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 「青木先生」

 学年主任の尾鳥であった。パーマをかけた頭髪を過剰な整髪料でオールバックに固め、ボリュームを抑え込んだ頭部が、血色の悪い大き過ぎる顔を更に強調していた。爬虫類の粘着性を想起させるその顔の質感は、見る者の嫌悪を誘う。顔に張り付けられた醜悪な両目は小さく、油で汚れて黄ばんだレンズの奥から不快な眼差しを投げかけていた。若干の鉤鼻の下には、しゃくれ気味の顎の上に乗った不格好に大きな口が有り、その口元から垣間見れる歯の隙間から覗く舌は、おぞましい生物の幼虫ででもあるかの様に、ネチネチとのたくっていた。

 「尾鳥先生、何でしょうか?」

 「先生の業務週報、読みました」尾鳥が言っているのは、各クラス担任が毎週末に提出する定期的な報告書のことであった。

 「はい・・・」

 「中に『イジメ』という記述が有ったのですが・・・」

 「はい、山下という女子生徒が・・・」

 「先生!」

 尾鳥は声のトーンを上げて、綾子の声を遮った。まるで、聞かれてはならない犯行計画を、迂闊にも口にしてしまった頭の悪い子分に釘を刺す様な、テレビドラマに有りそうなわざとらしい感じだ。

 「はい?」

 「軽々しくそういう言葉は使わないで下さい。軽率ですよ。そういうことが有ったかどうかも、まだ判らないんですよね? まさか、本当にイジメが有ったなんて思ってるんじゃないでしょうね?」

 綾子が書いたのは、本当に『聞かれてはならない』単語だったらしい。少なくとも尾鳥の価値観に則って言えば。

 「あっ、はい・・・ スミマセン・・・」

 「まず、そういった行為を裏付ける物的証拠が無いこと。第二に、被害者本人からの申し出が無いこと。さらに、加害者が不明なこと」

 「は、はい・・・」

 「以上の状況を鑑みると、学校としてはそういった行為が存在したと認めるわけにはいきませんね」

 いつになく早口でまくし立てる尾鳥が、いつもに増して高圧的な態度でごり押しをした。綾子は一応、言ってみた。

 「雑誌に落書きされてるのを見たという生徒が・・・」

 「それが証拠であると?」

 「そ・・・ それは・・・」

 「チョッとした悪戯でしょう。大袈裟に取り上げるほどの事ではないかと。それに学校としては、そういった雑誌の持ち込みは禁止しているハズです。この学校内に有ってはならない物が証拠になるなどということは有り得ません。もしそれが証拠だと主張するのなら、何故そういう雑誌が持ち込まれていたのかを、まず最初に調べる必要が有りませんか?」

 面倒臭くなった。自分が何を言ったって、聞いてくれる様子は微塵も感じられない。むしろ学年主任に目を付けられて、今後の仕事に支障を来たす方が問題だ。ここで自説を主張すること自体、得策とは言えないだろう。そういうことで、今日のところは納得しておくことにした。

 「はい、おっしゃる通りです」

 「だからイジメは無かったということでいいんですよね?」

 「はい、そうです」もう、それでいいと思った。

 「校則違反の雑誌を持ち込んだことは、この際目をつむりましょう。その生徒の・・・ 山下さんでしたっけ? 彼女のためにも。ですから、業務週報はお戻しします。適切な表現に書き直して再提出して下さい、青木先生」

 「承知いたしました」

 「あっ、それから、その落書きを目撃したという生徒には・・・」

 上司が求める答えを返すこと。それは社会人にとって、何よりも大切なことである。それは教育現場であっても例外を成すものではなかった。

 「ご心配には及びません。ちゃんと言っておきます」

 それを聞いた尾鳥は満足そうに頷いた。

 「この件に関しては、既に教頭先生のお耳に入れてあります。次の職員会議で『ちゃんとした』結果報告をお願いしますよ。経過報告ではなく、結果報告を」

 「はい。ご期待に沿うようにいたします」

 今は納得できないようなことでも、数年後には「言う通りにしておいて良かった」と思える時が来るのであろう。綾子はボンヤリと、そんな風に思った。

 「教頭先生も、青木先生には期待していらっしゃいます。お若いのに見込みが有るという様なことをおっしゃっていましたから。しっかりやって下さいね」

 「はいっ」

 「それでは、よろしく」

 立ち去る尾鳥の背中に向かって綾子は一礼した。自分の何が「見込みが有る」のか判らなかった。同時に「何かが違う」と感じたが、深く考えることはやめた。この職場では、そういった物事を掘り下げる行為が歓迎されないことは判っていたし、自分の為にもならないことも承知していた。またそれによって、何かがより良い方向に転じることも無いことは、まだ若い綾子にとってすら自明であった。

 子供が好きだからという理由で教師の道を選択したが、実際の教員現場の現状は、綾子が夢見ていた物とは程遠かった。今はその『現状』に適応することが彼女の最大の関心事であったし、それ以外のことは求められていなかった。それ以外のことをやらない人間が求められていた。

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