3

 数日後、いつもの朝の風景がそこには有った。

 「やっべー、遅刻だ!」

 祐介が教室に飛び込んだ時、クラスメイト達は既に席に着いて教師が現れるのを待っている状態であった。

 「遅ぇよ、祐介!」基也の元気な声が飛んだ。皆がクスクス笑った。

 「ギリ、セーフ!」

 そう言いながら自分の席に座る際、祐介は琴美の肩をポンと叩いて、「押忍!」と挨拶をした。琴美は小さな声で「おはよう」と返した。

 暫くすると、担任の綾子がやって来て、朝のホームルームが始まった。期末試験に向けた叱咤激励に次いで、秋の学校祭に関する注意事項やらが周知された。

 その時、ある女子生徒が声を上げた。

 「センセー、山下さんがオシッコ漏らしましたー」

 篠崎佳澄の声だった。教室中がドッと湧いた。

 「ギャハハハハ」

 「マジ、ウケるー」

 いつも佳澄とつるんでいる女子生徒数人が、大袈裟に騒ぎ立てた。驚いた祐介が振り向くと、椅子に座ってジッと俯く琴美が居た。その足元は何かの液体で、丸く水たまりの様になっていた。彼女のシューズはその水たまりの中に有ったが、祐介は直ぐに気が付いた。濡れているのは琴美のシューズだけだ。琴美はそれを履いておらず、彼女の脚は水溜まりを避けるように、その手前にちょこんと揃えられていた。祐介は全てを理解した。誰かが下駄箱の中に有った琴美の上履きをビショビショに濡らしたのだ。そしてそれは、篠崎佳澄とその一派の仕業であることも。それを履くわけにもいかず、手に持って教室まで来た琴美は、びしょ濡れのシューズを足元に置いていたに違いない。しかし濡れたシューズから染み出た水が、ジワジワと広がって水溜まりを作り、あたかもオシッコを漏らしてしまった小学生のようになっていたのだ。

 教室の喧騒は収まらなかった。誰もが勝手に騒いでいた。

 「ちょっとぉ、アイツ、ヤバくない?」

 「アハハハハ」

 「お子ちゃまかよーっ!」

 佳澄たちの執拗な嘲りは続いていた。祐介が両手で机をバンと叩いて立ち上がった拍子に、椅子が大きな音を立てて倒れた。教室中が水を打ったように静まり返った。何処からともなくひそひそ声が聞こえた。

 「何マジんなってんの、並木のヤツ」

 「アイツ、山下と付き合ってるらしいぜ」

 「えぇーっ、マジー?」

 祐介がクラスメイトたちを睨み返すと、そのヒソヒソ話は止まった。綾子がツカツカと琴美に歩み寄った。そして濡れた足元を見てため息の様なものを漏らすと、何も言わず振り返り、教壇に向かって歩き出した。その際、一瞬だけ祐介と目が合ったが、綾子はそれに気付かない振りをして教壇に戻った。

 「学園祭の出し物を決めたいと思いますが・・・」

 それを聞いた祐介の頭に血が上った。琴美の言う通りだった。「無駄だよ」「何もしてくれないよ。してくれるわけ無いじゃん」琴美を思いやる様な態度をとっていたのは、俺を騙す嘘だったのか? 最初から琴美の為に何かをしてくれるつもりなんて無かったのか? 絶望にも似た気持ちを抱えながら、祐介は琴美の腕を掴んで立たせ、そのまま廊下に向かって歩き出した。

 「基也、お前のバッシュ借りるぞ!」

 「あ、あぁ、部室に有るよ。場所判ってるよな?」

 それには応えず、祐介はズンズンと歩いた。腕を引っ張られる形でそれに続く琴美は、ただ俯くだけだった。琴美が手に持ったびしょ濡れのシューズから水が滴り落ちた。二人の通り道の脇に座っていた男子生徒が、それを見て言った。

 「うわっ! 汚ぇ!」

 祐介が男子生徒を睨みつけると、そいつは首をすくめて視線を逸らした。誰もが、それが尿ではないことは承知していた。しかしクラスの「流れ」から、皆がそれを尿として扱うことで暗黙の合意がなされていた。その男子生徒も、その合意に従ったまでだ。

 二人が教室を出ようとしても、綾子は何も言わなかった。それを黙て見送った後、綾子は教室に残った生徒たちに向かってこう言った。

 「学園祭の出し物、何か希望は有りますか?」


 バスケット部の部室のベンチに座り、琴美はハンカチで手を拭いていた。その横で祐介は、基也のロッカーを探し当て、そこから練習で使っているバスケットシューズを引っ張り出した。それを琴美に手渡しながら言った。

 「ゴメン、琴美の言う通りだったよ」

 「何が?」

 「青木だよ! 何にもしてくれねぇ! アイツ、最低な奴だよ!」

 「そんなこと無いよ。青木先生、いい人だよ」

 「んなわけ有るかよっ! 琴美がこんな目に合ってるのに、何も言わなかったんだぞ!」

 「ううん、青木先生、いい人だよ。森下先生も、小野先生も、みんな個人的にはいい人だよ」

 「個人的には?」

 「そう、個人的には」琴美は続けた。

 「一対一ならいい人なんだよ、教師って。でも学校っていうか、組織が絡んでくると、やっぱりそっちを優先しちゃうんじゃないかな。先生たちにも生活とか立場が有るから、しょうがないよ」

 「そんな言い訳が通用するのかよ!」

 そう言いながらも祐介は、そんな言い訳が通用することを知っていた。「確かにそうだ」という心当たりは枚挙にいとまが無かった。テレビなどで報じられるイジメや自殺のニュースを見ると、問題が発覚した直後に ――つまり、よく調べてもいない段階で―― 「学校側の対応に問題は無かった」などと平気で記者会見していたりするし、担任教諭が「体調不良」で入院し、マスコミの前から雲隠れする姿を見続けて来た。それは学校に限らず警察や一般企業でも同様で、当初は被害者に寄り添うような対応をしていたにも関わらず、裁判沙汰になったりすると途端に態度をひるがえし、証拠書類の隠蔽や改竄、破棄などが行われる。酷い時には、「非は被害者に有り」などと自己保身に終始するありさまだ。かと言って、普段接している教師や警官などの個々人が「悪人」であるはずも無く、結局、彼らが所属する組織に害をなさない範囲に限って言えば、彼らは皆「善人」なのであった。

 「クソツ!」祐介は拳でロッカーを殴った。

 「祐介・・・」

 以前、勢いでそう呼んだことは有ったが、琴美が初めて、祐介をちゃんと名前で呼んだ。さっき、自分のことを「琴美」と呼んでくれたことが、チョッとだけ嬉しかったのだ。

 「吉岡君のクツ、大き過ぎるよ。ほら」

 そう言ってベンチから立ち上がると、自分の足元を祐介に見せた。それを見た祐介は言った。

 「ホントだ。親父のクツ履いてる子供みたいだ。しかも臭ぇし」

 琴美がアハハと笑った。祐介も釣られて笑った。

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