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 「祐介、コレ。店長にお願いして一冊だけ借りて来た」

 そう言って琴美が差し出したのは、ダイビング・マガジンの最新号だった。

 「おぅ、サンキュ。琴美も見るだろ?」

 「うん」

 二人が居るのはバイト先の休憩室だった。地元書店の倉庫での、雑多な整理作業というのがそのバイト内容だ。その店は書籍だけでなく、レンタルCD、DVDのほか、文房具なども扱う大型店舗で、その一角にはコーヒーショップなども併設されていた。その店頭の書籍コーナーに並ぶはずの雑誌の中から、一冊だけ借りて来たという具合である。祐介だけでなく、女子の琴美までもそういった地味な裏方作業を選んだのには理由がある。まず第一に、肉体労働の方がバイト代が高く、短期間に稼ぐことが出来るから。そして第二に、二人が通う高校では夏休みなどの長期休暇以外は、基本的にバイトが禁止されているからだ。ハンバーガー・ショップの様な、人目に触れる華やかなバイトは出来なかった。

 二人して雑誌を覗き込みながら琴美が聞いた。

 「ねぇ、幾ら溜まった?」

 「う~ん、3万5千円くらいかな」

 「えぇ~。もうちょっと溜まってるはずじゃない?」

 「しょうがねぇだろ。TRI4THの新譜とか、ダウンロードしたんだから」

 「ダメだよー、無駄遣いしちゃぁ。そんなんじゃCカードの講習受けられないよー」

 「大丈夫だって! ちゃんと残業で埋め合わせるから」

 「ホントかなぁ・・・」

 その時、休憩室のドアを開けて店長が顔を覗かせた。

 「琴美ちゃーん、チョッとフロアお願いできるかな?」

 休憩室で祐介とくつろいでいた琴美に、お声が掛かったのだ。

 「はーぃ、判りましたー」

 琴美は直ぐに応えたが、祐介の表情が険しくなった。

 「大丈夫か、人前に出て? ウチの学校、バイト禁止されてるんだぜ。誰かに見られたら・・・」

 「大丈夫っしょ、チョッとなら。学校にはダマでバイトしてるってことは、店長も知ってるんだし」

 ダイビング・マガジンを祐介に手渡すと、琴美は休憩室を後にした。それを祐介は、不安そうに見送った。


 琴美がレジカウンターの横で棚の整理をしていると、その後ろを通り過ぎようとした客が立ち止まった。

 「山下さん・・・ あなた・・・」綾子であった。

 「先生・・・」琴美は言葉を飲んだ。

 「バイトは禁止されているの、知っているわよね?」

 「はい・・・ すいません・・・」

 「ご両親はこのこと知ってるの?」

 その時、店長が外出先から戻って来た。二人の緊迫した様子に気付いた彼は、ドギマギしながら近づいた。

 「あの~・・・ どうかいたしましたでしょうか?」

 琴美が言った。

 「こちら、担任の青木先生です」


 店先ではなんだから、という店長の配慮で、二人は休憩室へと向かった。店長は琴美よりも青い顔で、それを見送った。それは、倉庫業務しかさせないという琴美との約束を破って働かせ、学校にバレてしまったことに対する罪の意識からか、あるいは禁止されていると知りながら、高校生を働かせた書店に対する学校側の対応を恐れてのことなのかは琴美には判らなかった。おそらく後者の方であろう。先ほどまでそこに居た祐介は休憩を終わらせ、既に倉庫の方に出払った後であった。琴美は、彼がここに居なくてよかったと思った。

 「このことは、あなたのご両親はご存じなのかしら?」

 綾子は休憩室のパイプ椅子に腰かけると、店頭での質問を繰り返した。その椅子は、先ほどまで祐介が座っていたものだ。琴美はもう一つの空いた椅子に座ると、俯きながら答えた。

 「いいえ、知りません」

 綾子の溜息混じりの声が漏れた。チョッと考えてから続けた。

 「どうしてお金が必要なの?」

 確か琴美の家は、市内でも指折りの開業医だったはずだ。経済的に何らかの問題を抱えているとは考え難い。もし本当に必要な金であれば、親が出してくれるだろうに。

 「ダイビングのライセンスを取ろうと思ってるんです。クジラと一緒に泳いでみたくって」琴美は正直に答えた。

 「クジラ?」綾子の声が1段階、跳ね上がった。

 「講習とか受けるのにお金がかかるんです」

 琴美にそんな趣味が有るとは知らなかったが、それを親に黙っている理由も判らなかった。だからダイビングの雑誌を学校に持ち込んでいたのか。綾子は、職員室で祐介から相談を持ちかけられた時のことを思い出した。それと同時に、あの件に関しては、実は何もやっていないことにも思い当たった。祐介には「任せて」という様なことを言ってしまった気がするが、実際、綾子は琴美の為に何もしていなかった。学年主任らの圧力に押され、その意向に沿うように立ち回っただけで、彼女のことなどこれっぽちも考えていなかったことに、今気付いたのだ。若干、罪滅ぼしの気持ちが湧いた。

 「判りました。じゃぁ、この件は学校には黙ってて上げる。ただし、今すぐにバイトは辞めなさい。さすがにそこまでは黙認出来ないわ」

 「はい・・・ 判りました」そう言うと琴美は更に俯いた。

 「お店の人には、ちゃんと説明しておくのよ」

 綾子は席を立った。琴美は顔を上げようともしなかった。休憩室を出る際、机の上にダイビング・マガジンが有ることに気付いた。そしてドアを開けようとした瞬間、祐介が入って来た。

 「琴美、居るかー・・・ あっ」

 「並木君・・・」

 綾子が振り返ると、顔を背けて座る琴美が居た。彼女は何も言葉を発しなかった。ほんの少しの間、重苦しい時間を三人が共有した後、綾子は黙って祐介の前を通り過ぎた。休憩室を後にする綾子を、祐介は睨みつけていた。歩きながら綾子は思った。この状況は、琴美のシューズが水浸しにされた事件の再現フィルムの様ではないかと。そして、二人と自分の間を分かつように横たわる淀んだ沼の底に、自分の口から漏れ出た言葉が滓のように沈殿している風景が心に浮かんだ。以前、職員室で祐介に伝えた言葉。あれは、今となってはただの嘘でしかなかった。


 綾子が去った後、祐介は琴美の隣に腰かけながら言った。

 「だから言ったじゃん、ヤバイって」

 「う、うん・・・」

 「厄介なことにならなきゃいいけど・・・」

 「学校には黙っててくれるって言ってくれたよ、青木先生」

 そう返しながらも、琴美自身がそれを信じているわけではなさそうだった。

 「それ信じられんのかよ? 俺、青木のこと、もう全く信用してないから。てか、一番信用しちゃいけない奴じゃね?」

 「やっぱ、そうなのかなぁ・・・」

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