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 篠崎運送、それが佳澄の実家の家業である。市内ではそこそこ有数の会社で、かなり手広く事業を展開していた。佳澄の父、篠崎晋三が山下医院を訪れたのは、とある衆議院選挙の時。兄、つまり佳澄の叔父にあたる金子純一郎が地元の栃木2区で出馬し、その選挙活動の一環としてであった。『公産党の金子をよろしくお願いします』みたいなヤツだ。建設・運送の族議員である兄、金子純一郎と、その地元栃木で運送業を営む弟、篠崎晋三。持ちつ持たれつの醜悪な関係性が、そこに存在していることは想像に難くない。晋三にしてみれば、地元の有力病院で票集めが出来れば、兄の当選に向けて弾みが付くと考えたのであろう。自他認める『地元の名士』である自分が直接、足を運んでいるのだから、それなりの待遇を受けるべきだと本人は思い込んでいたのが事の始まりである。全ての人間が晋三のことを『地元の名士』だとは考えていなかったのである。


 「篠崎運送の篠崎ですが、山下院長にお取次ぎ願います」

 「診察券をここに入れて、そちらでお掛けになってお待ちください」受付をしていた医療事務の女性は、そう言って長椅子のほうを指差した。

 「いやいや、私は患者ではありません。院長様に用がありまして」

 「えぇっと・・・ どちらの篠崎様でしょうか?」

 この時点で晋三は、自分をチヤホヤしない女に対して腹を立て始めていた。だが『地元の名士』たる自分が、些細なことで事を荒立てては名前に傷が付く。怒りをグッと飲み込みもう一度言った。

 「篠崎運送の篠崎です。山下院長にお話したいことがございまして」

 「ご用件は何でございましょうか?」

 晋三の顔は真っ赤に染まった。怒りで体がワナワナと震えた。もう少しで大声を上げそうになったが、受付の順番待ちをしている老婆の存在に気付き、慌てて窓口を譲った。

 「あっ、お先にどうぞ」

 老婆の受付が完了するまで、隣で待っている間に気を落ち着けた晋三は辛抱強く事に当たった。

 「山下院長に直接お話ししたいことがございまして、参ったわけです。院長にお取次ぎ願えませんでしょうか?」

 しかし受付女性の対応は冷淡を極めた。

 「アポイントは御座いますでしょうか?」

 遂に晋三の忍耐は、その限界を超えた。アポイントも無く飛び込みで来る方が悪いことは判っている。だが自分は篠崎運輸の篠崎晋三だぞ! 『地元の名士』だぞ! あの公産党代議士、金子純一郎の弟だぞ! これが自分に対する正当な扱いだとは、到底思えなかった。気付いた時には、晋三は大声を上げていた。

 「俺が用が有ると言ってるんだ! さっさと取り次がんか、このバカ女! 俺を誰だと思ってるっ!?」

 病院の受付には、このような理不尽な怒りをぶつけてくる年寄りが意外に多い。受付女性もその辺の扱いには慣れたものだ。

 「それでは診察券をお作りしますね~。おじいちゃん、保険証は持ってきたぁ?」

 「こっ・・・ ばっ・・・」

 怒りのあまり言葉を失う晋三の肩越しに、後ろから受付女性に声を掛ける者が居た。

 「いったい何の騒ぎだ?」

 「あっ、院長。この患者さんが院長と話したいってきかないんですぅ」

 晋三は振り返って、ポカンとした顔でその男の顔を見上げた。院長の山下勲であった。身長160センチ程しかない晋三に対し、およそ180センチはありそうな山下が、怒りで頭から湯気を立てている目の前の小男を見下ろしていた。


 院長室に招き入れられた晋三は、己の虚栄心が満たされたことによって、再び冷静さを取り戻していた。院長室には大きな執務机が有ったが、晋三が座っているのは、その前に置かれた豪華な革製のソファである。壁には何やら高名な画家の作品であろうか、見たこと有るような無いような絵が飾られていた。生まれてこの方、一度も芸術などに興味を持ったことの無い晋三には、それが水彩画なのか油絵なのかすら判らなかった。

 事務方の別の女性がコーヒーを運んできて、晋三と勲の前に置いた。うやうやしくお辞儀をして退出する姿は、再び晋三の慢心を満足させた。

 差し出された名刺を見ながら、先ず勲が聞いた。

 「さて、篠崎さん。本日はどういったご用件でしょうか?」

 晋三はすかさず、持ってきたショルダーバッグの中から茶封筒を取り出し、テーブル上に置いた。中には書類らしきものが詰まっているらしく、かなりの厚みだ。晋三が茶封筒の中から引っ張り出したのは、金子純一郎の選挙ポスターと公産党の機関紙の束だった。

 「次の衆院選では、金子純一郎をよろしくお願い頂きたいと思っております」

 そう言って晋三は頭を下げたが、その目は上目遣いで相手の顔を覗き見るような仕草だった。退屈な時代劇で、悪代官にすり寄る越後屋だか越前屋だかの様な風情だ。

 ところが、そんな晋三の顔を冷めた表情で見返す勲の対応は、にべもないものであった。

 「ウチは共明党支持なので、金子氏に票を入れることはあり得ないし、病院職員に公産党の機関紙を読ませるつもりも有りません」

 「へっ?」

 晋三は狼狽した。想像もしなかった反応が返ってきて、その意味を理解することを脳が拒否しているかのようだ。「ふっふっふ、おぬしもワルよのぅ」「魚心あれば水心、と言うではありませんか」みたいな展開を想定していたのに、一体、何が起こったというのだ? その停止した思考回路に、勲の言葉が更に追い打ちをかけた。

 「高齢者の医療費自己負担を増やす国民健康保険法の改定に前向きな公産党支持者は、ウチの病院の敷居を跨がないでもらいたい」

 晋三は眼を見開いて、口をパクパクさせた。言葉が出てこなかった。自分がこのような状況に置かれていること自体、信じられないことであった。そもそも、医療費がどうのという話は聞いたことも無いし、興味も無い。晋三にとっての政治とは、いかに自分が儲けるかという話以外の何物でもなかったのだから。

 「ということで、お引き取り願えますかな、篠崎さん?」


 この大恥をかかされた一件以来、篠崎の方では山下をこころよく思ってはおらず、何かにつけ山下医院のことを敵視するようになっていたのであった。

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