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それは、男子と女子が分かれて行う保健体育の授業の前に勃発した。男子生徒の居ない教室で、二人の女子生徒が言い争いを始め、残りのクラスメイトたちはそれを取り囲んでいた。
「うるせぇんだよ!」
その声には、若干の狼狽に似た色が含まれていた。それもそのはずである。いつもだったら黙ってイジメられているだけの琴美が、初めて佳澄に逆襲して来たのだから。それに驚いた佳澄は、ビックリして慌てた様子が周りの皆に感付かれてしまったことに腹を立て、自分で自分の火に油を注いでいた。その証拠に、佳澄の取り巻きたちは、リーダー格の佳澄とともに狼狽えた様子だ。その二人と数人を取り巻くように、他の生徒たちが更に囲むという構成になっていた。
「なんでそんなことばっかりするのよっ!?」
「うぜぇんだよ! お前はよ!」
小笠原の写真を探し出してSNSで拡散したのは、言うまでも無く佳澄の仕業であった。元来、佳澄にダイビングの趣味など無い。従って、そういったWEBサイトを閲覧する理由など無いわけだから、そこには琴美に対する悪意しか見当たらない。当てもなくインターネットを漁りまくり、遂に祐介と琴美の写真を見つけ出したその執念には頭が下がる思いだが、有りもしない作り話を添えてそれを拡散することで、祐介を巻き込んだことが許せなかった。佳澄が拡散した情報によると、琴美と祐介はこの夏二人で小笠原で過ごし、毎晩ホテルで「ヤりまくった」らしい。終いには、妊娠しても山下医院で中絶手術を受けられるので、祐介はコンドームすら着けず、琴美の中に「出しまくった」ということになっている。
「あんた、そんなことして何が楽しいの!? そんな下らないことやってる暇が有るなら、もっと別なことやりなさいよ!」
「うっせぇっつってんだろっ! おめぇがうぜぇからやってるんだよ! 悪ぃかっ!」
先ほどから佳澄は、「うぜぇ」と「うるせぇ」としか言っていなかった。その点からしても、彼女の行動に合理的な理由付けが出来ないことが明白であり、言い争いの勝敗の行方は、むしろ琴美の方に有利に流れつつあった。佳澄本人も自分が劣勢に立たされていることに焦りを感じ、なおさらヒステリックに叫んでいた。元々、イジメる側が持ち出す理由に、その行動を正当化するほどの説得性など有るはずも無く、言い争えば言い争うほど、佳澄は追い詰められていくのであった。
「アンタが私のこと、とやかく言うのは構わないよ! 好きにすればいいよっ! でも並木君を巻き込んで、いったいどういうつもりよっ!」
「うっせぇんだよっ!」
そう叫ぶと佳澄は、琴美の机の横に掛けられている鞄を蹴り上げた。その瞬間、琴美の顔が引きつった。そしてその場にいた者たちは、普通の人間であれば一生聞くことが無いであろう、悲痛な叫び声を聞くことになった。
「ぎゃぁぁぁぁーーーーっ!」
それを形容するには『世にも恐ろしい』というような、ありきたりの表現しか思い浮かばない、そんな悲鳴であった。人が殺人鬼に殺される瞬間、あるいは巨大な機械に巻き込まれ、自分の身体がそれに飲み込まれつつある瞬間。そんな時に人はきっと、そのような声を発するのであろうと思わせる、悲壮な絶叫であった。
その壮絶さに佳澄がたじろいだ。琴美がその脚にすがり付いた。弾みで佳澄はバランスを崩した。
「ちょ、ちょっと何なの、コイツ」
それでも構わず脚に取り付きながら、「どけて! どけて!」と繰り返し、そのふくらはぎ辺りを拳で叩いた。だが、その行為は何の効果も生み出さないことを悟った琴美は、次に佳澄の脚を掴んで、それをどけようと試みた。遂に佳澄の身体は後ろに傾き、その脚を琴美に掴まれている関係上、体勢を持ち直すことも出来ず、その場に倒れ込んだ。その際、手を床に勢いよく突いてしまい、その手首を強く痛めてしまった。
「い、痛っ・・・ 何すんだよ、テメーッ!」
だが、琴美は佳澄の言葉など聞いてはいなかった。琴美は佳澄の足の下から現れたクジラのマスコットを取り上げた。鞄が蹴り上げられた際、ベルト部分にぶら下がっていたそれが千切れて床に落ち、佳澄の脚はそれを踏みつけていたのだ。それはシューズの底の汚れを写し取り、若干黒ずんだ上に妙な形に変形してしまっていた。琴美は急いでクジラの口のファスナーを開き、中に忍ばせてあった物を大事そうにその手に出した。あのブナの実は粉々に砕けていた。
「ちょっとアンタ、何すんのよ! この落とし前は・・・」
その脅し文句は届いておらず、琴美からの反応は帰ってこなかった。代わりに佳澄が聞いたのは、琴美の泣き叫ぶ声だった。
「壊れちゃったよー・・・ ブナの実が壊れちゃったよー・・・ 祐介の実が壊れちゃったよー・・・」
クジラとブナの実をギュッと握り締め、その両手を抱き締める様にして座り込む琴美の泣き声は、教室の壁に跳ね返されて行き場を失ったかの様に、四角い空間で木霊した。クラスメイトは彼女を取り囲み、ただ黙ってそれを聞いていた。
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