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 その日の朝の申し送りが済んだ後、綾子は学年主任に声をかけた。

 「相談って何でしょう、青木先生」

 そう言う尾鳥の口から溢れ出る得体の知れない物に、綾子は嫌悪を覚えた。それは目に見えぬ透明な物であったが、確実にそこに存在していた。尾鳥の醜い歯の間から流れ落ちて床に広がったそれは、ドロドロと綾子の足元を埋め尽くし、樹上の鳥の巣を狙う蛇の如く、綾子の脚に絡みついた。

 「あの・・・ 実は私のクラスの生徒に、アルバイトをしている生徒が・・・」

 「ほう、それは大変なことです。我々がどう対応すべきか、教頭を交えて相談せねばなりませんね」

 そしてその透明な汚物は、彼女のふくらはぎから太腿、腹から胸へとヌメヌメと登り詰めた。そして遂に首に巻き付くと、その醜悪な口を開けて耐え難い悪臭の息を綾子の耳に吹きかけた。その時、綾子は悲鳴を上げた。しかしその声は誰にも届かず、暗く沈んだ水を湛える心の深淵に吸い込まれるように消えていった。そして綾子は言った。

 「はい。よろしくお願いします」


 例によって教頭室で三人は顔を突き合わせていた。綾子は、自分がこの二人と同類の人間であるということが耐え難い苦痛であったはずだが・・・ と思った。そして、いつの間にかそういった自分を受け入れるようになっていることに気付いていた。

 「私としましては、事を荒立てることなく、二人のご両親からよく言って聞かせて頂くようにお願いするべきだと思います。それが二人にとっても最良の判断かと」

 尾鳥は、さも自分が生徒のことを第一に考えているというポーズで言った。ただ、その言葉を真に受けるほど自分は初ではないと感じられることで、辛うじてまともな部分が自分の中に残っていることを確認出来て、少しだけ安心する綾子であった。

 「あくまでも最終判断は、担任である青木先生の裁量にお任せいたしますが、どのようにお考えですか?」

 続けて問う尾鳥の言い草では、最終的な責任は綾子に有ると言っているのに等しい。それを感じて腹立たしさを感じずにはいられなかったが、担任が責任を持つという点は、何ら非難を受けるべき考えではないだろう。それにしても、自分の考えを押し付けつつ責任だけは回避するという、尾鳥の姑息なやり口に怒りが首をもたげるのを感じる綾子であった。

 「ご両親にはお伝えせず、学校内だけで対処するという選択肢は無いのでしょうか?」

 両親に知らせることで、二人が酷く叱責されたりしないかと考えた綾子は、躊躇いがちに聞いた。

 「それはどうでしょう?」

 そう言った提言に対する答えを、尾鳥は既に用意していたようだ。

 「もし、別の線で本件がご両親の耳に入ったとしたらどうしますか? 学校は知っていながらご両親への報告を怠ったことになりませんかね?」

 「はぁ、それは・・・」

 「もしそうなった場合の責任を青木先生、貴方が取れますか?」

 訳も無く尾鳥の意見に逆らいたかった。だが、そんな気持ちを抑え込むことで、この学校における自分の立ち位置がより強固になってゆくのを感じる。綾子は言った。

 「尾鳥先生のおっしゃる通りだと思います。この件は二人のご両親に委ねましょう」

 それを聞いた尾鳥は大きく頷いた。二人の会話を傍で聞いていた教頭も大きく頷いた。綾子は「黙っててあげる」と琴美に言ったことを思い出したが、そのことで罪悪感を感じるのはやめておこうと思った。綾子が罪の意識に苛まれたところで、誰も得する人間は居ないのだから。

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