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 廊下の突き当りの通用門を駆け下りると、綾子は駐輪場に向かって駆けだした。靴は上履きのままだが、構うもんか。

 「山下さん!」

 綾子は、自転車に跨ろうとしていた琴美に走り寄った。ゼイゼイと切れた息を、琴美の自転車のサドルに手を置くことで整えた。

 「ゴメンね。最後にちょっと話をしたくって」

 「はい・・・」

 例の一件により、琴美は学校側からの転校を薦められ、実質、追い出された形になっていた。その『処分』に反対した綾子の意見が通らなかったのは、金子代議士がより上層の、つまり県教育委員会に圧力をかけた結果である。その意向を受けた学校側は、綾子のあずかり知らない所で画策し、いたって平穏な形で琴美に転校を決断させるという裏工作に成功したのであった。この学校に登校するのは、今日が最終日であった。

 上履きや勉強道具などを自転車に満載した琴美は、ヨロヨロと学校を後にしようとしていたのだった。自転車に乗り切らない物は、後から祐介が持ち帰ってくれることになっている。

 綾子は琴美の顔を見つめた。その少し落ち込んだ様子は、望まぬ転校のせいであると思った。

 「結局、あなたを庇い切れなかったことを謝るわ。ごめんなさい」

 そう言って頭を下げる綾子に、琴美が言った。

 「いいんです。終わったことは、もうどうしようもありませんから。先生こそ大丈夫なんですか?」

 それは、最近の綾子と学校側の対立の構図に関してであった。

 「大丈夫。私、校長に辞表を叩き付けてやったわ。もう、こんな学校とはおさらばよ」綾子は笑った。サバサバした表情で。琴美はビックリした表情のまま聞いた。

 「えっ、辞めて、これからどうするんですか? ひょっとして、代議士婦人ってやつ?」

 綾子は少し声を落とした。

 「ううん、あれも無し。何もかも嫌になっちゃってね。あっちの方も断っちゃった」そう言ってペロリと舌を出した。

 「って言うか、どうしてそのことを知ってるの?」

 「だって佳澄が自慢気に言いふらしてたから・・・」

 「あの子ったら・・・」

 顔をしかめる綾子に琴美は言った。

 「でも良かった。イジメられたのが私で」

 「えっ?」

 「だってそうでしょ? もしイジメられていたのが祐介で、先生が彼を守ろうとしなかったとしたら、私、絶対に先生のことを許さないだろうから」

 「・・・・・・」

 「だから祐介は、絶対に先生のことを許さないと思う」

 その言葉を聞いて、己の浅はかさに気付く綾子であった。自分は何を期待していたのだろう。琴美に許されると思っていたのか。確かに小笠原の件で琴美たちを庇ったことは事実だが、それによってこれまでの自分の行いがチャラになるとでも思ったのか。琴美から感謝の言葉でも貰えるとでも期待していたのか。自分の中で勝手にバランスをとって、全てが無かったことになるとでも?

 子供の泣き顔の様に、綾子の顔が歪んだ。その目からはボロボロと涙が流れ落ちた。綾子の喉から苦し気に、むせび泣きが漏れ始めた。琴美は何も言わなかった。

 自分の自己中心的な行動を、琴美たちが有り難がるのを当然だと勘違いしてはいなかったか。教師であれば、教え子を守ることこそ当然のことで、それを大上段に振りかざしてあたかも自分の手柄の様に、あたかも称賛されるべき美談ででもあるかのように思い込んではいなかったか? 結局、教師を辞めるのも、そこから目を背け続ける為ではないか。大切な物を置き去りにして逃げ出す卑怯者ではないか。

 綾子の喉を締め付けながら嗚咽が溢れ出した。もうそれ以上堪えることが出来なかった。子供の様にしゃくり上げながら、綾子は琴美の顔を見つめ続けた。

 自己満足に浮かれた綾子の心の隙間に、これまで琴美が舐め続けてきた悲哀や絶望が流れ込んで来て、彼女の心を溢れさせた。それらに比べたら、最後の辻褄合わせのために自分が行った『善行』など、取るに足らない細事であった。今まで自分が考えていたのは自分のことだけだ。琴美が背負い続けた物の重さを、自分自身に置き換えて考えたことすら無かった。

 綾子は声を上げて泣いた。許されざる己の行為に自分自身が打ちのめされた、救いようの無い惨めな人間がそこに居た。既に教師としての威厳など、一欠けらも無かった。その場にひれ伏して、琴美に許しを請うことが出来たなら、どんなにか楽だったであろう。しかし既に、そのような贖罪が手遅れであることが、さらに綾子を叩き伏せた。それでも二人は見つめ合ったままだった。

 高校生活の三年間など星の瞬きの様に儚く、それは一瞬の輝きに過ぎない。だがそれ故に、その時間は決して色褪せることの無い宝石であらねばならぬ。そこに教師という立場で立ち会うのであれば、充分な覚悟と思慮と責任をもって全ての事に当たるべきなのに。自分が生徒たちに加えた残酷な仕打ちは、決して消えることなど無いのだ。琴美にとっても、そして祐介にとっても、それは決して風化することは無く、忘れることなど出来ない傷となって刻まれてしまった。加害者である自分が、それを忘れても良い道理など、何処を探したって無い。自分はその行いの責任を、十字架として背負い続ける人生を送るべきなのだ。

 「わたし、もう行かなくちゃ」

 そう言って琴美は自転車に跨り、綾子に背を向けて走り出した。その背中に向けて綾子が声を上げた。

 「山下さん!」綾子は声を振り絞った。

 キキーッという音を立てて自転車は止まり、琴美はそのままの体勢で振り返った。綾子が言った。

 「貴方たち・・・ 眩しかったよ・・・」そう言うのが精一杯であった。

 ほんの少しの間、二人はまた見つめ合った。

 琴美が言った。少し、優し気な表情で。

 「さようなら、先生」

 校門を出る琴美の後姿が見えなくなるまで、綾子はずっと見つめていた。

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