第四章:山下家

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 「ただいまー」

 琴美がリビングに顔を出して言うと、母の加奈子が小さな声で「おかえり」と応じた。何だか空気がピンと張りつめているような気がした。そして琴美は、その理由を直ぐに理解した。この時間には珍しく、父の勲がリビングのソファに腕組みをして座っていたのだ。

 琴美がそのまま二階の自室に行こうとした時、勲が言った。

 「琴美、ちょっとこっちに来て座りなさい」そう言って、自分が座る向かいの席を指差した。リビングのテーブルには、琴美がアマゾンで取り寄せた海外のダイビング雑誌が封を切って置かれていた。琴美は黙って勲の向かい側に座った。

 「学校から連絡が有った」

 「はい・・・」琴美には、何の件か直ぐに判った。やはり担任から報告が入ったのだろう。綾子に期待した自分の愚かさを知った。

 「バイトしてるそうだな」

 「はい・・・ でも、もう辞めました。青木先生に見つかって・・・」

 加奈子は気を使ってか、いつもより静かに台所仕事をこなしていた。心なしか遠慮気味に流される水道の水音と、時折、食器同士がぶつかるカチャカチャという音が、躊躇いがちにリビングを満たした。

 「必要最低限のお小遣いは渡しているはずだが、どうしてバイトなんかやっていた?」

 「ダイビングライセンスの講習を受けようと思って・・・」

 「ダイビング? これか?」

 そう言って勲は、テーブルの上の雑誌を指先でトントンと叩いた。まるで汚らしい物でも触るかのように。そして吐いて捨てた。

 「下らん! そもそもお前に、そんなことをやっている暇が有るのか? 成績だっていまだに『中の上』ってレベルだろ? もっと他にやることが有るんじゃないのか?」

 「はい・・・」

 「お姉ちゃんを見てみろ。ちゃんと私の言う通り勉強して、立派に聖愛女子医大に受かっただろ。今はインターンで大学病院に務めているが、インターン明けにはウチの病院に戻らせるつもりだ。ウチの眼科を任せることになる」

 「・・・・・・」

 「なのにお前は・・・ そんなことで医学部に入れるとでも思っているのか?」

 そこまで聞いて、流し台の前に居た加奈子が、たまらず助け舟を出した。

 「お父さん。詩織と琴美を比べちゃ可哀そうですよ」

 「何が悪い! 同じ親から同じDNAを受け継いでいるんだ。詩織に出来て、何故琴美に出来ない! こいつは真面目に取り組まないから、いつまで経っても負け犬なんだ!」

 加奈子は黙って引き下がった。勲は再び琴美に向き直った。

 「お姉ちゃんが高一の時に何て言って来たか判るか?」

 「いいえ・・・」

 「詩織は自分から『学習塾に通わせてくれ』と言ったんだ。成績が思うように上がらなくて、自分から言ったんだぞ! それだけじゃなく、普段からも私の言いつけ通り毎日勉強したからこそ、今の詩織が有るんだ」

 「・・・・・・」

 「それなのにお前は何だ? どうでもいいことにうつつをぬかしおって! だいたい、ダイビングなんかやって何の足しになると言うんだ? 水に潜ることで、お前の将来に何の得になる? そんな物、バカがやることだろ!」

 「何もそこまで言わなくても」加奈子はタオルで手を拭きながらソファにまでやって来て、テーブルの上の雑誌を取り上げると、パラパラとめくって言った。

 「ほら、これなんか物凄く綺麗な写真よ。お父さんも見てみて下さい」

 「断る!」

 「えっ?」勲のあまりにも子供染みた態度に、加奈子は逆に驚いた。その幼稚で意固地な物言いは、会話や議論を前提とはしていない。単に相手を否定することだけが目的となっていた。

 「断ると言ったんだ。そんな下らん物、見る意味も理由も無い。どうして私が、そんなバカみたいな雑誌を見なきゃならんのだ? それを見た私が『おぉー、こりゃ綺麗だ』とでも言うと思ったのか? バカバカしい。誰が何と言おうと、私はそんな物は絶対に見ん! 見るわけが無い!」

 先に席を立ったのは勲であった。これ以上話すことは無いと思ったのか、もう話す気にもなれないと思ったのか、琴美には判らなかった。

 「バイトしたけりゃ校則が認めている範囲でやりなさい。ただし、自分の貴重な時間を下らないことで浪費することが無いよう、充分考えて行動すること! 今の自分に一番必要なことは何かを考えろ!」

 勲はそのまま自室に引き上げた。琴美はただ俯いていた。加奈子はおずおずと台所に戻り、恐る恐る声をかけた。

 「琴美ちゃん、先にお風呂入っちゃいなさい」

 詩織に直接逢って、色々話がしたいと琴美は思った。優秀で優しい姉。詩織はいつだって琴美に優しくしてくれた。姉と最後に話したのはいつだっけ? 思い出そうとしたが、どうしてもそれが思い出せなかった。

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