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 「ゴボゴボブバブビ! ボボボボバブバボーッ!」

 水中では何を言っているのかさっぱり判らなかったが、マスクの向こうに見える琴美の瞳はこう語っていた。

 「祐介クジラだよ! クジラの母子だよーっ!」

 真っ青な海中に浮かぶその姿は、何も無い宇宙空間に浮かぶ宇宙船の様であった。さしずめ、大きい方が母船、小さい方が移動用の小型船といったところか。ユラユラと揺れながら落ちる滝の様に、海面から刺す光の筋がクジラの背中に不思議な模様を形作った。海岸から離れているため小型魚の群れなどは見られず、それがかえって神秘的な要素を強調している。母クジラにはフジツボが至る所に張り付き、コバンザメも何匹か確認することが出来た。対して小クジラは、そういった海洋生物の洗礼をまだ受けておらず、滑らかな皮膚がスムースに水を掻き分けていた。母クジラの雄大な尾鰭は、ほんの少し振られるだけで、その巨体を推し進める強力な推進力が発生していた。琴美と祐介、その他に数名のダイビング狙いの客がコーディネーターと共に海に潜り、その雄姿を目の前にしていた。

 海面近くを漂っていた琴美と祐介は、コーディネーターのゴーサインを確認すると、クジラに向かって潜水を開始した。潜水と言っても、彼らが持つエントリーCカードのライセンスでは、水深18メートルまでしか潜れない。しかし、今、目の前に居る母子クジラに近付くには、その18メートルで充分である。子クジラに近付くと、母クジラが警戒して深深度に潜ってしまうので、彼らはコーディネーターのアドバイス通り、母クジラに向かってアプローチを開始した。バスやトラックの様な巨体に圧倒されながらも、二人は果敢にも親クジラの左前方に位置を取った。その時、とてつもなく大きな身体に対し、申し訳程度とすら言えそうな、控えめな目を発見した。それは様々な海の記憶を刻む知性に裏打ちされた、哲学者の様な雰囲気を湛えていた。二人はこの母クジラと『目が合った』と思った。祐介は、その洞察力に富んだ目に射すくめられ、打ち震える様な感動を覚えた。


 クジラは悠然と二人の前を通り過ぎ、今、目の前に有るのは分厚いゴムでできた畳の様な尾鰭であった。それは四畳半の部屋には入り切らないのではないかと思える程の広大さを誇り、その一掻きで押し出される水量は人間の想像を絶する。琴美はその尾鰭に近付き、そして腕を伸ばした。尾鰭はそれ一つで何かの生き物であるかのように緩慢な上下運動を繰り返し、その折り返しの際、僅かに琴美の手にその感触を残した。二人の前を通過した母子クジラは、黒い影となって徐々に曖昧な青へと変化ていき、次第にその形に意味を結ぶことが難しくなっていった。そして再び、青い宇宙へと姿を消した。

 青の彼方でクジラが鳴いた。その後に少し高い声で、短い鳴き声が続いた。おそらく母子で何やら会話しているのであろう。その声は、何だか物悲しい響きに満ちていたが、同時に、人に語り掛ける様な優しさを伴っていた。心を揺さぶられるような感動が二人を覆った。クジラが人間に何かを語り掛けるようなことなど、きっと無いのだろう。それは人間の勝手な解釈で、都合のいい様に曲解、あるいは演出しているに過ぎない。それでも何かを伝えようとしていると感じるのは何故なのだろう。二人は水中に漂いながら、興奮した目で声のする方を見つめた。

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