アスピレイションのメインAIだ。

今のところ、幹の命令を最優先として動いている。

実際は社長である柊の命令が最優先とプログラムされているのだが、柊は直接マユキと関わろうとしなかった。

いつでも、幹を通してマユキを動かしていた。

ほどなく、柊の目の前の何もない空間に映像がいくつか表れる。

映像だけが何もない空中に表示されるという、最新のディスプレイ技術だ。

これにより、場所を選ばずディスプレイを見ることができるようになった。

詳しいことはわからないが、空気を舞っている微粒子を映し出す、特殊な光を作ることに成功し、それがディスプレイ技術として応用されてできたものだった。

目の前に現れた画像は、2年前に起こった事件の記事だった。

記事のタイトルは“惨禍の日”と表示されていた。

柊は、その映像には見覚えがあった。

「これが関係あると…?」

苦しそうに顔を歪める。

「はい。この時、射殺に使用された銃がSCARでしたので。それに加えて、残されたメッセージも、“惨禍の日”の原因となった“悪夢の日”に関係することを匂わせています」

「残されたメッセージは“世界の悪夢はここから始まる”。この二つの事件で、家族を亡くした遺族の報復ってことか?」

「それは何とも…」

「そうだったな。幹は事実でなければ、肯定はしないんだったな。決して私情や感情は挟まない」

「はい。その通りです。でなければ、適切な判断はできませんから」

「おまえは本当に冷静だな。そんなおまえの言葉だからこそ、俺は冷静な自分に戻れる。特に、この二つの事件に関係があるなら、尚更、おまえの助けが必要だ」

そう言うと、柊は辛そうにうつむいた。

心配ながらも声をかけるのをためらう陸と、何もできず唇を噛む幹だった。

二人は柊の異変の意味を知っていた。

過去に起こった二つの事件。

簡単に触れてはけない過去がそこにはあった。

「幹、陸。頼む。俺を支えてくれ…」

そう言った柊の手は震えていた。


 柊のいる時代ではインカムベーシックにより、人口の6割が働かずに生活できるようになった。

しかし、それにより生まれた闇が社会に広がりつつあった。

何の目的も持たず生きる人間が増え始め、中には無気力になり命を絶つ者や、生きてる感覚を求めて動物の命を奪うという異常な精神状態の者も現れ始めた。

そして、その動物の命を絶つ者たちの中の一人が、ある日事件を起こした。

それは、SCAR盗難事件の3年前のことだった。

如月きさらぎ大地だいちという二十代半ばの青年が、乱射事件事件を起こしたのだ。

彼はマシンガンを手にショッピングモールを思うがままに走り回り、多くの人間を射殺して回った。

しかし、如月大地は駆けつけた特殊部隊によって、射殺され事件は解決した。

当時は無差別大量殺人事件として、世の中を騒がせたが、殺人鬼如月大地の死により、世の中に平和が訪れたと、誰もが思っていた。

 乱射事件のあった”悪魔の日”から半年後…。

とある病院の病室で、血だらけで息絶えている中年の女性を抱きしめている、若い女性の姿があった。

彼女は新藤しんどう真雪まゆきといった。

アスピレイションの開発室室長にして、乱射事件の被害者の家族だった。

その姿に声をかけることもできず、見守る柊と陸がいた。

「どうして…。お母さん」

真雪は肩を揺らして泣いていた。

母親の首には、アクアマリンのペンダントがあった。

母親の誕生日に、真雪がプレゼントとして送ったものだ。

そのことからも、真雪の母親への愛情が窺える。

真雪の母親は、乱射事件で何とか命を取りとめた。

しかし、乱射にあった幻覚に半年もの間悩まされ続け、消えることのない恐怖から、逃げるために命を絶っていた。

「真雪…」

柊が真雪の肩に手を置いた。

「柊。あたしに力を貸して…」

「真雪?」

「あたし、母さんみたいな人間をもう見たくないの」

真雪は体を起こす。

「そのために力になって…」

涙で目を赤くした、痛々しい表情の真雪が、真っすぐに柊を見つめていた。

その瞳から向けられる意志の強さは、断ることをためらわせるほどだった。

しかし、柊の心は最初から決まっていた。

「もちろん。力になるよ」

そう言うと柊は真雪を抱きしめた。

「だから安心して。一緒に世の中を変えよう」

真雪は目を閉じて泣いた。

真雪の心に柊の優しさがしみていく。

その温かさに真雪は少しだけ癒されるようだった。

 それから真雪は、母親と同じような境遇の人間を二度と産まない社会にするために、紛争することになる。

事件の被害者と家族を集め、犯人と同じように無差別に動物を殺す、精神的に異常をきたした人間を捕らえ、精神的な病気の治療を要求する運動を始めた。

動物の命を殺すという行為で、自分が生きている実感を得ていた者たちは、やがて殺す相手が動物では物足りなくなる。

やがて、人間を殺す快感を覚えて人間として壊れていくのだ。

だからといって、生きている命を奪うことを始めてしまた者は、命を奪うことから逃れられない。

明らかに普通の人間と違う人間になってしまた、という現実から逃避するために、人間を殺し続けるからだ。

悪魔のような人間が自分だという現実を忘れるには、それ程の刺激がなくてはならないのだろう。

しかし、どんなに人間を殺しても、自分がより悪魔のような人間に近づいくだけで、辛い現実はさらに深まっていくばかりでしかない。

そのことを専門家から聞いた真雪は、この運動をすることを決めた。

この運動が成功することによって、世界に光をもたらすという考えから、真雪が作った団体は”ライトワークス”と名付けられた。

それから政府に何度も嘆願書を送ったが、返事はなかった。

そして、とうとうあの日、国会議事堂前でデモを起こした。

真雪の母親の死から半年後のことだった。

亡くした家族と同じ犠牲者を出したくなくて

家族を亡くして哀しみに暮れる人間を増やしたくなくて

そんな辛い思いをするのは自分たちだけでいい

そんな思いを持った人たちが、国会議事堂前に集まっていた。

それなに…その崇高な思いを持つ人たちの命を、政府は虫を殺すように平気で奪ったのだ。

その中には真雪の姿もあった。

母親の形見のアクアマリンのペンダントをつけて、見開いた目からは波が零れていた。

 仕事でデモに遅れた柊が、国会議事堂に着いた時には、殺された人々が回収されている最中だった。

政府の見解としては、新種のウイルスへの感染が認められ、隔離しようとしたにも関わらず攻撃してきたため、国民を守るためやむなく射殺したということだった。

苦しい言い訳ではあるが、腐肉にも異常な精神状態を持つ如月大地の乱射事件“悪魔の日”から一年後ということもあり、今の時代あってもおかしくない事件として、誰もが疑問を持たなかった。

遺族と、その人達を知る人間以外は…。

“悪魔の日”に続く、痛ましいわざわいが起こった日として“惨禍さんかの日”と呼ばれた。

その後、真雪の遺体は戻ってくることはなかった。

更なるウイルス感染を防ぐことを理由に、殺された人間全ての遺体を政府が焼却したのだ。


 秋というこもあり、昼間はまだ暑いが夜は打って変わって冷える。

特に夜風は冷たくさえ感じる。

そんな夜なのに柊は、一階にある自室のテラスで椅子に座っていた。

テラスで夜風に吹かれながら、ぼんやりと夜空を見上げてる。 

仕事を幹に任せ、アスピレイションから帰ってきた柊は、食事もとらずに昼間からずっとそうしていた。

夜風が冷たくなっている事にも気づかないほど、物思いにふけっているようだった。

柊のいるテラスは他の部屋のテラスと繋がっていて、誰かが通れば顔を合わせることもある。

しかし、この家にはそんなことをする者はいなかった。

ある一人を除いては…。

「お腹空かないの?」

柊の前に咲が立っていた。

咲を柊に近づけないように見張っていた陸が、追いかけてきて一度立ち止まる。

あいつ~!

咲を連れ去ろうと歩き出した時だった。

「お腹…」

柊がクスッと笑った。

陸は思わず柱の陰に隠れた。

何してんだろ…僕は

そんなことを考えながら、それでも柊と咲のやり取りが気になった。

「そうだな。食べてないよな」

「あたしだったら絶対ムリよ。食べないなんて。だって、ここの食事ってものすごく美味しいものばかりなのよ。柊は食べなれてるかもしれないけど。それを食べないなんてあり得ない!」

咲は力説する。

その瞳はキラキラと輝いている。

「咲なら、そうだろうな」

柊は肩を揺らして笑った。

「もしかして、バカにしてる?庶民だからって?」

睨みつける咲の顔を見て、柊はさらに笑う。

「そうじゃないって。ただ…」

「ただ、何よ?」

「咲がいて良かったって、初めて思ったよ」

「何よ?そのトゲのある褒め言葉は。絶対、バカにしてるでしょ!」

咲はふくれて目を背ける。

「ごめん、ごめん。本当にそう思ってるから。それだけは信じてよ」

「信じられるわけ…!」

再び柊の顔を見ると、今度は真っすぐな眼差で咲を見ていた。

「…」

咲は思わず言葉を無くす。

その表情から目を離せなかった。

動くことすらできなかった。

いつもの余裕のある柊はそこにはいなかった。

今にも壊れそうな表情をしている。

「…どうしたの?らしくないよ?」

柊は咲から目をそらした。

「うん…。らしくないかも…」

柊の頬を涙が伝うのが見えた。

「柊?」

「思い出したくないことを思い出し…」

柊の声は震えていた。

咲は見ていられず思わず柊を抱きしめた。

「もう、いいから。喋んないで!」

「咲…」

「理由なんて言わなくてもわかるよ。その顔見れば、どんだけ辛いかって…」

「…」

「そんな顔してる時は泣きたいだけ泣くの。我慢しちゃダメ。悲しい時は泣いていいの。男だからとか、大人だからとか関係ない。辛いことがあったら悲しいの。それって、何かを大事に思ってたことだから」

咲は優しい眼差しで柊を見つめながら、柊の頭を撫で始めた。

「その気持ちを大切にするために、今は泣いていいの」

「うっ…」

咲の言葉に涙が溢れてきた。

今まで心の奥に押し込めて、見ないようにしていた気持ちが溢れ出てくる。

柊は、その気持ちをもう一度、心の奥に押し戻すことができなかった。

気がつくと、柊は声をあげて泣き始めていた。

「…」

初めて声を上げて泣く柊を目の当たりにして、陸は複雑な気持ちでいた。

柊の執事になって五年、柊の両親が事故で亡くなった時も柊の泣いてる姿を見たことがなった。

ずっと柊のそばにいて、一緒に柊の両親の死を乗り越えて、自分が誰よりも一番近い存在だと思っていた。

真雪が殺された時も、柊が泣くところを見たことがなかった。

柊は強い人間だから、泣かないんだと思っていた。

それなのに咲の前なら泣けるのか…?

陸はため息をつく。

寂しそうに柊を見ると、その場から離れた。

 いつものように清々しい朝だった。

朝食の並べられたテーブルのあるダイニングは、相変わらず可愛らしい装飾だった。

そして、主人と客と執事が同席するという不思議な状況での朝食の時間だった。

いつもと変わらない光景に見えた。

しかし、今日からは少し違っていた。

美味しそうに食べる咲を、柊が穏やかな眼差しで見ていた。

「咲。美味しい?」

「うん!とっても!」

咲は至福に満ちた笑顔で言った。

柊は、そんな咲の顔を嬉しそうに見ていた。

その様子を見ていた陸は、咲を睨みつけていた。

咲は陸の視線に気づく。

「何?」

「別に…」

拗ねたように陸は、そっぽを向く。

そんなやりとりをした陸が、全く食事に手をつけていないことに柊は気づく。

「陸。どうしたんだ?食欲がないようだけど?」

心配そうに陸を見る。

「柊~」

一瞬、嬉しそうに目をウルウルさせた。

「大丈夫です!心配することなんて何も!」

陸はものすごい勢いで朝食を食べ始める。

「…」

柊と咲は、そんな陸を不思議そうに見ていた。

ただ一人、陸の祖父の耕史郎だけが、孫の陸を不憫そうに見ていた。


 ある日の朝のことだった。

柊の屋敷に来客があった。

来客用のリビングは二十畳ほどの広さに絨毯が敷き詰められ、中央に大理石のテーブルがあり、そのテーブルの両端に四人掛けと、一人掛けのソファーがいくつか並んでいた。

テーブルを挟んでテラス側の一人掛けに柊が座り、その反対側の四人掛けのソファーに冴月と勇輝が座っている。

陸は柊の斜め後ろに立っている。

例の、勇輝を特殊任務と称して、柊のSCAR盗難事件解決に同行させる段取りがついたのだ。

それで、冴月が勇輝を連れてきていた。

「上層部には、勇輝がSCAR盗難事件の鍵を握る柊の護衛、という特殊任務に就かせると言ってある」

「おい。ちょっと待て!それって、犯人が自衛隊上層部にいたら、俺の命が狙われるんじゃ…?」

柊は苦笑いをする。

「そうだな。そうなれば犯人を特定しやすいな」

「いや、問題はそこじゃなくて。俺が狙われるってことだろ?」

「ああ…」

冴月は一瞬考える素振りをする。

「大丈夫だろ?」

すぐに笑顔でそう言った。

明らかに何も考えずに答えていた。

「おいおい…」

柊は、さらに苦笑いをする。

「だって、おまえは子供の頃から自分の身を守るために、ありとあらゆる護身術を習得してきただろ?将来、久我家の後継者になるために」

「そうだけど」

柊はため息をつく。

「おまえと出会ったのは、お前が護身術習得のために通ってた空手道場だったよな。懐かしいな~」

冴月は本当に嬉しそうに微笑んだ。

「あのな~」

「大丈夫だって。執事の陸も、おまえのボディーガードができるくらいの鍛え方はしてるだろう?久我家の執事は代々、そうだったよな?」

「ああ…。でも…」

柊は今度は深くため息をついた。

陸は柊の表情から何かを感じとる。

「柊。僕なら大丈夫です」

陸は笑顔で柊の顔を覗き込む。

「でもな…」

陸を見る、その顔は微かな心の痛みを含んでいた。

「あの…五年前の事故か。悪いっ!」

冴月が舌打ちする。

五年前、柊の両親は事故で亡くなっていた。

その時、柊の両親の護衛をしていたのは、当時、執事をしていた陸の父親だった。

しかし、柊の両親は陸の父親共々死ぬことになってしまった。

柊は陸が同じように、自分のために死ぬことが怖かった。

柊にとって陸は家族であり、特別な存在だった。

父親を亡くした時の陸の泣き顔が、今も脳裏に焼きついている。

思い出す度に胸が締め付けられる。

陸の父親を奪ったのは自分の両親…。

だから、その時は泣けなかった。

いや、泣いてはいけない。

陸の前では…。

陸の父親を奪ったのは自分の両親なのだから…。

ずっと、そうやって陸の前では涙を見せたことがなかった。

「いや。いいんだ」

柊は微笑んだ。

「でも、まあ…。もし、おまえの命が狙われたら俺が駆けつけて守ってやるから、安心しろって!」

冴月はニッコリ笑う。

「冴月が?」

柊はクスクス笑う。

「おっ…!バカにしてるな!俺は自衛隊でもトップクラスのレベルなんだぞ。おまえの命を狙うヤツがいたら、指一本で倒して、颯爽と自衛隊に帰ってやる!」

冴月はニヤリと笑う。

「指一本はあり得ないな」

「ほら、バカにしてる」

「それは冴月が、あり得ないことを言うからだろ」

「いやいや、あり得る~!」

子供の頃から柊が落ち込んでいると、こんな風に冴月がふざけて笑わせた。

子供の頃の柊は、久我家の後継者としての英才教育の日々で、遊ぶ時間さえなかった。

あまりの忙しさに、いつしか笑うことも忘れていた。

それに加えて、厳しい護身術の鍛錬の日々は心根の優しい柊にとって辛いものだった。

例え自分の身を守るためとはいえ、誰かを傷つけるのが嫌だった。

力をつけ、相手を叩きのめせるようになる度に落ち込んでいた。

その度に恐怖する相手の顔、落胆する顔を見てきたからだ。

しかし、冴月だけは他の子供と違った。

負けても楽しそうにニコニコ笑っていた。

“おまえ、強いな!”

その言葉を冴月から聞いた日から、冴月とはずっと友達…いや親友になった。

「どっちしてもだ。おまえを守るヤツが今日から一人増える」

冴月はニッコリ笑うと、勇輝の肩をポンと叩く。

「な?勇輝」

「はい!」

勇輝は元気に返事をする。

「だから、心配は無用だ」

冴月が再びニッコリ笑う。

その言葉には何の根拠もなかった。

それでも、冴月のその笑顔を見ると不思議と気持ちが落ち着いた。

「そうだな」

柊は微笑む。

それから、柊と陸は勇輝を連れて、冴月を玄関まで見送る。

「何かあったら、すぐに連絡しろよ。すぐに駆け付けるからな」

冴月は笑顔で言うと玄関を出ていく。

玄関のドアが閉まると同時に、ダイニングから出てきた咲が、柊達を見つけ駆け寄ってくる。

「ここにいたの!柊!耕史郎さんがおかしいのよ!」

「耕史郎が?」

「お昼の用意してるんだけど。テーブルに5人分の食器を並べてるのよ!もしかして、ボケて…」

「そんなわけないだろ!」

陸は咲に冷たい視線を向ける。

柊はクスクス笑う。

「咲。今日から一緒に生活する仲間が、一人増えたんだ」

「え…?」

咲はキョトンとして柊を見た。

「今日から一緒に生活する新しい仲間の三上勇輝だ。仲良くしてやってくれ」

鍛え抜かれた体格のいい勇輝が、ペッコリと頭を下げる。

「勇輝です。よろしく、お願いします。」

「一緒に生活するって…?この屋敷で?」

「そうだよ。俺の新しいボディーガード」

「え…。え~!このマッチョと!」

「おい。失礼だぞ。咲!」

陸が咲を睨みつける。

「いや。いいんです。陸さん。こんな可愛い人からしたら、俺みたいな男くさいヤツは受け付けないですよね」

「えっ…。可愛い…?」

咲はぼんやりと聞き返す。

「そうです。咲さんは可愛いです。俺が今まで知ってる女性の中で一番です!」

体格に似つかわしくない、人懐っこい笑顔で勇輝は言った。

その笑顔こそ、可愛いという言葉が似合っている。

しかし、咲の心に響いたのは勇輝の可愛い笑顔ではなく、自分が可愛いと言われたことだった。

「あたしが?一番…?やだ~!そんな大げさよ!」

そう言いながら、万遍の笑みで本心から嬉しそうにしか見えなかった。

一番っていったって。自衛隊じゃ訓練ばかりで、周りには咲みたいに着飾ってる女の人がいないってだけだと思うけど…

陸は心の中で呟いて、呆れた顔をしていた。

「なんだろ?不思議。あなたとは仲良くなれそうな気がしてきた」

「え?本当ですか?俺なんかと?」

勇輝は嬉しそうにニッコリ笑う。

「勇輝。俺なんかなんて言うなって。君は十分いい男だと思うよ」

「そんな」

勇輝は顔を赤くする。

「でも、良かった。これで勇輝と共同生活しても大丈夫だな」

「そうですね…」

ニッコリ笑う柊を横目に陸はため息をついた。

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