§2:帝国主義の央都

2・1

 三田女学館高等学校の音楽室に据え付けられたベヒシュタインのグランドピアノが、ショパンのピアノソナタ第三番ロ短調を奏でていた。1903年、私立の女子高として国内で一番最初に創立されたこの伝統ある高等学校も、先の大戦後に近代的なビルに建て替えられ、今では三田女の愛称で知られいる。しかし、その内部には至る所に重厚な歴史を感じさせる装飾が施され、名門校としての風格が凛とした空気感を醸し出していた。そんな中に有って音楽室は特に荘厳な雰囲気を纏い、そこに足を踏み入れた者全てに、厳かな気分を抱かせるのだった。


 背後から近づいて来た千夏に、背を向けたままの桃佳が言う。

 「私がショパンを弾いている時は、邪魔をしないでと言っておいたはずだけど?」

 若干、トーンを落としながらも、ピアノを弾き続ける桃佳に低頭しながら、副官の千夏が言う。

 「申し訳ありません、桃佳様。急ぎ、お耳に入れておかねばならぬ事案が発生いたしております」

 「何かしら?」

 チェックスカートと水色のリボンタイという、三田女の見慣れた制服を着た千夏に対し、桃佳の装いは、裾に一本の白線を擁した深紺のスカート、千夏のタイと同色のネクタイだ。それはこの三田女の正装制服である。

 「央都軍総司令官であり、統合参謀本部議長でもある私が、直々に判断せねばならぬ程の緊急案件だと?」

 「はい」

 「聞きましょう」

 そう言いながらも桃佳のピアノは第二楽章の転調を迎え、軽やかな旋律を奏で始めた。彼女の顔は黙想するかのように安らかだが、その表情とは裏腹に鍵盤上を疾走する指使いは超技巧とも言え、難易度の高い曲だ。

 「はい。月女(月島女子高等学校)が堕ちました」

 バァァァーーーン!!!

 桃佳が激しく鍵盤を叩き、凄まじい不協和音が音楽室に響いた。

 「何ですって?」

 しかし千夏を驚かせたのはその音ではなく、鬼のような形相でこちらを振り返った桃佳の表情にだった。彼女がこのように感情を露わにする時、必ずと言っていいほど、戦況が動くことを千夏は知っていた。


 「詳しく」

 桃佳は直ぐに平静さを取り戻したが、もうショパンを弾く気は無いようだ。

 「報告によれば、昨夜午前三時頃、北都政府軍が駐屯していた月女校内にて、大規模な爆発が有った模様です。そこから本日未明にかけて、同基地内にて小規模で散発的な銃撃戦が発生し、結果的に政府軍の一個中隊が壊滅しております」

 それを聞いた桃佳は、冷めた視線を千夏に返す。

 「貴方、私を馬鹿だと思っているのかしら? 小規模で散発的な銃撃戦で、どうして一個中隊が全滅するわけ? 確か月女は前線への兵装輸送拠点になっていた筈。その武器弾薬庫の爆発に巻き込まれたと言っているのだとしたら、貴方の報告はなってないわね。もう一度、士官養成コースから学び直すべきだわ」

 彼女の厳しい物言いはいつものことだ。千夏は臆することも無く報告を続けた。

 「いいえ、桃佳様。爆発したのは武器弾薬庫だけではありません。兵たちの眠る兵舎も同様に」

 桃佳が自分の肩に垂れた、サラリとしたストレートヘアーを後ろに跳ね上げると、彼女の切れ長の目がキラリと光った。

 「続けなさい」

 「敵の主要な目的は、月女の体育館に備蓄されていた物資の破壊であったことは明白ですが、兵員への攻撃も用意周到に計画されていたと見えます」

 「敵の正体は?」

 「残念ながら」千夏は一度、そこで言葉を切った。「最前線からは4.5kmほど入り込んだ立地のため、安心し切っていたのでしょう。政府軍は反撃の体勢を整える間も無く、いいようにやられたようです。従い、状況が見えるようになる頃には、敵は跡形も無く撤退していたとのことです」

 桃佳は呆れたような表情だ。

 「ったく、政府軍の間抜けにも程が有るわ。元々、月女は央都のメンバー校。私の恩情によってそこを間借りしていたくせに、まんまと潰されるなんて。あの愚図どもに、どうやって責任を取らせようかしら」

 「仰せの通りです」

 「それよりも何よりも、解放軍の田舎娘たちが、我が央都の区域内に土足で踏み込んできたのは許せないわ。あいつらにには、それ相応の報いを与えねば、央都軍の沽券に関わるでしょう」

 これには千夏もたじろいだ。性急過ぎる断定は、事態を悪化させかねない。

 「しかし桃佳様。解放軍の仕業という明確な証拠は見つかっておりません。当該区域の反乱分子による仕業という可能性も・・・」

 「貴方、それを本気で言っているんじゃないでしょうね?」

 ピシャリと言い放つ桃佳に、千夏が口ごもる。

 「は、はい・・・」

 「解放軍の仕業よ。間違いないわ。ほら、北都の肥溜めのような嫌らしい臭いがしなくって? 身分をわきまえないあいつらが、越えてはいけない一線を越えたのよ」


 確かに桃佳の言う通り、解放軍の仕業と考える方が理に適っている。しかし、央都が政府軍との同盟を表明して以来 ──その同盟締結すらも、桃佳の独断によるものだったのだが── 解放軍との関係は危ういバランスの上に成り立っている。結論を急ぎ過ぎてはいないか? 総司令官の思い込みによる暴走を止めることが出来るとしたら、それは自分だけなのだ。千夏は勇気を振り絞って持論を展開した。

 「今この微妙なタイミングで、解放軍がそこまで思い切った行動に出るものでしょうか? 月女と言えば隅田川に近く、かなり奥まったエリアに有ります。彼女らがここまで機動性に富んだ作戦を実行した例も、過去にはございませんが・・・」

 「ブルーフォースが動き出したのよ」

 「ブルーフォース?」

 千夏には聞き慣れない言葉だったが、桃佳はパズルのピースがピタリと嵌ったような感覚を覚えていた。彼女は再び鍵盤に向かうと、右手だけでポロロンと美しい和音を奏でた。

 「えぇ。二ヶ月ほど前、解放軍に新たに創設されたと噂される特殊部隊のこと。奴らが闇夜に乗じて侵入し、武器弾薬庫及び兵舎を爆破したものとみて間違いないでしょう」

 「もし桃佳様のお見立て通り、解放軍が我が央都内に侵入したのだとしたら・・・ 如何いたしますか?」

 「そうね・・・」

 桃佳が考え込む仕草をした時、音楽室のドアをノックする微かな音が聞こえた。それを聞きつけた千夏は、振り返りざまに大声で一喝する。

 「総司令官は今、お考え中だっ! 後にしろっ!!」

 しかし桃佳は、右手を上げて千夏を制した。

 「構わないわ。入らせなさい」

 「はい、かしこまりました」そしてもう一度、大声を張り上げた。「入れっ!」

 躊躇いがちに開いたドアの向こうに立っていたのは、まだ高1の新兵だ。

 「報告しろっ!」

 「よしなさい、千夏。怖がってるじゃない」

 「はっ」

 桃佳にたしなめられた千夏は引き下がったが、彼女の剣幕に押された新兵は恐る恐るの報告だ。

 「つ、月島女子高等学校の北政府軍、駐屯部隊長から謁見の申し入れです」

 「月女の? 桃佳様、先ほどの件と思われます」

 それを聞いた桃佳は、ダンッと立ち上がった。

 「応接室で会います。千夏、貴方も来なさい」

 「はっ」

 颯爽と歩きだした桃佳に付き従って、千夏がその後ろを歩き始めたのを見た途端、新兵は飛び上がるようにして校舎玄関に向かって駆け出した。桃佳が応接室に到着するよりも先に、来客を部屋に通しておく必要が有るからだった。

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