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 船が港に戻って来た。ホエール・ウォッチングを終えた興奮も冷めやらぬ乗客たちは、ホテルや民宿など、各々の宿へと移動を開始した。この中の一部は、祐介と琴美と共に明日からのダイビングにも参加する予定だ。二人は日程を切り詰めるため、晴海を出たフェリーから島に降り立ったその足で ――つまり宿にチェックインする前に―― ショップが用意したホエール・ウォッチングに出ていたので、ボストンバッグをゴロゴロと引きながら予約した民宿へと徒歩で移動した。仙台の姉の所に遊びに行くという嘘で両親からの外泊許可を得た琴美であったが、金銭面を考えると、やはり宿泊数を切り詰める必要が有ったのだ。

 部屋に通された二人が見たものは、民宿の母屋から庭を挟んで建てられている別棟であった。木造平屋で、内庭に面した廊下を持つ昔ながらの間取りだ。それは若い二人にとっても、なんだか懐かしさを感じさせた。ただ問題は、泊り客が琴美と祐介の二人だけだということだ。琴美の勝手な予想では、同じような客がゴロゴロと居て、ワイワイ賑やかな状況を想定していたのだが、これではまるで隔離された家に祐介と二人きりで住んでいるのと同じ状況ではないか。すかさず琴美は民宿の女主人に話をしてみたが、年老いた彼女は「この年では、大勢の客を受け入れることが出来ないから」と、何事も無い様に笑った。金額を抑える為に安宿を選んだのだが、まさかこんなことになるとは思わなかった。なんとなく気まずそうにしている琴美に向かって、祐介は言った。

 「大丈夫だよ。俺、こっちのソファぁで寝るから」

 「ううん、いいよ。そんなんじゃぐっすり眠れなくて、明日、海ん中でトラブルになるよ」

 そう言いながらも、やはり一つの部屋に布団を並べて眠るという『冒険』に、心が揺り動かされる二人であった。

 夕食は女主人による心づくしの手料理で、豪勢とは言えないながらも、海の幸をふんだんに使った素朴で素敵なものであったが、その後に待ち構えているであろう、部屋での出来事を考えると、何を食べても味なんかしなかった。それは祐介も琴美も同じであった。

 母屋に呼ばれて採った食事が終わり部屋に戻ると、そこには普通に布団が並べて敷かれていた。二人は妙な感じで言葉を交わすことも無く、先に琴美が備え付けの風呂を頂いた。引き続き祐介が入り、バスタオルで髪を拭きながらバスルームを出ると、既にパジャマに着替えた琴美が、右側の掛け布団の中ではなく、その上にうつ伏せで寝転がってダイビング雑誌を読んでいた。祐介は何処に腰を落ち着けたらよいか判らず、窓際のソファに座った。二人の雰囲気は、いつもと違ってギクシャクしていた。琴美が祐介の方を振り向きながら言った。

 「明日、クジラと泳げるといいね」

 普通な感じの琴美に釣られ、祐介も普通に応えた。

 「そうだね。天気は良いらしいよ」

 琴美は笑った。祐介も笑った。そして沈黙が続いた。祐介はテレビでも見ようかと、一旦はリモコンを手に取ったが、それよりも琴美の声を聞いていたいと思い直し、それをテーブルに戻して話しを続けた。

 「今日の母子クジラ、明日もこの辺に居るのかな?」と問う祐介に琴美は応えた。

 「うぅ~ん、どうなんだろう。でも、あの母子、もう一度海の中で見てみたいよね」

 「そうだね」

 また祐介が笑った。そして琴美も笑った。またしても沈黙が訪れたが、今度は琴美がそれを破った。

 「疲れたね。寝よっか?」

 「うん」

 「こちらへどうぞ」

 そう言って琴美は、左側の布団を指差した。その目はジッと祐介を見ていた。ここで意地になって固辞するのも、かえって変な具合になりそうだったし、祐介は誘われるがまま掛け布団の上に身体を横たえた。二人は黙って仰向けになり、並んで天井を見た。

 琴美は思っていた。もし、祐介とそういうことになるのであれば、それを自分は受け入れようと。高校生の男女が二人っきりで一つの部屋で夜を明かせば、そういうことになるのは必然である。それはある意味、健全なことだとも言えた。そういったことを忌み嫌うほど、自分は潔癖でもないし子供でもない。普通の女子高生並みに、好奇心だって有るし性欲だってある。ただ、そういった『流れ』ではなく、自分は意思を持ってそれを受け入れよう。祐介という相手を受け入れよう。もし祐介がそれを求めるのであれば。

 でも・・・ と琴美は思った。もしかしたら祐介は、それを求めて来ないような気もした。祐介は、何よりも自分のことを大切にしてくれていることを、琴美は痛切に感じていた。その祐介が、私との行為を求めてくる姿が、どうしても想像できないのであった。祐介のそういった優しさは、自分にとって何物にも代え難い宝物である。重さを持たない真綿に水が沁み込むように、彼の優しさはスカスカになった琴美の心に浸透し、そして溢れそうな喜びや安心で満たしてくれた。

 琴美は腕をずらして祐介の右手を握った。祐介がそれを握り返した。二人は仰向けのまま手を繋いだ。祐介が言った。

 「あのさ、琴美・・・」

 祐介が言い終わる前に、琴美が言った。

 「大好きだよ、祐介」

 祐介がフッと笑った。そして言った。

 「あぁ~、先に言ったな」

 琴美が言った。

 「当たり前じゃん。だって祐介は・・・」

 涙が溢れて言葉が続かなかった。これまでの色々なことが一気に駆け巡り、琴美を支えていた何かを押し流してしまった。辛いこと、苦しいこと、悲しいこと、それから楽しいこと、嬉しいこと。それらが心の中で泉の如く溢れ出し、永遠に続くかと思われた。琴美は号泣した。祐介の右手を握り締めたまま、涙を拭うことも無く、声を押し殺すことも無く。その声は開け放った民宿の窓を抜け、暗く澄んだ空気に溶け込み、打ち寄せる潮騒に紛れて消えた。


 ひとしきり泣いて左を向くと、身体を右向きにした祐介が、優し気な顔で琴美を見つめていた。

 「ゴメンね。泣いちゃった」

 祐介は黙って、琴美の顔に残る涙の欠片を優しく拭った。琴美が身体を左向きにすると、二人は見つめ合う形になった。それでも繋いだ手は離さなかった。

 そして二人は話をした。二人のこと。これからのこと。そして夢のこと。どうということも無い数々の話が止めどなく続き、このまま朝を迎えてしまうのではないかと思えた。だが、話している内に、いつしか琴美は眠りに落ちていった。それを見た祐介はそっと明かりを消すと、自分も目を閉じた。やがて二人の寝息が交差し始め、小笠原の夜はそれを優しく包み込んだ。

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