第5話『後悔』




 テツヤの部屋から逃げ帰って来たヒナコは、自宅の大きな玄関の引き戸を前にしたところで、お向かいに位置するテツヤの家を振り返った。


「テツくん、変に思ってるよね……」


 テツヤの心証を悪くしたと考えると、ヒナコの中では命綱を失ったような深い絶望感が渦巻いた。


「ただいまぁ……」


 玄関を開け、力無く帰宅を告げると、底冷えするような声がヒナコを迎えた。


「ヒナコ」


 ヒナコは顔を上げ、玄関の土間から声の主を見上げて口を開く。


「あ、おかぁさ――」


「夕食の一時間前までに帰れない場合には、家に連絡を入れる決まりでしょう?」


 ヒナコの言葉を遮って、玄関に立つ母親が冷たい目で彼女を見下ろしていた。その立ちはだかるような姿は、答えるまでは家に入れない、そんな意志が伝わってくるようだ。


「あ……ご、ごめんね。忘れてたよ……」


 面目なさそうに俯いて、肩を竦めて小さくなるヒナコ。


「次に同じことがあったら、夕飯を用意していても貴女には出さないからそのつもりでね」


 母親は背を向けて去って行った。


 ヒナコは萎れた花のように俯きながらも夕食に遅れる訳にはいかない為、制服のままで食卓へと急ぐ。


 板張りの長い廊下を進む途中で、自室から出て来た姉妹に鉢合わせ、ぶつかりそうになった。


「危なっ――ちょっと、ちゃんと前見て歩いてよ、ただでさえ鈍いんだから」


「ヒナコお姉ちゃんだし、前向いてても何かにぶつかりそうだけどね」


 姉は母親譲りの冷たい目でヒナコを睨み付け、妹はあからさまに小馬鹿にした言葉と態度を選び取っている。


「あ、ごめんね……ちょっと考え事してて……」


 家族の中で一番小柄なヒナコは、自然と姉妹を少し見上げる形となった。


「考え事って、アンタに何かを悩む頭なんてないでしょう?」


「ヒナコお姉ちゃんのことだから、悩みが無いことに悩んでるんじゃない?」


 ヒナコと違い、見るからに利発そうで実際に優秀な姉妹が揃って嘲笑を浮かべる。


 そこに、低い男の声が響いて来た。


「何をしている、早く席に着きなさい」


 ヒナコの父親だ。


 それに対し、姉妹は淑やかに、ヒナコはどもりながら返事をして、全員が着席したところで夕食が始まった。


「成績の方はどうなんだ」


「もちろん、落ちてないわよね?」


 少し冷たい印象がその怜悧さを際立たせるような相貌の両親が、ヒナコの姉妹に向かって尋ね、二人はそれぞれ問題の無いことを伝える。


 対し、優秀な姉妹とは違い、ヒナコは幼い頃に家の教育方針に耐えかねて、その心身を壊し病んでからは、一度たりとも両親から成績のことを聞かれたことはない。


 ヒナコの前では、姉妹が成績と勉強の進捗を両親に報告している。


 当然、聞かれてもおらず、誇れるような成績もないヒナコが会話に加わることはなく、端の席で背中を丸め一人もそもそと食事を取る他ない。


 家での疎外感や居た堪れなさは慣れっこだったが、先程のテツヤとの一件もあり、今日は彼を思い浮かべて寂しさを埋めることもためらわれた。


 しかし、そんなヒナコにも定期的に発言の機会が与えられるのは、皮肉にもその彼に関すること。


「ヒナコ、テツヤ君とはどうだ」


 父親の常時鋭い眼光が、ヒナコの方へと向けられていた。


 先程、ヒナコが一方的に癇癪を起して別れて来たところに、非常にタイムリーな話題である。


「な、仲良くしてるよぅ……?」


 ヒナコは誰が見ても怪しい態度でそう答えた。


 他の家族達が、多分な憐れみを含んだ視線をヒナコへと向ける。


「……テツヤ君には良くお礼を言っておくように」


「そうよ、受験だって学校生活だって、貴女テツヤ君に頼りきりでしょう」


「テツヤくん、絶対にアンタのこともあって進学高校のレベル下げたんだからね」


「あ~、やっぱりそうなんだ。テツヤさんならもっと上の高校行けたもんねぇ」


 実際、テツヤが進学先を選ぶ際の決め手となったのは、中学三年の時にヒナコが言った、テツくんと同じ高校に行きたい、という言葉だった為、姉妹の指摘はあながち間違ってはいない。


 母親もその当時を思い出してか、ヒナコに小言を追加しているが、一斉に話し掛けられたヒナコは、うぇ?う……?という奇妙な呻きを漏らしつつ、早くも処理不良を起こしていた。


「――もう良い。今度テツヤ君には夕食にでも来て貰いなさい。この話は終わりだ」


 父の有無を言わさぬ命令に、ヒナコが目を回しながら頷いた。


 その後は、またヒナコを除いた会話が続き、やがて夕食が終わった。


 食堂から自室へと戻る道すがら、前を歩く姉妹がヒナコに向かってこう言った。


「アンタさ、テツヤくんに迷惑掛け過ぎ、朝くらいは自分で起きなさいよ」


「付き合ってる訳じゃないんでしょう? 寝顔とか見られて良く平気だよね~」


 もっともな指摘であるが、それを受けたヒナコは、全く別のところで雷に打たれたような衝撃を受けていた。


 明日の朝、どうやって起きよう……。


 普段ならば、テツヤに頼み込んで起こしてもらうところだが、先程一方的に癇癪を起して出て来てしまった上、家族からの指摘で、自分がどれだけテツヤの世話になっているかを再確認した反動で、ヒナコの中での彼に対する罪悪感が尋常ではないことになっていた。


「ちょ、ちょっとっ!私っ、テツくんっ――!」


 ヒナコは血の気の引いた青い顔をして、あわあわ言いながら家を飛び出した。


 残されたヒナコの姉妹は、奇妙な物を見るしかめっ面でそれを見送った。


 距離にして数メートル。基本的に出入り自由の許しを得ているお向かいのテツヤの家までやって来たヒナコは、彼の家族にきちんと挨拶をしてから、彼の部屋へと急いだ。


「て、テツくんっ……!」


「え、ヒナコ?」


 机に向かって参考書を広げていたテツヤが目を丸くする。


「ご、ごめんねっ……さっきは、私っ……酷いこと言ってっ……ごめんねっ……!」


 ヒナコは小刻みに震えながら半泣き状態でぺこぺこと頭を下げた。


「え、酷いこと?――えっと、ううん、こっちこそ混乱させるようなこと言って、ごめん……」


 テツヤも立ち上がって、律義に頭を下げる。


 彼からすれば、自身でも整理しきれていない懸念を一方的に垂れ流す形となってしまい、ユウトにもヒナコにも申し訳ない気持ちでいたし、ヒナコには後で謝罪のメールを入れようと考えていたくらいだった。


 ヒナコは仲直りできた安堵に目尻が熱くなった。


「そういえば、明日って何時から遊びに行くの? 朝は起こしに行った方が良いかな?」


 いつもの優しい微笑みで、さも当然のように尋ねるテツヤに、ヒナコは感極まって飛び付いた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る