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 ダイニングテーブルを挟んで勲と琴美は向かい合っていた。琴美は説得も弁解も諦めていた。父、勲が感情的になっている時は、何を言ってもダメなことが判っていたからだ。過去には、自分の我を通すことを試みたことは有ったが、その度に父の自分に対する侮蔑の感情が膨らんでゆくことを感じた琴美はいつしか、ただ口を閉ざして俯くことが最も前向きで生産的な行為であることを理解していた。母の加奈子は琴美の隣に座ることで、娘を庇う母親の役を、何とかして演じようとしているようだ。たまたま仙台から帰省していた詩織は、ローテーブルの前に一人座って、コーヒーを飲みながらテレビを見ていたが、事の成り行きを見守る様に全神経をこちらに振り向けているのは明らかだった。

 「相手のお嬢さんには謝ったのか?」

 「いいえ。私が謝る必要は有りません」

 琴美の意外にも毅然とした態度に驚いた勲であったが、それは一瞬のことで、むしろ自分にたてつく娘に逆上した。

 「何だと! 相手に怪我をさせておいて、何だその言いぐさはっ!」

 「佳澄はずっと私のことをイジメてたのよ! 今までずっと我慢して来たけど・・・」

 「イジメだと!? そんな話は聞いてないぞ! そもそもお前が弱っちいからイジメられるんだ。情けない」

 「本当なの、琴美。イジメられてたって」母の言葉に、琴美は黙って頷いた。

 「イジメられたなんて負け犬の戯言だ! 言い訳だっ! イジメられたらイジメ返すくらいの意気込みが無くてどうする。そんなことで泣き言を言う様な奴は、勉強でも何でもモノにならん! 将来、社会に出ても何も成せない底辺の人種だ!」

 拳をギュッと握り締め、琴美は唇を噛んだ。あまりにも強く噛み過ぎて、その唇からは血が滲んだ。

 「それなのにダイビングだか何だか知らんが、下らんことに入れ込みおって! そんなんじゃ医学部に入るなんて無理だ! 諦めろ! お前なんかに医者が務まるもんか! そんな責任の重い職業に就けるわけが無い! つまらん会社に就職して、精々、OLにでも成るのがオチだ! お前に出来るのはその程度だ、バカ者がっ!」

 勲が吐いて捨てる様に言い放った時、「ガシャンッ」と耳障りな音が鳴り響いた。テーブルの三人が音の方を振り向くと、テレビを見ていた詩織がコーヒーカップをテーブルに叩き付けたことが判った。カップからは、殆ど飲んでいないコーヒーがこぼれて、ローテーブルを濡らしていた。

 詩織は立ち上がり、ダイニングテーブルの脇にやって来た。その顔は紅潮し、目は怒りに燃えていた。握り締めた拳はブルブルと震えていた。

 「何それ?」

 「へっ?」詩織に見下ろされる形の勲は、その言葉が自分に対して発せられているという事実を受け止め切れず、長女の顔をポカンと見上げた。

 「医者がどれ程偉いと思ってるの、お父さん?」

 「いや・・・ それは・・・」

 「医者が何様だと思ってるのかって聞いてんのよっ!」詩織がテーブルをバンと叩いた。

 「どうしたの・・・ 詩織ちゃん・・・」加奈子の声だ。

 「お姉ちゃん・・・」琴美も言葉を失っている。

 「責任が重いですって? そりゃそうでしょうよ。人の命を預かるんだもん。でもね、それ以外の仕事がつまらないなんて、よく言えたわね? お父さんが食べてるご飯だって、誰かが栽培してくれたんじゃないの? お父さんが着てる服だって、誰かが工場で作ってくれたんじゃないの? そういったことに感謝もしないで、自分たちがお高い所に居るなんて、ただの勘違いでしょっ!?」

 「しかし、お前だって医学部に入って医者になったじゃないか」この勲の言葉が、詩織の怒りに油を注いだ。

 「私が好きで医者になったと、本気で思ってるのっ!? 私が喜んで毎日毎日勉強してたと、本気で思ってるのっ!? 私だって遊びたかったわよ! でもお父さんの言いつけ通り、それを我慢して我慢して・・・ 私の青春、返してちょうだい! 私の高校三年間を返してっ! 私は医者になんてなりたくなかったのよっ!」

 突然の詩織の怒りにオドオドしていた勲であったが、娘に言い負かされている自分が途轍もなくかっこ悪いことに思いが及び、反撃を開始した。父親としての威厳を取り戻さねばならぬと思った。

 「お前も琴美も私の娘だ! 私が正しいと思う方向に導いて何が悪い!」

 「琴美は私の妹よ! 妹を守って何が悪い! 私の妹を侮辱したら許さないから!」

 「お父さん、落ち着いて」加奈子だ。

 「お母さんは黙っていなさい!」勲が吼えた。

 「お姉ちゃん、落ち着いて」琴美だ。

 「あんたは黙ってなさい!」詩織も吼えた。

 琴美と加奈子は、突然始まった盛大な親子喧嘩に挟まれて、ただオロオロするだけであった。

 「だいたい、琴美がイジメられてるのに気づきもしなかったクセに、何で父親面してんの? 家族が守ってあげなくて、いったい誰が守るのよ! 自分の勝手な価値観を私たちに押し付けてるだけじゃないっ!」

 「イジメられる方が悪いと言ってるんだ!」ここまでくると、売り言葉に買い言葉であった。

 「ふざけないで! 親の責務を放棄しておいて、偉そうなこと言わないで! 今まで誰が琴美のことを守ってくれていたかも知らないくせに!」

 「うるさい! だいたい、何でお前が家に居るんだ!? 今は忙しい時期じゃないのか!?」

 「そんなこと、お父さんには関係ないでしょ! 用が無きゃ実家に帰ることも許されない程、医者って偉いのっ!? バカバカしいっ!」

 本当は、祐介からのLINEを通じて琴美の苦境を知り、急いで仙台から駆け付けたのだ。いくら祐介と言えども、家庭内のいざこざにまで介入することは出来ないので、詩織にヘルプ要請が来たのであった。ライセンス講習の時に知り合って以来、二人が琴美のことでメッセージのやり取りしていたことは、琴美も知らなかったのである。



  詩織さん!

  ヘルプ要請です!


                何何?

                どーした祐介君?

                琴美と喧嘩でもした?


  例の佳澄って子と琴美

  が衝突して、相手が怪

  我してしまいました


                マジ?

                相手の子は大丈夫?


  大丈夫です。

  ただ話が大きくなって

  琴美が追い詰められて

  ます


                追い詰められてる?



  退学にさせられそうで

  す!


                何それ!?

                どういうこと?


  相手の親がしゃしゃり

  出てきて、勝手に話を

  進めてるらしいです


                マズいね。

                うちの両親が庇ってく

                れるとは思えないし


  そうなんです!

  さっき、両親からも責

  められると思う、って

  メッセが来ました


                オッケー、判った。

                間に合うかどうか判ら

                ないけど、直ぐに家に

                帰るよ


  有難うございます。

  琴美を守ってあげて下

  さい


                祐介君の方こそ

                教えてくれてサンキュ



 「お父さんが医院長室でふんぞり返っている間に、琴美がどんな辛い目に遭っていたか知ってるの? 知ろうともしなかったんじゃないのっ!? それでも家族だなんて言えるのっ!?」

 どう見ても詩織の方が優勢であった。勲が何か言う度に、何倍にもなって帰って来た。そして次の言葉が、勲の最後の抵抗となった。

 「イジメられるのは、イジメられる方に責任があるんだ。そうに決まってる!」

 「お父さんのせいで・・・ お父さんがそんなだから、琴美がイジメられてたのよっ! 全部、お父さんのせいなんだからねっ! 判らないの!? 琴美に謝って! 私の前で今すぐ琴美に謝って! これ以上、琴美を傷付けたら、私、絶対に許さないっ!」

 何だって? 自分のせいで琴美がイジメられていた? 何を言っているんだこいつは? 予想だにしない詩織の通告に、勲は言葉を失った。

 「お姉ちゃん、もういいよ・・・ ありがとう。でも・・・ もう、お父さんを許してあげて・・・」

 肩で息をする詩織を後ろから抱きかかえ、背中におでこを押し付けていた。嬉しくて涙が止まらなかった。そして勲の方に向き直るとこう言った。

 「お父さん・・・ 私・・・ お父さんの希望を叶えてあげることは出来ないと思います。許して下さい」

 琴美は、勲の前で頭を下げた。

 加奈子はハンカチで目頭を押さえていた。

 勲は黙って視線を逸らした。

 詩織は振り返り、妹をしっかりと抱き締めた。

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