3

7月半ばまで、洋文は岐阜県に住んでいた。


三年間勤めていた会社を辞め、八月末までは有給消化という形で会社に籍だけはあったが、9月1日より無職になった。


39年の人生で、はじめて正規雇用をしてくれた会社だったが、絵に描いたようなブラック企業だった。

中小企業など、どこも同じものかも知れないが、休憩もろくにとれず、休日にも仕事の連絡が大量にLINEで送られてきて、まったく心や体が休まることはなく、心身ともに限界だった。


洋文がその会社に入社したのは三年前の4月だった。

愛知県を中心にゲームセンターを多数運営する会社だった。


洋文は、前職が別会社のゲームセンターでのアルバイトであり二年半の経験があったたため、実家の隣の市にある店舗に即戦力かつ社員候補のアルバイトとして入社した。


当時は、前職の会社で知り合った女性と、交際をはじめたばかりであった。

一年以内に必ず正社員になるから結婚を前提としたお付き合いを、と洋文は彼女に申し出、彼女もそれを快諾してくれた。

洋文が35歳、彼女は28歳だった。


洋文は、自分の人生は27~29歳の3年間がピークであり、30歳を過ぎてからの5年間をすでに余生と考えて生きていた。


ずっと自分は特別な存在だと思っていたし、彼にそう思わせるだけのそれなりの根拠もあった。

だが、どうやらそうではなかったということに、30歳になって気づかされる出来事があった。

何も成し遂げることはできず、何者にもなれなかった。

これから先の自分の人生に、楽しいことや幸せなことは二度と起こらないだろう、そんな風に諦めて生きていた。


そんな洋文を、彼女との出会いが変えてくれた。

自分はこの人と出会うために生まれてきたのだと思った。

この人と生涯一緒に生きていきたい。

幸せな家庭を築きたい。

そのためならどんなことでもしよう、きっとできる、と思った。


洋文は、5月の半ばを過ぎた頃、店長から呼び出しを受けた。

岐阜県にある店舗で契約社員の欠員が出ることになり、代わりの契約社員を探している、とのことだった。

岐阜に行けば契約社員になれるという。

入社からわずか1ヶ月半で訪れたチャンスに彼は二つ返事で岐阜行きを決めた。


休憩時間に、6月から岐阜の店舗で契約社員になれることが決まったと彼女に電話で報告すると、彼女は泣きながら喜んでくれた。


七つ年下で、面倒見が良く、優しく、一見気が強いが、それは見せかけに過ぎず、本当はとてももろい、背が小さく、かわいらしい彼女のことを洋文は本当に愛していた。


彼女も7月末で仕事をやめることを決め、8月から岐阜で同棲をすることになった。


洋文はいまだに思う。


あのとき、二つ返事で岐阜行きを決めなければ。

あのとき、彼女に仕事をやめさせてまで岐阜に来てもらわなかったら。


もしかしたら、今頃彼女と幸せな家庭を築くことができていたかもしれない。


たらればの話をしても、いまさらどうにもならないことではあったが、彼は選択を誤った。


洋文が39年の人生で一番後悔しているのは、そのことだった。







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る