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 ダイビング講習が始まった。まずは座学だ。二人は机を並べ、学校での授業の延長の様に講義を受けた。琴美は、習ったことを大学ノートに書き留め、赤や黄色のマーカーでアンダーラインを引いたりして、ご機嫌な様子だ。普段は斜め後ろの席なので、琴美の勉強する姿を見たことは無かったが、マジマジと見ると真面目な性格が表れていて、また違った琴美の一面を見付けたようで祐介も楽しく講義を受けた。

 しかし、そんな琴美の笑顔に影が刺し出した。プールでのシミュレーションだ。人工的な環境とは言え、座学と異なり実際に機材を背負って水の中に入るのは、それなりに緊張する。それは祐介にとっても同じであったが、運動が得意とは言えない琴美にとっては、より大きなプレッシャーとなってのしかかっている様だ。座学の時の楽し気な様子は霧散し、琴美は表情を硬く強張らせたまま、遂に講習の前半戦を終えた。


 詩織のマンションに戻れば、それはいつもの琴美であった。姉にあれやこれやと聞かれれば、身振り手振りでその日の講習内容を語って聞かせた。詩織も「へぇ~、そんなんだぁ~」と相槌を打ち、賑やかな夜が繰り返された。しかし、琴美の心には、滓の様な何かが沈殿していることを祐介は感じていた。それを胡麻化すために、あえて明るく振舞っているのだ。そんな琴美の内心は、手に取るように判った。そしてそれは、詩織にしても同じであった。実の妹の心の動揺など、姉に判らないはずは無いのだ。そして、何事も無かったように後半戦が始まった。遂に、実際の海での海中実習だ。


 琴美の顔は蒼ざめていた。緊張で呼吸が浅く、過呼吸になりはしないかと祐介を心配させるほどであった。事ある度に話しかけ、リラックスさせようと努める祐介であったが、そんな時でも琴美はぎこちない笑顔を顔に張り付けるだけだ。インストラクターからも「大丈夫ですか?」と念を押されるほどだ。唯一の救いは祐介は隣に居ることだけだ。祐介は、琴美の一挙手一投足も漏らさず注意を払い、不測の事態が起こらぬよう祈った。

 最初のシュノーケリング程度の遊泳は、何とか無事にクリアすることが出来たが、次いで水深3メートルほどに潜った時、祐介の嫌な予感が的中した。琴美がパニックに襲われたのだ。祐介の視界の隅で、琴美の動きが突然、慌ただしくなった。直ぐにそちらを向くと、琴美がマスクを外そうともがいている。こういった講習では、借り物のマスクを用いるため、顔にフィットせずに海水が入り込んでくることが有るのだ。祐介は急いで近寄り、マスククリアをするようジェスチャーを送った。しかし、既にパニックを起こしている琴美の目に、祐介の姿は入らなかった。

 座学やプールで学んだ手順は、琴美の頭から消え去っていた。琴美は、もがき苦しむようにマスクを外した。マスクが無くてもレギュレーターが有れば呼吸は出来るので、決して慌てる必要など無い。しかし、パニックを起こしたダイバーは、そんな当たり前の判断すら出来なくなってしまうのだ。

 祐介は琴美の肩を掴んで揺すった。

 「こっちを見ろ! 琴美! 落ち着け!」

 しかし琴美には、自分が置かれている状態が判断できるほどの冷静さは無く、代わりに海という容赦無い自然の冷酷さに圧し潰されていた。琴美はマスクに次いでレギュレーターも自らの手でむしり取り、水面に向かって一気に泳ぎ出した。典型的な症状だ。座学で習った通りのパニック行動であった。

 ここは、たかだか水深3メートルである。多少無理してでも水面まで浮上してしまえば溺れることは無い。しかし、運悪くパニックを起こしてしまった初心者ダイバーが、そのように救助されたとしても、その心には「恐怖」の二文字が刻みつけられて、二度と潜れなくなってしまうことが有るのだ。再び潜れるようになるにしても、その「恐怖」を克服するには、とてつもなく長い訓練が必要となってしまう。そうならない為にも、その「恐怖」を、この水中で抑え込む必要が有る。パニックを克服するのは、この水中でなければならないのだ。ダイバーとして一皮剥ける為には、その成功体験による自信が必要だった。

 祐介は琴美の肩を、ことさら強く揺すった。そして自分のレギュレーターを咥えさせ、再びその肩を揺すった。マスクを外し、水中でぼやける琴美の目が祐介を見た。肩で息をしている。状況を理解しようと、琴美の頭は秩序立てた思考を取り戻そうと戦っていた。祐介は暫くその様子を観察し、ゆっくりと琴美の口からレギュレーターを外し、今度は自分が咥えた。その交換を何度か繰り返し、次に琴美がむしり取った自身のレギュレーターを、琴美の口に咥えさせてやった。琴美の目は、今度はしっかりと祐介を見据えていた。

 その時、琴美が投げ捨ててユラユラと沈みつつあったマスクを回収したインストラクターが、二人の元へやってきた。琴美はそれを付けた。既に落ち着きを取り戻しつつある様だ。祐介は、わざと自分のマスクの中に水を入れ、そして習ったはずのマスククリアを実演して見せた。それを見た琴美は、若干まごつきながらもマスククリアを行った。琴美はパニックから生還した。

 それ以降の海中実習では、琴美がパニックを起こすことも無く、最終日に至っては、海に潜ることを楽しめる様にすらなっていた。心配してくれていたインストラクターも、これなら大丈夫と太鼓判を押してくれた。そして二人はめでたく、Cカードを取得した。


 その夜、詩織も加えて三人で、小さなパーティーが開催された。少しぎこちない琴美の様子に心配していた詩織も、最終日の溌溂とした様子に胸を撫で下ろしている様だ。そこにはきっと、祐介のサポートが有ったからなのだろうと感じた詩織は、再び彼に感謝の意を新たにしていた。

 そんな詩織の気持ちに気付くことも無く、祐介は牛タン定食のライスをお代わりした。琴美はテールスープのお代わりだ。つられて詩織も。生ビールを追加オーダーした。

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