第三部

第一章:小笠原

1

 僅かに湾曲する青い線がそこには有った。青い線の上側は青。その下側も青。青と青がせめぎ合い、その狭間に横たわる青い線だ。定規を当てて透かして見れば、それはひょっとしたらほぼ直線なのかもしれなかったが、それを見る人の心には、緩やかな弧を描かんとする線の意思が伝わって来て、それがあたかもなだらかな傾斜を秘めているように見えるのかもしれない。それは、この世には直線で形作られる物など存在せず、全てのものが曲線の集合体で表されるという摂理を、身をもって証明しているのかもしれなかった。直線によって真っ二つに切り分けられる物など、数学の概念的な世界にしか存在し得ないのだ。

 その下側の青に虫食いの様に存在する、白い特異点が波を掻き分けてゆっくりと進んでいた。小笠原のダイビングショップ、OZ DIVER'S STUDIO が所有するダイビングボート、ラブアイランド号だ。全長45フィート、総重量12トンからなる45人乗りの白い船体が切り裂く波はさほど高くはなく、比較的穏やかな小笠原の海を微速で航行していた。船頭を洗った波は長く尾を引き、真っ青な海原にいつまでもその航跡を留めていた。港から付きまとっていたカモメたちは、それが漁船ではないと判るのか、魚のおこぼれに与かれないことを悟ったかのように、いつしかその姿を消していた。

 その時、乗客から歓声が上がった。

 「おぉぉ!」

 イルカであった。好奇心旺盛なイルカの小さな群れが、船と並走するように現れた。彼らはお互いに、右へ左へとポジションを入れ替えながら、時には楽し気にジャンプなどを見せて、乗客たちの目を楽しませてくれた。その姿は自由そのものだ。もし、あんな風に、縦横無尽に海を泳ぐことが出来たなら、と全ての乗客たちが憧れの気持ちを抱いたであろうその時、船上に取り付けられたスピーカーを通して、船長の声が響いた。

 「右舷、3時の方向に潮吹き。多分、2頭。子連れの母子クジラだと思われます」

 最初の潮吹きに続いて、小さな潮吹きが起きた。再び乗客が声を上げた。

 「おぉぉぉぉーーーーっ!」

 小笠原の強烈な日差しがその潮吹きを容赦なく射抜き、それを通過して海面に届く間際に微かな虹を残した。

 「あの小っちゃい方が子クジラだな!」

 「やだー、可愛いー!」

 明日からのダイビングに向けて、今日は船上からのホエール・ウォッチングの日として割り当てられていた。ダイビングでクジラと泳ぐには、それなりの幸運が必要だ。このツアーにエントリーした全ての人が、運良く目的のクジラとの遊泳を楽しめる保証は無い。そういったケースに備え、客の欲求を満たす最低限のアクティビティとして、船上からのホエール・ウォッチングがツアーに盛り込まれている。クジラと共に泳ぐことに比べ、見るだけであれば、かなりの確率で成功するからだ。

 琴美は目を輝かせながら、祐介の手を握った。興奮してその手を振りながら、船の欄干に身体を押し付け、子供の様にはしゃいだ。

 「見て見て、祐介! あっ、また!」

 いつも明るい琴美であったが、こんなにも楽しそうな彼女を見るのは初めてであった。祐介は、明日、クジラと一緒に泳げる幸運が二人に訪れることを願った。もし、琴美のその夢を実現させてあげられるのなら、祐介は自分の大切な何かを失っても構わないとさえ思えた。

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