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 二人の交際は続いていた。東京に軸足を置いている進次郎であったため、その頻度はさほど高くはなかったが、父、金子純一郎のおひざ元である栃木に来る度に、彼は綾子を連れ出してレストランなどで食事をした。進次郎に連れられて訪れる店は、どれも綾子が入ったことの無いような高級店で、ドレスコードが有る様な店ばかりであった。それらは綾子の知らなかった華やかな世界であり、自分がそういった店に出入りしていることが、なんだか儚くて脆い夢のように感じられた。これがいつまでも続くのだろうか? そんな筈は無いという考えも、心の奥底にこびり付いて離れなかった。

 そもそも、どうしてウチの学校と金子代議士との間にコネクションが有るのか判らなかったが、あの校長室での顔合わせは、一種のお見合いのような物であったことが判る。では、何故自分だったのか? 自分が、校長のお眼鏡に適って紹介されたとは思えないし、やはり金子氏側が青木綾子という女を『指名』してきたと考えるのが自然だ。

 「前から気になってたんですが・・・ 進次郎さんはどうやって私を知ったのでしょうか?」

 「それは簡単なカラクリです。たまたまですが、父の筋から作星学院の機関誌を見る機会が有りましてね。そこに掲載されていた写真・・・ 確かクラブ活動の紹介写真だったと思いますが、そこに映り込んでいた綾子さんを見かけたのですよ」

 「それで私を?」

 「えぇ。学校の視察というのは言い訳です。舟木校長に無理を言って綾子さんをご紹介頂いたというのが真相なんです」

 そう言って進次郎は照れたように笑った。確かにそういったことも有るかもしれないと思った。そのような小さなきっかけで、代議士の息子と親密な関係になるとは、人生なんて解らない物だとも思った。ただ、それが自分にとって幸運なのかと問われると、自信を持って肯定できないような気がした。これは自分が求めていた物なのだろうか? それに、何か重要なことを見逃している様な気もした。


 食事を終えて、レストランに併設されたバーで軽くワインを飲んでいる時であった。進次郎が問うた。

 「綾子さんは、どうして教職の道を?」

 「子供が好きで」

 それは嘘ではなかった。確かに大学時代、子供が好きで教育者の道に憧れ、教職課程を専攻したのだ。だから「子供が好きで」というのは嘘ではないのだと、綾子は自分に信じ込ませようとした。でも今は・・・ そういう声が聞こえた。他の誰でもない、自分自身の内なる声だ。今の自分が、あの当時に理想として描いた教師像とはかけ離れていることを感じずにはいられなかった。生涯にわたって続く信頼関係を築いた恩師と生徒。そんなものはただの幻想であった。学校という排他的な組織に飲み込まれ、そこで要領よく立ち回ることで精一杯だ。大学卒業当時の夢や希望は打ち砕かれ、日々の雑多な職務に追われるのみで、生徒のことなど考えている暇は無い。自分を犠牲にしてまで教育に尽す教師という理想像は、気まぐれに吹く風に煽られた砂埃に映り込む影の様なものだ。何かの弾みで姿を現す幻想でしかなく、それは実体を伴わない。教師という職業は、そんな甘っちょろいものではなかった。

 自己嫌悪にも似た感情が湧き上がるのを抑え切れない綾子は、話題を変えることで考えることを放棄した。

 「私なんかのことより、進次郎さんの話を聞かせて下さい」

 「僕ですか? 僕の話なんかつまらないですよ」

 そう言いながら、自分の話をする機会を窺っていた様子であった。自分の華麗な経歴と、前途揚々な将来をについて語れば、どんな女だって心を動かさざるを得ないはずだし、実際、今まではそうだった、という鼻持ちならない自信というか、不遜な態度を感じ取った綾子であったが、それを口にすることはしなかった。だって自分が、人のことをとやかく言えるほどの高潔な人間ではないことは、自分が一番よく判っているのだから。

 「今は都内の一般企業で武者修行中なんですが、いずれ国政に打って出るつもりです」

 自信に満ちた態度で、進次郎は高らかに宣言した。公産党の有力議員の息子ということで、地方行政からの下積みを経るとか、行政官庁で事務方としての経験を積むとか、最低でも父親の秘書として実績を上げるとか、そういった立身の苦労を知ることもなく、いきなり国政選挙に立候補するというのは、単に『親の七光り』と呼ぶのではないかという気もしたが、それに関しても綾子は発言を控え、代わりにこう言った。

 「それは素晴らしいです。きっと進次郎さんの様な誠実な方ならば、支持して下さる方も多い筈です」

 にこやかに言いながら綾子は、微かな吐き気をもよおした。


 食事の後、運転手付きの高級車で進次郎が送ってくれた。家の前まで送ると言ってきかなかったのだが、「ちょっと買い物がしたい」と嘘をついて駅前のロータリーで降ろして貰った。「じゃぁ買い物が済むまで待っています」と食い下がる進次郎を追い払うのに苦労してしまったが、本当は買い物などしたくは無いのだ。自分の本心を隠し、上っ面だけを繕った騙し合いの様な会話に、なんとなくモヤモヤした感情が鬱積して、そのまま自宅に帰る気になれなかっただけなのだ。そんな嘘で塗り固めたでまかせが、しゃぁしゃぁと流れ出る自分の口にも驚いたし、自身ですら気づいていなかった己の本性が垣間見えた様な気がして、憂鬱な想いが沸き上がるのを抑えられなかった。いっそのこと、何処か静かな店で一人飲み直したい気分であったが、あいにく綾子には、そういった習慣が無い。一人でフラリと飲みに行ける男性が羨ましかった。かといってコンビニで買い込んだビールを、自宅でテレビを見ながら一人で飲む気にもなれない。奈穂美を電話で呼び出そうかとも考えたが、学生時代ならいざ知らず、社会人になってまで先輩の都合で後輩を連れ回すような体育会系のノリは、綾子に馴染みのある付き合い方ではなかった。綾子は一度は手にしたスマホを、再びバッグに仕舞った。結局、目に付いた書店にフラフラと入って行った。

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