第3話『情動』


「あの、ごめんね、テツくん……」


 帰りのホームルームが終わるなり、テツヤの席まで駆け寄って来たヒナコが、開口一番に謝罪した。その表情は硬く、何か思い詰めているようだ。


「え、どうしたの?」


 珍しいヒナコの言動に、テツヤは困惑した。


 テツヤが席まで迎えに来るのを待たず、ヒナコの方からやって来るなど滅多にある事ではない。


 いつもと違うヒナコは、目を伏せたまま言い辛そうに続けた。


「今日ね……ユウトくんとね、帰るから……別々に、帰ろ?」


 それを聞いた瞬間、テツヤは自分の見開かれた眼球や唾を呑む喉元が、何か重くて硬い物に変質したような感覚に陥った。


 「じゃあね……」


 テツヤの返事を待たず、ヒナコは俯いたまま去って行った。


 離れるヒナコの背中を見て、テツヤの胸中には焦燥とも寂寥ともつかない感情が湧き上がる。


 その不可解な情動に、決して少なくない苛立ちを覚えるテツヤ。無論、それを表に出すことはないが、原因が掴めないというのは彼らしからぬことだった。


 するとそこに、狙い澄ましたかのように二人の女子がやって来た。


「ねぇテツヤ君、良かったら一緒に帰らない?」


「偶には付き合ってよ~」


 対し、テツヤはほとんど反射的に答えていた。


「え――あ、うん、一緒に帰ろうか……」


 二人の女子は小さく飛び跳ねたり、密かにガッツポーズして喜んだ。


 昇降口を出て、テツヤ達が横目で望む校庭では、幾つかの運動部が声を張り上げて練習に精を出していた。


「そういえば、今日は陸上部ないの?」


テツヤが、右隣を歩く少女に話し掛ける。


「うん、今日は他の運動部が校庭を全面使うから休みなんだ~、って私が陸上部に入ってることテツヤ君に言ったっけ?」


「入学した時に俺達が最初に話したのって、お互いどこに入部するかって話題じゃなかったっけ。それに、この前の全校集会でも表彰されてたし、有名だよ」


 テツヤは薄く笑って何気なく答えたが、言われた彼女は、覚えててくれたんだ……と琴線に触れるものがあったようだ。


「そ、そういえば、テツヤくんって今回の実力テスト何位だったの?」


 今度は、テツヤの左隣を歩く少女が慌てたように話を振った。


「あー……今回は運良く一番だったんだ。山が当たって、ついてたよ」


 実際は満遍なく勉強していた成果だが、テツヤがそれをひけらかすことはない。


 そんなテツヤの両隣からは、小さく黄色い歓声が上がる。


 それに対し悪い気はしないものの、テツヤは少しだけ反応に困ってしまう。


 何せ、彼が勉強に運動にと頑張っているのは、褒めてもらう為でも、周囲に誇示する為でもなく、ただただ幼馴染の助けになりたいが為なのだから。


 テツヤは二人の話に相槌を打ちながら、頭の中ではいつも自分の隣にいた幼馴染のことを思い浮かべる。


 ヒナコは、どうしているだろうか……。









 テツヤのいない帰り道。ヒナコの人生史上、過去にもそう何度もあったことではない。


 しかも、ヒナコが自分から別々に帰りたいなどと言い出したのは、これが初めてのことである。


 ヒナコは、教室でテツヤが見せた反応を思い出し、少しばかり胸が痛むような、逆に弾むような、不思議な心持ちとなった。


 また、教室ではあんな風に一方的に告げて逃げて来てしまったことを思うと、次にテツヤに会うのが少し怖いような、逆に楽しみなような――と、ヒナコは唇を波打たせて自身の複雑な心境を現した。


「そんでよ、前の学校じゃエース扱いでマジ扱き使われたわ~」


 隣では、ユウトが転校前の高校での活躍振りを語っている。


 それを聞きながら、やっぱりユウトくんはすごい、とヒナコは思った。


 そんなに勉強も運動もできる人など、ヒナコは一人しか知らない、というか、今まではその人のことしか知らなかった。


 ヒナコの脳裏に、長年を共にし、いつも助けてくれた幼馴染の姿が思い浮かぶ。


 もし、ユウトくんと楽しく帰ってる今の様子を知ったら、テツくんはなんて思うだろう? などと子供じみた興味と悪戯心が沸き起こる。


 そうして、ヒナコが想像の中で、どこか嗜虐的にテツヤを弄んでいると――。


「え……」


 それを目撃した瞬間、ヒナコはカクリとバランスを崩して足を縺れさせ、そのまま歩みを止めてしまった。


「ァア? どうした、ヒナコ?」


 それまで隣を歩いていたユウトが、振り返ってヒナコに目を向ける。


 ヒナコは足を止めたまま呆然とした表情で、ある一点を食い入るように見詰めていた。


 ユウトがその視線の先を追うと、そこには――。


「お、あれテツヤじゃん。つーか、学校でもトップクラスの女二人も侍らせて下校かよ」


 ユウトが獰猛な笑みを浮かべる。


 ヒナコは茫然と立ち尽くしたまま、自分がなぜ驚いているのか、なぜ身体が動かないのか、よく分からなかった。


 あの女子二人がテツヤと共に帰ることは分かっていたし、そういう手筈でヒナコ自身も協力をしたのだ。


 それなのに……っ!!


 背筋と心臓が凍り付いたように冷たく、しかし、頭と腹の底だけは何かが煮え滾るように熱かった。


「あーあ、あの女共は確実にテツヤ狙いだな」


 ユウトの言う通り、二人の少女はテツヤの返答に一喜一憂し、微笑み掛けられればその頬に朱が差している。実に分かりやすい反応だった。


「あのレベルの女がテツヤ狙いで来たんじゃあ、他の女じゃ無理だろうなぁ~。なぁ、ヒナコ?」


 ユウトが挑発するようにヒナコに問いかける。


 そして、その問いはヒナコの頭の中で何度も響き渡った。


「ねぇ……ユウトくん……明日、一緒に遊びに行かない……?」


 ヒナコはじっとテツヤの姿を目で追いながら、ほとんどうわ言のようにユウトを誘う。


「おう、いいぜ」


 そう返事をしたユウトの顔には、裂けるような笑みが浮かんでいた。

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